第45話 王太子は痛みとともに立つ
「私から手を放せ」
王城地下の冷たい石畳の上で、レオニス王太子の低く、しかし絶対的な威厳を持った声が響いた。
セヴランの命令によって彼の両腕を拘束しようとしていた兵士たちが、その気迫に気圧され、思わず動きを止める。
「私の王位継承権を停止し、軟禁を命じることができるのは、この国の国王である父上ただ一人だ。一介の財務院総監に、王族の自由を奪う権限はない!」
レオニスは兵士たちを睨み据え、腰の剣の柄に手をかけた。
かつての彼なら、己の身の安全を第一に考え、権力者の言葉に流されていただろう。教会の『隠された奇跡』によって自分の痛みを辺境の民に押し付け、それに気づかないふりをして生きてきた。
しかし、第一部の裁判でノエラに真実を突きつけられ、自分のために苦しんでいた人々の姿を知った時から、彼は変わろうともがき続けていた。痛みを背負えば善人になるのではない。権限を分け合い、理不尽な犠牲を生まない仕組みを作ることこそが、上に立つ者の責任なのだと。
「近衛の者たちはいるか!」
レオニスの声に応え、暗がりから数名の近衛騎士が歩み出た。彼らはダリオがかつて育て上げた部下たちであり、王家への真の忠誠を誓う者たちだった。
「セヴラン総監。あなたの『国を救う』という覚悟は本物だろう。だが、独断で十万の民に犠牲を強いることは、王国の法と歴史が許さない」
レオニスは、冷ややかな視線を向けるセヴランに対し、真っ直ぐに言い放った。
「直ちに王城の大広間に、現在王都に滞在しているすべての諸侯を招集する。そこで、あなたの『強制案』と呪約監査院の『自発案』を公開の場で比較検討する。……王太子としての、これが最後の命令だ」
◇
ガンッ!
王立呪約監査院の正面扉を塞いでいた分厚い鉄板が、鈍い音を立てて外に倒れ込んだ。
外から差し込む眩しい朝陽に、私は思わず目を細めた。
「封鎖を解除する。レオニス王太子殿下より、呪約師ノエラ、調査官ダリオ、および書記見習いのミナに対し、王城の大広間への緊急出頭命令が出された」
扉を開けた兵士の言葉に、私とダリオは顔を見合わせた。王太子が、あの絶望的な状況からセヴランの拘束を跳ね除け、諸侯会議の場を強引にこじ開けてくれたのだ。
「行くぞ、ノエラ、ミナ。これが最後の戦いだ」
ダリオの言葉に、私たちは力強く頷いた。
ミナは通信魔導具から出力された全国の支所からの通信記録の束を、しっかりと腕に抱え込んだ。原本が奪われても、地方からの『自発的な同意の逆流』が起きているというこの記録こそが、私たちの最大の武器だ。
王城へと急行する馬車の中で、私は乱れた髪を直し、覚悟を決めた。
王城の大広間には、早朝の緊急招集にもかかわらず、数十名の諸侯や高官たちがざわめきながら集まっていた。
正面の玉座の下段にレオニス王太子が立ち、その横には、無表情のまま腕を組む財務院総監セヴランが控えていた。
「呪約監査院の代表が到着した。これより、魔獣潮防衛のための『第零頁』起動に関する緊急諸侯会議を始める」
レオニスが開会を宣言すると、大広間の空気は一気に張り詰めた。
セヴランが一歩前に進み出る。
「諸侯の皆様。すでに報告の通り、北辺の国境に十万の魔獣潮が迫っております。到達まで残り三十時間。これを防ぐ結界を維持するには、王都および周辺地域の全住民から、魔力と疲労を強制徴収する以外に手はありません」
セヴランは淡々と、しかし圧倒的な説得力を持って語った。
「監査院は『自発的な参加』を主張していますが、疫病の時とは規模が違います。十万の魔獣を防ぐには、途中で誰かが音を上げるような不安定なシステムでは国境が崩壊します。強権をもってすべての民から一律に魔力を集める。それが最も確実で、最も公平な手段です」
その指摘だけは事実だった。疫病の時に集まった三万人は、一万二千人の熱を一度だけ相殺するための人数だ。今回は十万を超える魔獣の攻撃を、何日も受け止め続けなければならない。同じ三万人が改めて全員同意しても、安全上限を守れば必要出力の六割にしか届かないと試算されていた。
「それは違います!」
私は諸侯たちの前に進み出た。
「強制的な徴収は、必ず体力のない弱者や子どもたちを犠牲にします。一律の強制は公平ではありません!」
