第38話 名前を消させない書記
私の指を握り返したダリオの左手は、まだ微かに震えていたが、昨日までの火のような熱さは消え失せていた。
窓から差し込む朝陽が、彼の顔を優しく照らし出している。苦しげだった呼吸はすっかり穏やかになり、胸の上下も規則正しいリズムを刻んでいた。
エステルたちが構築した疲労分担の術式と、彼自身の頑強な生命力が、未知の熱病を退けたのだ。
「……よかった」
私は彼の手を両手で包み込み、こぼれそうになる涙を堪えて深く息を吐き出した。
昨夜、彼を失うかもしれない恐怖に震えていた私の背中を抱きしめてくれた、その腕の確かな温もり。彼は生きている。私と同じ世界で、今日もまた息をしている。
それだけで、全身から力が抜けるほど安堵した。
「ノエラ様」
控えめなノックと共に、隔離部屋の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、灰色の簡素な服に身を包んだ三十代半ばの女性――ミナの実の母親であるサーラだった。
「サーラさん……」
彼女は王都の住人であり、この疫病の混乱の中で、エステルの治療院に医療助手として志願してきていたのだ。
「ダリオ様の熱が下がったと伺いました。少し休まれてください。後の看病は、私が引き受けます」
サーラは手際よく水盆と新しい布を用意し、寝台の脇に立った。
「ありがとうございます。でも、あなたは少しも休んでいないのでは」
「王都の皆が戦っているのです。それに……あの子も、休まずに戦っていますから」
サーラは、扉の向こうの執務スペースをちらりと見て、微かに、けれど誇らしげに目を細めた。
そこには、インク瓶と山積みの羊皮紙に囲まれながら、王都の患者名簿と全国の参加者リストの照合作業に没頭しているミナの姿があった。
サーラは、七年ぶりに再会した娘に対して「お母さんと呼んで」と強要したり、子ども扱いして仕事を取り上げたりすることは一度もなかった。ミナが王立呪約監査院の書記見習いとして自分の居場所と役割を見つけたことを、彼女は遠くから静かに見守り、ただその決断を尊重し続けていた。
「……ミナは、立派な監査院の書記です。魔力はなくても、彼女の目は誰よりも正確に真実を捉えます」
「はい。存じております」
サーラは穏やかに微笑み、ダリオの額の布を取り替えた。
愛する人の命を繋ぎ止める戦いは峠を越えた。だが、私たちにはまだやらなければならない仕事がある。
私はダリオの寝顔に一度だけ振り返り、意を決して部屋を出た。
「ミナ、状況はどう?」
執務スペースに戻った私が声をかけると、ミナは目を真っ赤に充血させながら羊皮紙から顔を上げた。
「ノエラ……全国の支所から、少しずつですが疲労分担の自発参加者が増えています。でも、王都の患者数に対する必要人数には、まだ遠く及びません」
私は隣に座り、彼女がまとめた名簿を覗き込んだ。
タイムリミットは刻一刻と迫っている。財務院総監セヴランが宣言した『七日間』が過ぎれば、彼は強制的に建国契約『第零頁』を完全稼働させ、国境民に王都の病を押し付けるだろう。それを防ぐには、王都の患者の熱を相殺できるだけの自発参加者を集め、安全な術式で結び合わせるしかない。
しかし、ミナは名簿の一箇所を指差して、ペンを握る手をぷるぷると震わせていた。
「参加者が足りないのもそうですが……ノエラ。この王都の『治療対象患者名簿』、絶対におかしいです」
「おかしいって、どういうこと?」
「昨日、エステル様たちが各区画の役所から集めてきた患者の報告数と、実際にこの名簿に記載されている名前の数が、合わないんです」
ミナは、別の羊皮紙に自分が書き写した数字の集計表をバンッと机に叩きつけた。
「東区の第七通りから第十二通り……ここは、王都の中でも特に貧しい人たちが住んでいる『貧民区』のはずです。でも、この名簿には、その区画に住んでいるはずの人たちの名前が、最初から一行も書かれていません。まるで、そこには誰も住んでいないみたいに、すっぽりと抜け落ちているんです」
私は目を見張った。
ミナの指摘通り、役所から提出された名簿には、貧民区の住人たちの情報が完全に欠落していた。魔力を持たないミナだが、彼女の『文字と数字の不一致』を見抜く執着心は、どんな魔法よりも鋭く人間の悪意を暴き出していた。
「……故意に名簿を改竄したのね」
私はギリッと奥歯を噛み締めた。
「現場の官吏たちが、救うべき患者の総数を少なく見せかけるために、貧民区の住人たちを見捨てて名簿から消し去ったんだわ。患者の数が減れば、自発参加者の『必要人数』のハードルが下がる。そうやって数字の帳尻を合わせようとしたのよ」
それは、数字上の計算を合わせるために、力を持たない弱者の命を切り捨てるという、最も卑劣な行為だった。
パンッ!
隣で、ミナが両手で机を強く叩いた。
彼女は立ち上がり、インクで汚れた手で、改竄された名簿を力強く握りしめていた。
「許せません……っ」
ミナの声は、怒りで激しく震えていた。
「病気になったからって、貧しいからって、無かったことにしていい命なんてありません! 名前を消して、初めからいなかったことにするなんて、絶対に駄目です!」
彼女の脳裏には、かつて辺境の教会で『北部第十七号』と呼ばれ、名前を奪われ、他人の熱を押し付けられていた自分自身の過去がフラッシュバックしているのだろう。
誰よりも名前の大切さを知り、記録の重さを知る彼女だからこそ、他人の名前が理不尽に消し去られることが許せなかった。
「彼らにも、ちゃんと名前があるんです……! ノエラ、この名簿を書き直させてください。貧民区の人たちも、絶対に治療の対象に入れなきゃ駄目です!」
涙声になりながらも、決して目を逸らさずに訴えるミナ。
その小さな背中は、もはや庇護されるべきただの子どもではなく、王立呪約監査院の誇り高き一員そのものだった。
「ええ。あなたの言う通りよ、ミナ」
私は深く頷き、彼女の肩を強く抱いた。
「あなたのその目が、隠されようとしていた命を救ったの。……さあ、急いでエステルのところへ行きましょう。隠蔽された貧民区の患者たちも、すべて術式の対象に組み込むように手配を急がせるわ」
私たちは即座に役所の官吏を追及し、隠蔽されていた貧民区の患者名簿を吐き出させた。ミナがそれを猛烈な速度で正規のリストに統合し、エステルが治療術式の対象範囲を再設定していく。
ミナの活躍により、切り捨てられようとしていた何百という命が、再び『救われるべき人間』として名簿にその名前を取り戻した。魔力のない彼女が、その圧倒的な執念と文字の力で勝ち取った、初めての明確な勝利だった。
しかし。
貧民区の患者を正しく名簿に載せたことで、私たちが救うべき命の総数はさらに跳ね上がることになった。
窓の外の空を覆う『第零頁』の金色の網は、すでに限界まで魔力を充填し、今にも辺境への強制転送を開始しようと激しく脈動している。
私は、ミナが書き上げた最終的な必要人数の数字と、全国の支所から送られてきた現在の参加者数の集計を見比べ、絶望的な溜息を漏らした。
セヴランが突きつけたタイムリミットまで、残り十二時間。
貧民区を加えた治療対象は、一万二千人。安全上限を守ったまま一人の熱を相殺するには、健康な成人が平均二・五人必要になる。したがって必要な自発参加者は三万人。それに対し、本人確認まで終えた署名は一万一千八百余り――四割にも達していなかった。




