第36話 聖女の祈り、呪約師の条件
渓谷の崖上から雨あられと降り注ぐ火矢が、先頭の薬馬車を激しい炎で包み込んだ。
「怯むな! 燃えた馬車を切り離せ! 後続を下がらせろ!」
ダリオの怒号が吹雪の渓谷に響き渡った。彼は不自由な左腕を庇いながらも、右手一本で剣を抜き放ち、崖を滑り降りてきた強硬派の武装集団を次々と薙ぎ払っていく。
正規軍の装備を隠し、実力行使で薬を焼き払おうとする敵の動きは統制が取れていた。だが、元近衛隊長であるダリオの圧倒的な気迫と戦術眼の前に、彼らの包囲網は少しずつ綻びを見せ始める。
「俺が前を開く。馬車を止めず一気に駆け抜けろ!」
ダリオは血飛沫を浴びながら先陣を切り、敵の防衛線を強引にこじ開けた。生き残った数台の薬馬車が、その隙間を縫って疾駆する。
激しい死闘の末、強硬派の兵士たちは隊列の維持を諦め、谷の奥へと撤退していった。
「……どうにか、抜けたか」
ダリオは剣の血を振り払い、小さく息をついた。
その時、王都の方向から吹き下ろしてきた不自然に生温かい風が、彼の顔を撫でた。全身の毛穴が粟立つような、ひどい悪寒。喉の奥にイガイガとした異物感がへばりつく。
ダリオは小さく咳き込んだが、すぐに表情を引き締め直した。
「先を急ぐぞ。王都の封鎖線まで、一気に駆け抜ける」
自身に忍び寄る致命的な異変を、彼は気力だけで押さえ込み、再び馬の腹を蹴った。
◇
一方、王都の東区。
死の影が色濃く落ちる治療院の裏部屋で、エステルは床に広げた大きな羊皮紙の上に、複雑な魔法陣を描き続けていた。
「ノエラ、ミナが集めてくれた患者のデータは完璧よ。これならいけるかもしれない」
エステルは、青白い顔に汗を浮かべながらも、瞳には強い意志の光を宿していた。
彼女が構築しているのは、かつて教会が行っていた「一人の人間にすべての傷を押し付ける奇跡」ではない。多数の自発的な参加者から少しずつ魔力を集め、それを患者の治癒へと均等に分配する『疲労分担の治療術式』だ。
「もう二度と、誰か一人に痛みを被らせない。祈りの重さは、皆で分け合うの」
エステルが両手を魔法陣にかざすと、淡い白い光が立ち上った。
治療院の一室に集められた数人の重症患者と、分担に同意してくれた十数名の健康な志願者たちの間に、魔力の経路を繋ぐ光の糸が結ばれていく。
「術式、起動します……!」
エステルが祈りの言葉を紡いだ瞬間、白い糸を通って、患者たちの恐ろしい熱量が志願者たちへと分散して流れ込み始めた。
だが次の瞬間、エステルの顔が苦痛に歪んだ。
「くっ……駄目、熱の量が多すぎる! 引っ張られる!」
未知の熱病がもたらす魔力の負荷は、彼女の想定を遥かに超えていた。白い糸が赤黒く変色し、患者の命を繋ぎ止めようとする術式が暴走を始める。このままでは、志願者たちの体力が底を突き、かつてのイリヤたちのように命まで吸い尽くされてしまう。
「エステル、術式を維持して! 私が介入するわ!」
私は迷わず前に飛び出し、赤黒く染まりかけた糸の結び目に、監査印を力強く押し当てた。
ここからは、聖女ではなく、呪約師の領域だ。
「契約番号、特例第一号。本術式における代価の流出に、厳格な制限を設ける!」
私の指先から放たれた透明な光が、暴走する熱の濁流に鋭く割り込む。
「第一の条件。参加者一人あたりの疲労徴収上限を『一晩の睡眠で回復可能な水準』に固定。これを超える魔力の要求をシステムから完全に遮断する!」
