第39話 透明な奇跡
タイムリミットまで残り十二時間。
王都の空を覆う『第零頁』の金色の網は、いよいよその魔力を飽和させ、辺境へ向けた強制転送の準備を終えようとしていた。
エステルが構築した安全な治療術式を王都全域に展開し、貧民区を含めた一万人以上の熱を相殺するためには、全国から膨大な数の自発的な参加者が必要だ。だが、集計された参加者は四割に満たない。
絶望的な数字を前に、執務スペースのミナが不意に弾かれたように顔を上げた。
「……ノエラ! 各地の支所から、通信魔導具にものすごい数の報告が届き始めました!」
「報告?」
「はい! 参加者の数が……急激に跳ね上がっています。南部の鉱山都市から、坑夫の人たちが全員一致で署名してくれました。北辺の村からも、村長さんやヘルガさんたち、大勢の大人たちが……!」
各支所は、一人ずつ名前を読み上げているのではない。地方印で説明と本人確認を終えた署名が、百人、五百人という束で中央の集計盤へ届いていた。地方で積み上げられていた意思が、最後の確認を越え、いま一斉に数字となって現れているのだ。
ミナの読み上げる地名に、私は目を見張った。
それは、私たちがこれまでの監査で訪れ、真実を暴き、共に新しい契約の形を作ってきた場所だった。
「それだけじゃありません。西部の街からも、東部の農村からも……。王都の危機を救うためならと、次々に『疲労分担』の同意書に署名が集まっています。五割、六割……八割を超えました!」
奇跡のような数字の伸びだった。
だが、それは決して神が起こした奇跡などではない。
『負担の上限が明確であること』『いつでも撤回できること』そして『誰が参加したか匿名で守られること』。私たちが監査院として全国に周知してきた「安全な契約の条件」が、見ず知らずの王都の民を救うための、人々の善意の背中を押したのだ。
かつての教会のように、美辞麗句で自己犠牲を強要したわけではない。
彼らは「一晩ぐっすり眠れば治る程度の疲れなら、王都の誰かを助けるために使ってくれ」と、自分の生活を壊さない範囲での、現実的で温かい手を差し伸べてくれたのだ。
「九割……そして、今、必要人数である三万人の自発署名が集まりました! 目標達成です!」
ミナが歓喜の涙を流しながら叫んだ。
「ありがとう、ミナ! エステル、術式を最大稼働させるわ!」
「ええ、任せて!」
私は監査印を強く握りしめ、エステルと共に治療院の中庭へと飛び出した。
王都の空は、禍々しい金色の網に覆い尽くされようとしている。
私は監査の力を限界まで引き出し、全国から送られてきた三万人分の『同意の糸』を束ね、エステルの治療術式へと接続した。
「対象、王都東区の熱病患者一万二千名。代価負担者、全国の自発参加者三万名」
私の指先から、眩い光が放たれた。
「代価は『一晩の疲労』に上限を固定。同意なき徴収、および上限を超える搾取を一切禁ずる。――正当なる契約を、ここに起動します!」
エステルが両手を天に掲げ、祈りの言葉を紡ぐ。
その瞬間だった。
治療院の患者たち、そして王都中に横たわる人々の胸から、病の熱を帯びた赤い糸が天に向かって真っ直ぐに伸びていった。そして、全国から集まった三万人の疲労の代価が、その赤い糸を優しく包み込む。
それは、隠された黒い糸でも、命を削る赤黒い糸でもなかった。
互いの痛みを少しずつ分け合い、限界を超えないように守り合う、清らかで透明な『銀色の糸』だ。
無数の銀糸が夜明けの空へと立ち昇り、巨大な網目となって王都全域を覆い尽くしていく。その純粋で強大な魔力の輝きは、空を支配しようとしていた『第零頁』の金色の網を、下から完全に塗り潰し、相殺してしまった。
「熱が……下がっていく」
治療院から、驚きと歓喜の声が上がった。
銀の光が降り注ぐ中、高熱に喘いでいた患者たちの呼吸が嘘のように穏やかになり、肌の赤みが引いていく。ダリオが命懸けで切り開いた輸送路を通って届けられた薬草と水が、次々と患者たちの口へと運ばれ、彼らの生命力を確実に引き上げていく。
