第41話 王立呪約監査院、封鎖
ガンッ、ガンッ、ガンッ!
金属を打ち付ける暴力的な音が、早朝の王立呪約監査院の建物に容赦なく響き渡った。
窓から見下ろすと、完全武装した王都の兵士たちが建物を幾重にも包囲し、正面の重厚な扉に外側から分厚い鉄板を打ち付けているところだった。退路は完全に塞がれ、一階の窓にも次々と板が打ち付けられていく。
「どういうつもりですか! 私たちは王家から独立した監査機関のはずです!」
私は執務室の中央に置かれた、監査院の権限の象徴である『中央印』の台座に駆け寄った。
何が起きているのか、どのような契約が王都を動かしているのか。それを知るために監査の力を限界まで引き出し、中央印に手を触れる。
だが、次の瞬間、私は息を呑んだ。
――真っ暗だ。
何も見えない。これまでどんなに複雑に隠蔽された契約の糸でも、触れさえすれば必ず読み解くことができた。しかし今、私の目には魔力の流れの欠片すら映らない。
「ノエラ、どうした!」
ダリオが私の異変に気づき、鋭く声をかける。
「繋がりません……。中央印から、契約の網への接続が完全に切断されています。私から、監査権そのものが奪われたんです」
その事実が意味するものは、あまりにも絶望的だった。
私が魔法の力を失ったわけではない。王家、あるいは財務院の総権限を持つ者が、監査院というシステムそのものを国家の契約網から物理的・術式的に切り離し、私をただの『魔力を持つ無力な一市民』へと引きずり下ろしたのだ。
ドォン、という大きな音と共に、執務室の扉が蹴り開けられた。
防寒用の重装備に身を固めた軍の指揮官が、十名ほどの兵士を引き連れて足を踏み入れてくる。
「大人しくしろ! 財務院総監、セヴラン・アルノー卿の特命である!」
指揮官は、抵抗を許さない威圧的な態度で羊皮紙の布告を広げ、声を張り上げた。
「北辺に十万を超える魔獣潮が迫っている。これを撃退し国境を防衛するには、建国契約『第零頁』の即時かつ最大稼働が不可欠である。悠長に自発的な魔力提供者を待っている時間はない。よってセヴラン卿は、非常権限を行使し、全国民からの強制魔力徴収による第零頁の起動を決定した!」
「全国民への強制徴収……!」
私は血の気が引くのを感じた。
疫病の時と同じだ。いや、今回は一万人の熱病どころではない。十万の魔獣の波を防ぐための巨大な結界維持魔力を、体力のない弱者や老人を含めた全国民から一律に搾り取ろうというのだ。
「それは国を救うことにはなりません! 多数を生かすために弱者を犠牲にする、ただの理不尽な搾取です!」
「黙れ! 国家存亡の危機において、貴様ら監査院の理想論は防衛の妨げでしかない。布告により、王立呪約監査院の全活動を凍結し、この建物を封鎖する。並びに、国家機密保護のため、貴様らが管理する契約台帳の原本をすべて押収する!」
指揮官の冷酷な宣告に、ミナが「そんな……」と悲鳴のような声を上げた。
「おい、さっさと押収を始めろ。抵抗する者は容赦なく縛り上げろ!」
兵士たちが荒々しい足取りで、執務机や書庫に向かって一斉に踏み込もうとする。
その緊迫した空気の中で。
私は、自分の机の中央に、先ほどまで飲んでいた温かい茶杯を取り残していることに気づいた。こんな非常事態に、私は飲みかけのお茶を放置したまま、ただ狼狽えていたのだ。
兵士の無骨な手が、私の机の上の書類ごと、その茶杯を乱暴に払いのけようと伸びてきた。
だが、それよりも一瞬早く。
私の横に立っていたダリオが、すっと静かに手を伸ばした。
彼は兵士の手をすり抜けるようにして茶杯を取り上げると、中の茶を一滴もこぼすことなく、私の右斜め前の『いつもの場所』へと丁寧に置き直した。
「……ダリオ」
彼が私を見ることはなかった。ただ、軍靴で踏みにじられようとしているこの空間の中で、彼だけは東の家で過ごす朝と全く同じように、私のための定位置へ茶杯を戻したのだ。
それは、権限と暴力によって封鎖されようとしている極限状態の中で、彼が私に示してくれた無言のメッセージだった。
どれほど理不尽な力で押さえつけられようとも、私たちの生活と尊厳までは誰にも奪わせない。
その不器用で確かな気遣いが、凍りつきそうになっていた私の心に、かすかな熱を灯してくれた。
「全部箱に詰めろ! 一冊も残すな!」
指揮官の怒号が飛ぶ中、兵士たちが無遠慮に私たちの台帳原本を木箱に放り込んでいく。
それは、ミナが血の滲むような思いで書き写し、監査院の皆で全国の支所と照合し続けてきた、民の命と同意の記録そのものだ。
私は唇を噛み締め、木箱に詰め込まれていく台帳に向けて、もう一度だけ監査の力を振り絞った。
せめて、台帳に紐づいている現在の契約の形だけでも読み取れれば、セヴランが起動しようとしている強制術式の隙を見つけることができるかもしれない。
魔力を目に集め、紙面に視線を凝らす。
だが、駄目だった。
中央印から切断された私には、台帳の文字はただのインクの染みにしか見えなかった。契約の糸が繋がっていたはずの村人たちの名前も、今や何の魔力の波長も放ってはいない。
「……持って行くぞ」
兵士たちが重い木箱を持ち上げ、足早に執務室を出て行く。
扉が閉まり、外から太いかんぬきが掛けられる重い音が響いた。
荒らされた執務室には、私とダリオ、そして呆然と立ち尽くすミナの三人だけが取り残された。
三日後には、十万の魔獣が国境を食い破る。セヴランは国を守るために、躊躇なく弱者の魔力を搾り尽くす強制網を起動させるだろう。
それを止めるための監査院は封鎖され、証拠となる台帳はすべて奪われた。
私は、自分の机の右斜め前に置かれた茶杯を見つめながら、己の絶対的な無力さを痛感していた。
魔法の目を使っても、目を凝らしても、今の私には契約が一行も読めない。




