第40話 同じ家へ帰るために
北辺からの『三日後の大寒波と十万の魔獣潮』という絶望的な報せは、疫病の終息に沸いていた王都の歓喜を、一瞬にして凍りつかせた。
疫病で体力を消耗しきった今の王国に、建国以来最大規模の魔獣の波を凌ぐ力など残されていない。国境の結界が破られれば、王都はおろか国中が魔獣の蹂躙によって滅び去るだろう。
報告を受けた直後、私は隔離部屋で横たわるダリオの元へと戻った。
彼はすでにミナから状況を聞いていたようで、壁に寄りかかって上半身を起こし、険しい顔で考え込んでいた。
「……ダリオ」
「ノエラ。魔獣の件、聞いた。最悪のタイミングだな」
彼の声はまだ少し掠れていたが、その瞳にはかつての近衛隊長としての鋭い光が戻っていた。
私は彼の傍らの椅子に腰を下ろした。未曾有の国難を前にして、私たちはもう、あの出立の日のように背を向け合ったままでいるわけにはいかなかった。
「ダリオ。あの時、あなたが輸送路を確保してくれなければ、エステルの術式も、私の監査も間に合いませんでした。あなたの判断は、結果として正しかった。……でも」
私は彼の手を両手で包み込み、真っ直ぐに彼の目を見つめた。
「でも、やっぱり、私に一言の相談もなく独断で王命を受けたことは、許せません」
「……あぁ」
ダリオは目を伏せ、小さく息を吐いた。
「俺も、間違っていたと思っている。あの緊急事態において、俺が軍を動かすのが最善だという判断自体に後悔はない。だが、その過程であなたを蚊帳の外に置き、不安にさせたことは、俺の落ち度だ」
彼はひと息置き、私から目を逸らさずに続けた。
「それから、あなたが俺の命を持ち物のように扱ったと言ったことも、謝る。あなたは俺を支配したかったのではない。俺を失う怖さを、一緒に負わせてほしいと言っていたんだな」
彼は不自由な左手で、包み込まれた私の手をそっと握り返した。
「俺はもう、何でも一人で背負い込む無敵の騎士じゃない。ただの片腕が不自由な男だ。……あなたに背中を預けると言いながら、俺はまだ、あなたを『守るべき対象』としてしか見ていなかったんだな」
「私もです」
私は首を横に振った。
「私も、自分の理想とする『中立性』という正しさをあなたに押し付けようとしていました。『あなたの人生』という言葉で、あなた自身の決断まで私のものにしようと聞こえたのなら、ごめんなさい。緊急時に現場で判断を下さなければならないあなたの重圧を、理解しようとしなかった」
私たちはお互いの不完全さを認め合った。
「……ダリオ。これからは、もしまた緊急事態で別々に行動しなければならなくなった時でも、必ず『判断の共有規則』を守りましょう」
「判断の共有規則?」
「はい。どれだけ急いでいても、自分がどの権限で、どこへ向かって、何をしようとしているか、必ず三言以内で相手に伝えること。もし相手が反対しても、現場にいる者の判断を最終的には信じること。そして……」
私は彼の指に絡めた自分の指に、きゅっと力を込めた。
「どんな結末になろうと、最後は必ず、同じ家へ帰ってくること」
ダリオは少し驚いたように目を見開き、やがて、深く、安堵したように微笑んだ。
「……厳しい規則だが、呪約師の言うことなら絶対だな」
「はい。破ったらペナルティですからね」
私たちは、夫婦としての、そして相棒としての絆を、新しいルールの下で強固に結び直したのだ。
深刻な仕事の話が終わり、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
窓の外はすっかり夜の闇に包まれ、冷たい風の音が遠くから聞こえてくる。
私はダリオの寝台の脇に座り直すと、少しだけ身を乗り出し、彼の胸元にそっと顔を寄せた。
「ノエラ?」
「……あなた、まだ少しだけ、熱いですね」
私は彼の首筋に触れ、そのまま視線を上げて、彼の唇に自分から小さく口づけをした。
ダリオの喉が微かに鳴り、彼の右腕が私の腰を自然に抱き寄せる。
「病み上がりの男をからかうな」
「からかってなんかいません。……今夜は、隣にいてください。あの東の家みたいに」
私のまっすぐな願いに、彼は抵抗することなく、私を自分の寝台の毛布の中へと引き入れた。
狭い寝台で、私たちは互いの体温を分け合うようにして身体を寄せ合った。彼の心音と、私の鼓動が重なり合う。明日から始まるであろう恐ろしい魔獣の波との戦いを前にした、これが最後かもしれない静かで甘い休息の時間だった。
翌朝。
私たちがまだ微睡みの中にいた時、執務室からミナの悲痛な叫び声が響いた。
「ノエラ! ダリオ! 大変です!」
私たちは飛び起き、慌てて執務室へと向かった。
ミナは王城からの緊急通達が印字された羊皮紙を握りしめ、ガタガタと震えていた。
「たった今、財務院のセヴラン総監から布告が出されました。大寒波と魔獣潮による国境崩壊を防ぐため、非常権限を行使して王城地下の建国契約『第零頁』を自ら接収したそうです!」
「なんだと……!」
ダリオが顔を険しくする。
セヴランは、疫病の時と同じように、いや、それ以上に強硬な手段に出たのだ。「国を救うため」という彼の大義名分の下、再び全国民、あるいは国境民に巨大な代価を強制する契約を起動させるつもりなのだ。
「総監の布告には、まだ続きがあります」
ミナは羊皮紙の続きを読み上げ、その声は完全に絶望に染まった。
「『国家存亡の危機において、迅速な契約起動を妨げる恐れのある王立呪約監査院の活動を、一時的に凍結する』……と」
「凍結……? それは、どういう……」
私がその言葉の意味を理解しようとした瞬間、窓の外からけたたましい軍靴の音が響き渡った。
私が窓枠に手をついて外を見下ろすと、完全武装した王都の兵士たちが、監査院の建物を幾重にも包囲し、正面の扉に向かって分厚い鉄板を打ち付けようとしているところだった。
セヴランは、自らの邪魔になる私たち呪約監査院の目と手足を、物理的な『封鎖』によって完全に奪おうとしていたのだ。