誰一人として命を奪われない。誰かに隠して重い代価を押し付けることもない。
透明で、安全で、誰もが納得した奇跡が、王都の疫病を完全に制圧した瞬間だった。
銀色の光の余韻が静かに降り注ぐ中、私はふらつく足取りで、ダリオが眠る隔離部屋へと急いだ。
扉を開けると、そこには信じられない光景があった。
死の淵を彷徨っていたはずのダリオが、寝台の上に上体を起こし、窓から差し込む朝陽と銀の光を眩しそうに見上げていたのだ。
「ダリオ……!」
私は声を震わせ、彼の寝台の脇に駆け寄った。
彼はゆっくりと私の方へ顔を向けた。その灰色の瞳には、確かな理性の光が戻っている。ひどい高熱のせいで少し頬は痩けていたが、額の汗は引き、呼吸もすっかり正常に戻っていた。
「……ノエラ。外のあの光は、あなたがやったのか」
「ええ。エステルと、ミナと、全国の皆さんの力で。王都の熱病は、もう抑え込みました」
私が涙声で頷くと、彼は「そうか」と短く息を吐き、微かに口角を上げた。
彼の左手が、私の頬を伝う涙を拭おうと、不器用に伸ばされる。私はその手に自分の手を重ね、彼の温かい手のひらに顔を埋めた。
「本当に……本当によかったです。あなたが、生きていてくれて」
私がしゃくり上げながらそう言うと、ダリオは私の顔をじっと見つめ、ふと眉をひそめた。
「ノエラ。お前、数日見ない間にひどく顔色が悪いぞ。目の下にも隈ができている」
「え……?」
ダリオは、熱病から生還したばかりの自分の身体のことなど微塵も気にする様子を見せず、ひどく真剣な顔で私を咎めた。
「まさかとは思うが、俺が背嚢に忍ばせておいた干し肉と白湯を、ちゃんと口にしなかったんじゃないだろうな。あれだけ隙間風を入れるなと言ったのに、寝食を忘れて術式にかかりきりだったんだな」
私は、彼の言葉にぽかんと口を開け、やがて吹き出してしまった。
涙と笑いが一緒にこみ上げてきて、どうしようもなかった。
死に直面していた彼が、目覚めて一番に心配したのが、私の食事の有無だなんて。どれだけ不器用で、どれだけ私という人間の扱いに慣れきっているのだろう。
「……食べましたよ。あなたの不格好な包みの干し肉、ちゃんと全部いただきました」
「ならいい。俺がいない間も、自分の身体を一番に守れ」
「はい。はい……っ」
私は彼の大きな手を握りしめたまま、泣き笑いの顔で何度も頷いた。
彼が私の命を案じ、私が彼の命を繋ぐ。その当たり前の生活の延長に、私たちの愛があるのだと、彼の温かい手が教えてくれていた。
王都を恐怖に陥れた熱病は、死者をこれ以上出すことなく、急速に収束へと向かっていった。
私たちは誰も犠牲にすることなく、セヴランが提示した七日間のタイムリミット戦に勝利したのだ。
王城の地下で自動起動していた『第零頁』も、王都の危機が去ったと判断したのか、空を覆っていた金色の魔力を霧散させ、再び深い眠りへと就いたようだった。
ようやく、すべてが終わった。
監査院の執務室に戻り、疲れ切って丸まったミナの頭を撫でながら、私も椅子に深く腰を沈めた。ダリオもまだ安静が必要だが、命の別状はない。明日になれば、また東の家へ三人で帰ることができるだろう。
――そう、安堵の息を吐きかけた、まさにその時だった。
ピリリリリリッ!
部屋の隅に置かれていた、国境警備隊からの緊急通信を受信する専用の魔導具が、耳をつんざくような警告音を鳴らし始めたのだ。
うとうとしていたミナが飛び起き、慌てて通信盤の光を読み取る。
「ミナ、どうしたの。熱病の再発?」
私が立ち上がって駆け寄ると、ミナは血の気の引いた顔で、通信盤に表示された文字列を読み上げた。
「違います……ノエラ。北辺の国境観測所からの、最上位の緊急警報です」
ミナはゴクリと唾を飲み込み、震える声で告げた。
「ここから三日後の距離に……建国以来最大規模の大寒波と、それに伴う十万を超える『魔獣潮』の発生が観測されました。三日後、北の国境は完全に魔獣の波に呑み込まれます!」
私は、自分の耳を疑った。
疫病の危機を乗り越えたばかりの王国に、今度は物理的な滅びの足音が、すぐそこまで迫っていたのだ。




