第42話 契約を読めない呪約師
ガンッ!
外から分厚いかんぬきが降ろされる重い音が響き、王立呪約監査院の執務室は、完全な密室と化した。
窓枠にはすでに鉄板が打ち付けられ、外の光すらまともに入ってこない。
「こんなところで、閉じ込められている場合じゃないのに……!」
私は焦燥感に急き立てられるように床に這いつくばり、インク壺から直接指にインクを浸して、床板に簡易的な魔力陣を描き始めた。
三日後には、十万の魔獣潮が北辺の国境に到達する。財務院総監のセヴランは、それを防ぐという大義名分のもとで『第零頁』を強制起動させようとしている。中央印からの接続を切断された今、なんとかして別の経路から国の契約網にアクセスし、彼の暴走を止めなければならない。
「お願い、繋がって……っ!」
インクで汚れた指先から、残りの魔力を床の陣へと流し込む。
しかし、床の陣は一瞬だけ弱々しく光った後、すぐに虚しく霧散してしまった。私の目には、空間に張り巡らされているはずの魔力の糸が、ただの一本も映らない。
真っ暗だ。まるで、突然両目を失明してしまったかのような恐怖と無力感。
「もう一度……違う術式で……」
私が再びインク壺に手を伸ばそうとした時、力強い手が私の手首を掴み、ピタリと止めた。
「やめろ、ノエラ。指が擦り切れて血が出ているぞ」
ダリオだった。彼は私の手からインク壺を取り上げ、自分のハンカチで私の指先を乱暴に、けれど丁寧に拭った。
「ダリオ、止める方法を探さなきゃいけないんです! 私が契約を読めなければ、強制徴収を防ぐ手段が……」
「見えないものを無理に探すな。今は魔法の目ではなく、頭を使う時だ」
彼の低く落ち着いた声が、パニックになりかけていた私の頭に冷水を浴びせた。
「……頭を、使う」
「そうだ。あなたは呪約師である前に、監査院の調査官だろう。魔力がなくても、事実と論理で戦うことはできるはずだ」
ダリオの灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見据えていた。
私は床に座り込んだまま、深く深呼吸を繰り返した。魔法が使えないなら、政治と法務の盤面で戦うしかない。
「……セヴラン総監が『第零頁』を独断で起動させるための法的根拠は、『それ以外に国を救う代案がない』という非常事態の前提にあります」
私は、震えの収まった声で状況の整理を始めた。
「逆に言えば、私たちが先日集めた『自発的な疲労分担の参加者』だけで、十分に魔獣潮を防ぐだけの結界維持魔力が足りると証明できれば、彼の強制案は法的な正当性を失う。強行すれば、それはただの越権行為になります」
「その通りだ。セヴランは私腹を肥やす悪党ではなく、合理性を重んじる男だ。事実として代案が成立するなら、理に反する強行はできないはずだ」
ダリオが頷く。
「なら、私たちがやるべきことは一つです」
部屋の隅で縮こまっていたミナが、はっと顔を上げた。
「私たちが集めた、三万人以上の自発的な参加者の記録。その同意が記された『台帳』という物理的な証拠を諸侯会議に突きつけ、代案の実効性を証明することです」
それが、能力を奪われた私たちが勝つための、唯一の脱出策であり対抗策だった。
しかし、状況は過酷を極めた。
夜が更けるにつれ、執務室の気温は急激に下がり始めた。兵士たちが私たちの抵抗意欲を削ぐため、地下の魔導炉からこの部屋への熱供給を意図的に遮断したのだ。
窓からの冷たい隙間風が吹き込み、部屋の中は吐く息が白くなるほどの凍えるような寒さになった。
「ミナ、これを着ておけ。絶対に脱ぐなよ」
ダリオは、自分が着ていた分厚い近衛の外套を脱ぎ、丸くなっているミナの肩からすっぽりと被せた。
