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「その奇跡は、誰かに傷を移すだけです」偽聖女として追放された私、辺境で王家の傷を背負う騎士と「奇跡の代価」を暴きます  作者: 他力本願寺


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第43話 第十七号の写本

王城の軍馬車が中庭から走り去り、私たちの手元から『台帳原本』という最大の武器が完全に奪い取られた。


 分厚い鉄板で塞がれた窓の隙間から、容赦なく冷たい風が吹き込み続けている。地下の魔導炉からの熱供給を断たれた執務室は、氷室のように冷え切っていた。


 中央印からの接続を切断され、魔法の目を失った私は、空っぽになった執務机の前に力なく座り込んでいた。


「原本がない以上、私たちがどれだけ『自発的な参加者が三万人集まっている』と主張しても、証拠がありません。セヴラン総監が『第零頁』の強制起動を諸侯会議で宣言すれば、それを法的に止める手立てが……」


 私が震える唇を噛み締めると、隣に座るダリオは私の肩を毛布ごと抱き寄せ、無言でその温もりを与え続けてくれていた。彼は決して諦めてはいなかったが、強大な権力によって物理的に証拠を奪われた今、実務的な反撃の糸口が見つからないのも事実だった。


 十万の魔獣潮が北辺の国境を食い破るまで、あと二日。


 時間が、ただ残酷に過ぎていく。


 だが、その時。


「ノエラ、ダリオ様。……諦めないでください」


 部屋の隅で、ダリオの分厚い近衛の外套にくるまっていたミナが、静かに立ち上がった。


 ダリオが静かに見守る中、ミナは部屋の隅にある自分の小さな寝台の下から、麻布で厳重に包まれたずっしりと重い束を引っ張り出してきた。


 彼女はそれを両手で抱え、原本が奪われて空っぽになった執務机の中央に、どさりと置く。


 麻布の固い結び目が丁寧に解かれ、分厚い羊皮紙の束が姿を現した。


 それは、ミナが王立呪約監査院の書記見習いとなってから今日まで、毎日毎日、少しずつ書き写し続けていた『台帳の写本』だった。


 ミナは、インクで黒く汚れた指先で、分厚い写本のページをめくった。


 乾いた紙の擦れる音が、凍えそうな冷たい部屋に響く。


 やがて、彼女の手が、ある一つのページで止まった。


 そこは、かつて辺境聖痕院で、無自覚なまま王家の傷を押し付けられていた人々の記録のページだった。


 教会の古い記録簿には、彼女たちはただの番号で記されていた。だが、ミナが広げたその写本には、無機質な『北部第十七号』という文字列の上に、太く真っ直ぐな黒い取り消し線が引かれていた。


 そして、そのすぐ横の空白に。


 同じ場所へ、はっきりと、四十一通りの異なる筆跡で、彼女たちの本当の名前が書き込まれていた。


 王都の法廷で証言台に立った者、故郷へ帰った者、そして、今この部屋にいる少女。それぞれの生きている証が、体温を持ったインクの染みとなって、そこには確かに存在していた。


 ミナは、黙って小さな手を伸ばした。


 ひび割れた彼女の人差し指が、羊皮紙のざらついた表面に触れる。


 取り消し線の横に書かれた、自分の名前。


 彼女は、その一文字一文字の輪郭を確かめるように、ゆっくりと、愛おしそうに指でなぞった。


 冷え切った指先から、文字に込められた熱が伝わってくるかのように。


 かつて、名前すら書けずに震えていた少女はもういない。彼女は自分の手で書き残した記録によって、自分自身の存在をこの世界に確かに刻み付けていた。


 紙が擦れる微かな音と、ミナの静かな呼吸だけが、その場に満ちていた。


「ミナ……これは」


 私が震える声で尋ねると、ミナは顔を上げ、小さく、けれど誇り高く微笑んだ。


「原本を王城に持って行かれるかもしれないって、ずっと怖かったんです。だから私、台帳を分割して書き写して、連絡の馬車に乗せて各地の支所に送っていました。そこで本人たちに、記録に間違いがないか確認と署名をもらっていたんです」


 彼女は、インクの染みついた指で写本をトントンと叩いた。


「これは、各支所を巡って戻ってきた、私たちの本当の記録です。そして、これと同じ写しが、今も全国の監査院支所に保管されています」


 私は目を見開いた。


 魔力を持たないミナは、魔法の糸を読むことができない。だが代わりに、誰よりも『記録が奪われ、存在が消される恐怖』を知っていた。だからこそ、中央の安全な地下金庫に原本を死蔵するのではなく、自分の手で写本を作り、地方に分散させ、当事者たちの自筆署名を集めることで、物理的な証拠を保全していたのだ。


「素晴らしいぞ、ミナ」


 ダリオが、感嘆の声を漏らして立ち上がり、ミナの頭を大きく撫でた。


「原本が王城の宝物庫に隠されようと、当事者たちの署名が入ったこの写本と、地方支所に分散された記録の束があれば、セヴランの『代案となる参加者はいない』という前提を完全に覆せる。王城の密室で彼が何を宣言しようと、全国の事実がそれを否定するんだ」


 魔法の目が塞がれ、中央印の権限が切断されても。


 魔力を持たない一人の少女が、夜を徹して地道に書き写し、各地に送り届けた『文字』の繋がりが、王家と財務院の強権を打ち破るための最大の武器として、私たちの手元に残されていたのだ。


「……ありがとう、ミナ。あなたのおかげで、私たちはまだ戦えるわ」


 私は写本の上にそっと手を重ね、ダリオを見上げた。


「ダリオ。中央印が使えないなら、監査院のシステムを逆転させます。私たちが中央から指示を出すのではなく、各地の支所に置かれた『地方印』の権限を同時に起動させて、強制契約の前提を地方から物理的に無効化するんです。ミナの写本が、そのための鍵になるわ」


「あぁ。通信魔導具は中央印の管轄外だ。今すぐ各支所へ暗号通信を送ろう」


 私たちは即座に行動を開始した。鉄板で塞がれた暗い執務室の中で、ミナの残した希望の文字が私たちを突き動かしていく。


 セヴランは、自らの強制案を通すために諸侯会議を招集しているはずだ。彼がそこで「自発案は失敗した」と宣言する前に、全国の真実を同時に突きつけなければならない。


 ミナが通信魔導具の盤面を叩き、全国の支所へ向けた一斉送信の合図を送った。


 その直後だった。


 鉄板で塞がれた窓の向こう、王都の空気が微かに、けれど確かに共鳴するように震えた。中央印を絶たれた私の目には魔力の糸は見えない。だが、空間を伝わる確かな熱が、全国から一斉に立ち上がるのを感じた。


 それは、私たちが閉じ込められているこの部屋からだけではない。


 王都の法廷で声を上げた者、南部鉱山で寿命を取り戻した者、北辺の村で記憶を守った者。


 ミナが送り届けた写本を手に、四十一人全員と各地の支所が、同時に証言を開始したのだ。

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