「ならば、お前たちの自発案で、十万の魔獣を防げるだけの確実な魔力が集まるという保証があるのか?」
セヴランの冷たい問いかけに、私はミナの方を振り向いた。
ミナは諸侯たちの視線を一身に浴びて少し震えていたが、一歩前に出て、抱えていた記録の束を高く掲げた。
「あります! 今朝、王城のシステムが強制起動しようとした際、全国の監査院支所から一斉に『同意なき強制への異議』の魔力が逆流しました。これは、地方の人々が自らの意思で、王都を救うために疲労を分担しようと立ち上がってくれた証拠です!」
ミナの言葉に、諸侯たちの間にどよめきが走った。
「自発的な参加であっても、『匿名』で『上限』を設けることで、多くの人が名乗りを上げてくれています。彼らの自由な意思を繋ぎ合わせれば、強制しなくても必要な魔力は必ず集まります!」
私が強く主張すると、レオニス王太子も頷いた。
「私も呪約師の案を支持する。国民に痛みを強制すれば、たとえ魔獣を防げても、その後に暴動が起き、国は内部から崩壊するだろう。民の自発的な意思を信じるべきだ」
王太子の言葉と、ミナが提示した地方からの通信記録という動かぬ事実。
諸侯たちの間でヒソヒソと話し合いが行われ、その空気は明らかに「強制による暴動リスクを避け、監査院の自発案に賭けるべきだ」という方向へ傾き始めていた。
政治の場において、私たちはセヴランを追い詰めたかに見えた。
しかし。
セヴランは、自らの案が否決されそうになっている状況にあっても、微塵も動揺していなかった。
「……なるほど。監査院の理想論も、王太子殿下の御懸念も理解できる」
セヴランは冷徹な眼差しで、大広間に集まった全員を見渡した。
「だが、自発案には決定的な欠陥がある。呪約師よ、お前が設定した術式は『いつでも撤回可能』なのだろう?」
「はい。命の危険を感じた時、いつでも自ら接続を切れるようにしてあります。それが正当な契約の条件ですから」
「それが欠陥だと言うのだ」
セヴランの声が、広間に重く響いた。
「魔獣潮との戦いは、数日に及ぶ長期戦になる。最初は同情心で参加した者も、疲労と恐怖に耐えきれず、途中で次々と接続を切り始めるだろう。そうなれば、結界への魔力供給は途絶え、瞬く間に国境は破られる。絶対の『安定供給の保証』がないシステムに、十万の命を預けることはできない」
彼の指摘は、あまりにも現実的で、残酷な真実だった。
途中で逃げ出せる自由があるからこそ、人は参加してくれる。だがその自由が、最も過酷な瞬間に結界を崩壊させる致命的な弱点になる。
諸侯たちが再び沈黙し、不安げに顔を見合わせた。
「強制案であれば、誰一人逃げることは許されない。弱者が何人倒れようと、結界は確実に維持される。……しかし、それではまだ皆様の不安を拭えないというのであれば」
セヴランは、不意に自らの懐から一本の銀色の短剣を取り出した。
大広間に緊張が走る中、彼は迷うことなく、自らの左の掌をその刃で深く切り裂いた。
赤い血が、大理石の床に滴り落ちる。
「セヴラン、何をしている!」
レオニスが叫ぶが、彼は表情一つ変えず、懐から取り出した『第零頁』の補足契約書に、自らの血で署名を刻み始めた。
「私は、安全な王都から民に犠牲を強いるだけの卑怯者ではないと言ったはずだ」
血に濡れた契約書を諸侯たちに掲げ、セヴランは静かに、しかし絶対の覚悟を持って宣言した。
「強制案の絶対の保証として、万が一、民からの魔力徴収が足りず結界が揺らいだ場合、追加の担保として、私、セヴラン・アルノーの『寿命五年』を第零頁に捧げる」
息を呑む音だけが、大広間に響いた。
寿命五年。それは魔法の契約において、取り返しのつかない絶対的な代価だ。
彼は私腹を肥やす悪党ではない。国を救うという合理的な計算のためなら、自分の命すらも平然と切り捨てる、冷酷なまでに純粋な為政者だった。
「私が自らの血と命で保証する。これで、強制案に反対する理由はなくなったはずだ」
偽善ではない、本気の敵の覚悟。
自らの寿命を盤上に叩きつけたセヴランの前に、広間は水を打ったように静まり返り、私たちの自発案は再び圧倒的な劣勢へと立たされていた。