「でも、ダリオ様が……」
「俺は鍛え方が違う。お前は監査院の大事な書記だ。風邪を引かれたら困るからな」
ダリオに頭を撫でられ、ミナは外套の温もりに包まれて、やがてスースーと静かな寝息を立て始めた。
残された私とダリオは、部屋の長椅子にあった一枚の薄い毛布を手に取り、冷え切った壁際に並んで腰を下ろした。
一枚の毛布を二人で肩から被り、互いの体温を逃がさないように身を寄せる。
「……寒いか、ノエラ」
「少しだけ」
私が素直に答えると、ダリオは左腕を私の肩へそっと回し、右腕で自分の胸元へ抱き寄せた。
彼の大きな右手が、私の凍えた両手をすっぽりと包み込む。彼から伝わってくる体温は驚くほど高く、先ほどまでの震えが嘘のように安らいでいくのを感じた。
「ごめんなさい、ダリオ」
静かな暗闇の中、私はぽつりと呟いた。
「魔法が使えなくなって、契約の糸が読めなくなって……私はただの、無力な女になってしまいました」
弱音が口を突いて出た。呪約師としての力こそが、私が彼を守り、共に歩むための唯一の価値だと思っていたからだ。
だが、ダリオは私を抱き寄せる腕の力を、さらに強くした。
「馬鹿なことを言うな。俺が左腕の自由を失って、近衛隊長を追われた時、あなたは俺を役立たずだと言ったか?」
「そんなこと、言うはずありません! あなたの価値は、剣が振れるかどうかで決まるものじゃないんですから……」
「なら、俺も同じだ」
彼の低い声が、私の耳元で優しく響く。
「魔法が見えようが見えまいが、俺にとってあなたは、間違ったことに怒り、困っている人に寄り添い、俺と同じ家に帰ってきたいと願ってくれる、ただ一人の女性だ」
ダリオは、毛布の中で包み込んでいる私の指先に、そっと唇を落とした。
「魔法がなくても、あなたはあなただ。俺のたった一人の、大切な妻だ」
その言葉と、触れ合う体温の絶対的な肯定感が、能力を失い絶望していた私の心を、芯から温め直してくれた。
そうだ。私は魔法の装置ではない。人間として、彼と共にこの冷たい夜を生き抜き、明日へ立ち向かうのだ。
翌朝。
鉄板のわずかな隙間から差し込む朝陽で目を覚ました私たちは、中庭から聞こえてくる騒々しい足音と怒号に気づき、慌てて窓の隙間から外を覗き込んだ。
「あれは……!」
ダリオが鋭い声を上げた。
中庭に横付けされた軍の大型馬車。そこに、兵士たちが何重もの鎖で厳重に封印された、巨大な革張りの書物を運び込んでいるところだった。
その書物の表紙には、王家の紋章と監査院の刻印が深く刻まれている。
「……台帳原本」
私は、絶望に声を引き攣らせた。
昨日、兵士たちが執務室から押収していったのは、日常の業務記録や一時的な写しに過ぎなかった。しかし今、彼らが持ち出そうとしているのは、監査院の地下深くにある三重の結界金庫に保管されていた『台帳原本』だった。
建国以来のすべての契約と、私たちが集めた三万人以上の自発的同意の署名が記された、国で唯一の絶対的な公的証拠。
「王城の宝物庫へ移送しろ! これで呪約監査院は、完全に沈黙する!」
指揮官の冷酷な声が響き、馬車の扉が重々しく閉ざされた。
セヴランは、私たちが物理的な証拠を使って反論してくることすら予測し、その根源である原本を王城の奥深くへと幽閉したのだ。
馬車が雪煙を上げて走り去っていくのを、私たちはただ鉄格子の隙間から見送ることしかできなかった。
監査の能力を失い、さらに正当性を証明するための『証拠』までもが目の前で完全に奪い取られた。
十万の魔獣潮が国境を食い破るまで、あと二日。
王城への道は閉ざされ、魔法の目を奪われた今の私には、もはやこの国の契約が一行も読めない。




