第44話 聖女は祈らない
ミナが全国の支所へ送信した合図から、わずか数分の出来事だった。
分厚い鉄板で塞がれた執務室の窓の隙間から、王都の空を不気味に覆っていた『第零頁』の金色の光が、ひどく不安定に明滅を始めたのが見えた。
「ノエラ、ダリオ様! 通信魔導具の受信盤が……!」
ミナが弾かれたように声を上げる。
部屋の隅に置かれた通信魔導具が、これまで見たこともないような激しい白い光を放ち、ガタガタと震えるように音を立てていた。盤面に浮かび上がるのは、全国各地に点在する監査院支所からの膨大な通信信号の波だ。
「……地方からの逆流です」
私は、震える手で机の端を握りしめた。
「ミナが届けた写本をもとに、四十一人と全国の支所が同時に地方印を起動し、『強制徴収への同意なき異議』をシステムに叩きつけているんです。物理的な原本が奪われても、全国の当事者たちの意思が魔力となって、王城の第零頁の強制起動を食い止めている!」
「自発的な参加者が三万人いるという事実が、システムの強制発動条件を阻害しているわけか」
ダリオが通信魔導具を見つめ、鋭く目を細めた。
セヴランは、自発案では国境を守れないという前提で非常権限を行使した。だが今、全国から寄せられた同意の波は、その前提そのものを魔力的に否定している。
私たちが閉じ込められているこの暗い部屋から、確かに反撃の狼煙は上がったのだ。
その時だった。
『――地方の監査印ごときが、国家の防衛システムに干渉してくるとはな。忌々しい呪約師の入れ知恵か』
不意に、通信魔導具から氷のように冷たい男の声が響き渡った。
財務院総監、セヴラン・アルノーの声だ。
第零頁のシステムが全国からの逆流で混線し、中枢である王城地下の音声が、監査院の通信回線に漏れ伝わってきているのだ。
「セヴラン総監……」
『だが、無駄なことだ。魔獣潮の到達まで時間が惜しい。システムの防壁を強制的に突破し、ただちに第零頁を完全稼働させる』
通信越しに、カツン、カツンと硬い靴音が響き、誰かが地下祭壇へと歩み寄る気配がした。
『エステル殿。聖女としての貴女の祈りで、この停滞したシステムの結び目を繋ぎ直し、強制契約の起動を補助してもらう。さあ、祈りたまえ』
私はハッとして、通信盤に歩み寄った。
王城の地下に、エステルが召喚されている。セヴランは、システムの抵抗を魔力で押し切るための触媒として、教会の聖女である彼女を利用しようとしているのだ。
かつて辺境聖痕院で、王太子の傷を他人に押し付けるための祈りを強要されていた彼女。その過ちを悔い、疫病区では私と共に、誰の命も奪わない安全な分担術式を命懸けで作り上げた。
その彼女に、また誰かを理不尽な犠牲にするための祈りを強要するというのか。
『お断りします』
凛とした、しかし冷ややかな怒りを孕んだエステルの声が、執務室に響いた。
『……なんだと?』
『私は、もう誰かに隠して痛みを押し付けるような、そんな野蛮なシステムに祈りを捧げたりはしません』
エステルの言葉には、一片の迷いもなかった。
『私は先日、疫病区でノエラと共に、自発的な参加者と安全な上限を用いた「誰も泣かない透明な奇跡」を完成させました。あれこそが、人を救う本当の魔法です。何万という国境民の生活と未来を一方的に搾取し、犠牲を強いるあなたの強制案に、聖女として手を貸すことなど絶対にあり得ません!』
私は、通信機の前で思わず両手で口元を覆った。
かつて、私を偽物だと蔑み、教会の教えに盲従していたエステルはもういない。彼女は今、真の医療者として、自らの確固たる倫理観と矜持を持って、王国の最高権力者に正面から逆らったのだ。
『……愚かな。国が滅べば、貴女の言う透明な奇跡とやらも灰になるのだぞ。一万の理想より、十万の現実を見ろ』
セヴランの声は冷徹そのものだった。
『祈らぬ聖女など不要だ。国家反逆の罪で彼女を拘束しろ』
『放しなさい! 私は絶対に祈らないわ!』
通信越しに、近衛兵たちがエステルを取り押さえる荒々しい物音と、彼女の抵抗する声が聞こえてくる。
「エステル……!」
私が叫ぼうとしたその時、さらに別の足音が、通信の向こう側に乱入してきた。
『待て、セヴラン! 彼女を放せ!』
「王太子殿下……」
ダリオが低く呟いた。
レオニス王太子だ。彼もまた、王城地下のただならぬ気配を察知して踏み込んできたのだろう。
『セヴラン、やりすぎだ。地方からこれほどの規模で自発的参加の意思がシステムに届いている。民が自ら国を救おうとしているのだ。強制案だけが唯一の正解ではないはずだ』
レオニスの声には、かつての傲慢さはなかった。
『直ちに諸侯会議を招集しろ。そこで、あなたの強制案と、呪約監査院が推し進める自発案を、公開の場で比較検討するべきだ。一部の権力者による密室の決断で、国境民の命を勝手に切り捨てることは許さん!』
王太子としての、正当な政治的プロセスの要求。
自分の痛みを他人に押し付け、それに無自覚であったレオニスが、今は「権限を分け合い、議論を尽くす」という王としての責務を果たそうとしている。エステルもレオニスも、過去の過ちから学び、不器用ながらも必死に変わろうとしていた。
だが。
『……殿下。貴方はまだ、事態の深刻さが全くお分かりになっておられない』
セヴランの溜息交じりの声が、すべてを凍りつかせた。
『魔獣潮の到達まで、残り三十時間を切っているのですよ。諸侯を呼び集め、悠長に議論を交わし、安全な術式を調整している間に、国境の結界は破られ、十万の魔獣がこの王都を血の海に変える。会議の結論を待って国が滅べば、誰が責任を取るというのですか』
『それは……! だが、だからと言って、法と手続きを無視して民から命を奪う権限は……』
『私には、それがある』
セヴランが、何か重々しい羊皮紙を広げる乾いた音がした。
『魔獣潮の観測報告を受けた直後、私は国王陛下より、事態収拾のための「非常大権の勅書」を預かっております』
『父上の、署名だと……?』
『ええ。そして、この大権に基づき、国家の存亡を左右する緊急事態において、防衛の決断を遅滞させ、現実から目を背ける者を排除する権限が私にはある』
セヴランの、一切の感情を排した冷酷な宣告が響き渡った。
『――ただ今をもって、レオニス殿下の王位継承権を一時停止とする。殿下を直ちに自室へ軟禁せよ』
『なっ……! セヴラン、貴様、正気か! 放せ!』
『国を救うためです。お恨みください』
王城の兵士たちが、王太子をも強引に拘束し、引きずり出していく足音が遠ざかっていく。
通信魔導具から聞こえていたノイズが、プツリ、と途絶えた。
王都の空でエラーを起こしていた金色の網が、再び禍々しい脈動を取り戻していく。
王城の地下で、セヴランの暴走を止められる者は誰もいなくなった。