透明な光が銀色の枷となって、志願者たちから伸びる糸を強固に縛り付けた。赤黒かった糸が、安全な銀色へと落ち着きを取り戻していく。志願者たちの顔から苦痛の色が消え、単なる肉体的な疲労の表情へと変わった。
「そして第二の条件。本契約は『いつでも撤回可能』とする。参加者が自らの意思で糸を切ることを望んだ場合、いかなるペナルティもなく即座に接続を解除できる機構を組み込む!」
監査印の光が魔法陣全体に行き渡り、術式が完全に安定した。
「……ありがとう、ノエラ。熱が、均等に分散しているわ」
エステルが安堵の息を吐きながら、患者たちの顔を覗き込む。
先ほどまで呼吸も絶え絶えだった重症患者たちの顔から、殺人的な赤みが引き、穏やかな寝息へと変わっていた。完全な治癒には至らずとも、命の危機を脱し、自力で回復できるだけの猶予を作り出すことに成功したのだ。
聖女の祈りと、呪約師の制限。二つの力が組み合わさったことで、私たちは初めて、誰の命も奪わない安全な奇跡の形を完成させた。
「やりましたね、ノエラ! これならみんなを救えます!」
ミナが嬉しそうに駆け寄ってきた。
だが、私の心に安堵はなかった。窓の外を見上げれば、空を覆い尽くす『第零頁』の金色の網が、今も不気味に脈動を続けている。
「術式は完璧よ。でも……」
私は唇を強く噛み締めた。
安全な上限を設定したということは、一人当たりから得られる魔力はごくわずかになるということだ。数人の患者を安定させるのに、十数人の志願者が必要だった。
現在、王都で熱病に苦しんでいる人間は一万人を超えている。この安全な術式を使って彼ら全員を救い、かつ『第零頁』による辺境への強制転送を阻止するためには、何万人という自発的な参加者の協力が不可欠になる。
しかし、全国から集まった参加者は、いまだに必要人数の三割にも満たない。
完璧な解決策を手に入れたはずなのに、それを動かすための『数』という圧倒的な物理の壁が、私たちを絶望の淵に立たせていた。
◇
同じ頃。
王都南門の重厚な封鎖線の前に、数台の焼け焦げた薬馬車が到着していた。
「辺境からの医療物資だ。門は開けなくていい。ここから荷だけを運び込め!」
ダリオの威風堂々たる命令に、防護服に身を包んだ王都の兵士たちが慌てて荷受けの準備を始める。
強硬派の襲撃を退け、血と煤にまみれながらも、ダリオは自らに課せられた任務を完遂した。これで、王都の医療崩壊を数日間は食い止めることができる。ノエラたちが参加者を集め、解決策を見つけ出すための『猶予』を繋ぐことができたのだ。
「……頼んだぞ、ノエラ」
ダリオは小さく呟き、手綱を握り直そうとした。
その瞬間。
グラリと、世界が大きく傾いた。
「隊長!?」
部下の声が、ひどく遠く聞こえる。
補助帯で左前腕へ固定していた手綱の感覚がなくなり、全身から一気に力が抜け落ちた。視界が真っ赤に染まり、喉の奥から焼け付くような激しい咳が込み上げてくる。
王都の風に乗って漏れ出ていた未知の熱病。四年前の傷を引き受けて以来、魔力に対する免疫が低下していた彼の身体は、強行軍と死闘による疲労も重なり、あっけなくその病魔に侵食されていたのだ。
「隊長! 誰か、医師を! 隊長が!」
部下たちの悲鳴が響く中、ダリオの巨体はゆっくりと馬から滑り落ちた。
凍てつくような雪の積もる石畳の上に叩きつけられた彼は、熱に浮かされた瞳で、遠く王都の空を覆う金色の網を見上げたまま、深く暗い意識の底へと沈んでいった。




