第37話 あなたの傷を奪わない
王都南門の封鎖線を突破し、医療物資の搬入を無事に完了させた直後。ダリオが雪の積もる石畳の上に崩れ落ちたという報せは、疫病区の治療院で働く私の元へすぐに届いた。
急遽運び込まれた彼は、隔離された小部屋の粗末な寝台に横たえられていた。
鍛え抜かれた屈強なはずの身体が、浅く、ひどく苦しげな呼吸を繰り返している。顔は赤黒く火照り、額には玉のような汗が浮かんでいた。
「ダリオ……」
私は震える手で彼の首筋に触れた。肌を通して伝わってくる異常なほどの熱量に、思わず指先が跳ね返されそうになる。
四年前の戦場で部下たちの傷を引き受け、左腕に重い聖痕を宿して以来、彼の身体は魔力に対する免疫がひどく低下していた。そこに数日間の強行軍と、封鎖線での強硬派との死闘による疲労が重なり、未知の熱病は容赦なく彼の体力を奪い尽くそうとしていたのだ。
「……ノエ、ラ……」
熱に浮かされた灰色の瞳が、うっすらと開かれた。焦点の定まらない目で私を捉え、ひび割れた唇が微かに動く。
「近づく、な。……感染る、ぞ」
自分がこんな状態になっても、彼はまだ私を案じて、遠ざけようとする。
私は奥歯を強く噛み締め、彼の胸元に視線を落とした。
呪約師である私の目には、彼の心臓の奥深くへ根を張ろうとしている、熱病の真っ赤な糸が見えていた。王都を覆う『第零頁』の金色の網とは違う、純粋な病魔の糸だ。
この糸を、私が切ることはできない。私は医者でも聖女でもないからだ。
……けれど、一つだけ方法があった。
対象者の同意もなしに、契約の糸の接続先を強制的に書き換える『禁術』。私がこの赤い糸の端を掴み、私自身の身体へと繋ぎ変えれば、ダリオを苦しめているこの殺人的な熱を、すべて私が肩代わりすることができる。
彼が四年前、部下たちを救うために真っ先に自分の身を差し出したのと同じように。愛する人を失うくらいなら、自分が苦しんだ方がいい。この熱のすべてを、私が奪ってしまえばいい。
私は、震える指先を、彼の胸で明滅する赤い糸へと伸ばしかけた。
だが、その指が糸に触れる寸前、ピタリと止まった。
「……駄目よ」
私は、自らの右手を左手で強く握りしめ、胸の前に引き戻した。
それをやってしまえば、私は彼が己の人生を懸けて否定した「同意なき自己犠牲」を、自らの手でなぞることになる。彼が今、命を削ってまで王都への輸送路をこじ開けたのは、私にそんな自己犠牲を強いるためではないはずだ。
私が彼のために自己犠牲を払えば、目が覚めた彼は一生自分を許せなくなる。
愛する人だからこそ、私は彼の痛みを、同意なく奪い取ってはいけないのだ。
「……あなたの傷は、奪いません」
私は、禁術への誘惑を完全に断ち切り、ダリオの額に冷たい布を乗せた。
エステルが処方してくれた解熱の薬湯と、先ほど組み上げたばかりの疲労分担の治療術式。私ができるのは、その通常の治療の力を信じて、彼自身の生命力に命を託すことだけだった。
夜の闇が、隔離された小部屋を深く、静かに包み込んでいった。
窓の外では、まだ雪混じりの冷たい風が吹いている。部屋の隅で燃える小さなストーブの火だけが、パチパチと微かな音を立てていた。
エステルたちの分担術式の効果で、病状の悪化はなんとか食い止められていた。だが、ダリオの熱は依然として高く、峠を越えるには至っていない。
私は寝台の脇に椅子を引き寄せ、彼の手を握ったまま、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
これまでの私は、理不尽な契約を止めるため、あるいは新しい仕組みを作るため、常に頭を動かし、誰かと交渉し、戦い続けてきた。自分が休むことなど考えたこともなかった。
けれど今、禁術を使わないと決めた私に残されたのは、何もできずに、ただ愛する人の熱が下がるのを待つという、途方もない無力感だけだった。
規則的に繰り返されるダリオの荒い呼吸音が、部屋に響く。
もし、このまま彼の息が止まってしまったら。
彼と暮らしたあの東の家で、一人で朝を迎えることになったら。
ふと頭をよぎった想像が、急速に私の身体から体温を奪っていった。奥歯がカチカチと鳴り、握りしめた彼の手を伝って、私自身の震えが止まらなくなる。
「……ノエラ」
不意に、ひどく掠れた声が私の名前を呼んだ。
ダリオが、少しだけ目を開けて私を見ていた。熱のせいで潤んだ瞳が、私が小刻みに震えているのを見咎める。
彼はゆっくりと、熱を持った不自由な左手を動かし、私の手から自分の手を引き抜こうとした。
「離れろ。……そんなに震えるほど、寒い場所にいるな」
彼には、私が感染を恐れて震えているように見えたのかもしれない。あるいは、看病の疲れで冷え切っていると。
私は、彼の左手首を両手で強く押さえ、引き抜かれるのを拒んだ。
「寒くなんかないです」
私は、彼の熱い手のひらに自分の頬を押し当てた。
じんわりとした、恐ろしいほどの熱が肌を伝わってくる。でも、その熱が、彼が生きているという何よりの証拠だった。
「私はただ、怖いんです」
これまで誰にも、ダリオにさえ見せなかった弱音が、自然と口を突いて出た。
隠された真実を暴くことも、村の同調圧力に立ち向かうことも怖くはなかった。けれど、何もしないまま、彼を失うかもしれないこの静かな夜は、どうしようもなく恐ろしかった。
「怖いので、抱いてください」
私は自分から、彼にそう望んだ。
いつも彼から手を差し出してくれるのを待っていた私が、自分から彼の懐へともぐり込み、その広い胸に額を押し付けた。
ダリオは驚いたように小さく息を呑んだ。
やがて、火のように熱い彼の右腕が、震える私の背中をそっと、けれど確かな力で抱き寄せた。
「……移るぞ」
「移りません。私は呪約師ですから」
強がった私の言葉に、ダリオの胸の奥から、くくっと小さな笑い声が響いた。
彼の心臓の音が、耳のすぐそばで聞こえる。早鐘のように打つその鼓動と、私の背中を包む彼の腕の熱さ。薬草の匂いと、彼の汗の匂い。
慰めの言葉も、未来への大げさな約束もなかった。
ただ、彼の体温が私を包み込み、私の震えを少しずつ溶かしていく。この熱が下がるまで、私はずっと彼を離さないと決めた。
どれほどの時間が経っただろうか。
小さな窓の隙間から、薄青い夜明けの光が部屋の中に差し込み始めていた。
ふと、私の背中を抱きしめていたダリオの腕から、少しだけ力が抜けた。
私は慌てて顔を上げ、彼の様子を窺った。
彼を苦しめていた異常な発汗は治まり、浅く荒かった呼吸が、深く穏やかな寝息へと変わっている。火のように熱かった肌の温度も、正常な温かさへと落ち着きを取り戻しつつあった。
自らの生命力と、わずかな魔法の助けで、彼はついに熱病の峠を越えたのだ。
「……ダリオ」
安堵で視界がにじむ中、私は彼の寝顔を見つめ、祈るようにそっとその指先に触れた。
すると、眠っているはずの彼の左手が、私の指を握り返す。




