第34話 王命を受けた夫
「……必要人数に対し、自発参加はたったの三割です」
ミナの震える声が、冷え切った執務室に落ちた。
私は唇を強く噛み締めた。全国の支所を通じて「匿名で撤回可能な疲労の分担」を呼びかけたが、見ず知らずの王都の民のために、未知の熱病のリスクを背負おうとする者は少なかった。
窓の外を見上げれば、空を覆い尽くす金色の巨大な網――建国契約『第零頁』が、心臓のように不気味に赤く脈動している。王国財務院総監セヴランによって一時保留されているとはいえ、七日間のタイムリミットが過ぎれば、あの網は容赦なく辺境の民に王都の熱病を押し付けるだろう。
「三割では、王都の熱を相殺しきれません。もっと広く、安全性を訴えなければ……」
私が焦りに声を尖らせた、その時だった。
監査院の玄関の扉が乱暴に叩き開けられ、雪まみれになった数名の騎士たちが雪崩れ込んできた。その胸に輝くのは、王家直属を示す獅子の紋章。王都の封鎖線を強行突破して駆けつけてきた近衛の伝令だった。
「ダリオ・ヴェルン殿はおられるか!」
息を切らす使者の声に、ダリオが静かに前に出た。
「俺だ」
「レオニス王太子殿下、並びに摂政団からの緊急の王命である!」
使者は一枚の重々しい書状をダリオに突きつけた。
「現在、王都の一部強硬派将軍が『辺境への支援物資を断ち、強制的に第零頁を完全稼働させるべきだ』と主張し、北辺および南部への輸送路を軍の力で封鎖しようとしている。殿下はこれを防ぐため、貴官の近衛隊長への一時復帰を命じられた。直ちに軍の輸送部隊の指揮権を掌握し、七日間の物資輸送路を死守せよ!」
私は耳を疑った。
監査院は、王家や教会の魔法契約の不正を暴き、中立の立場から裁く機関だ。その調査官であるダリオが、監査対象である王家の軍籍に復帰するなど、あってはならないことだ。
「お待ちください。彼は王立呪約監査院の――」
私が抗議しようと前に出た瞬間、ダリオの低く通る声がそれを遮った。
「――承知した。直ちに出立の準備を整えよう」
「え……?」
私は驚愕してダリオを振り返った。彼は私と目を合わせることもなく、使者から王命の書状を受け取っていた。
使者たちが外で馬の準備を始めている間、私はダリオを執務室の奥へ引きずり込んだ。
「どういうことですか、ダリオ! なぜ私に一言の相談もなく、復帰の命令を受けたのですか!」
私は生まれて初めて、彼に対して声を荒らげていた。
「あなたは監査院の人間です。王家の指揮下に入れば、私たちの独立性も中立性も失われます。それに、私たちは『同じ食卓で話し合って決める』と約束したじゃありませんか!」
ダリオは、荷物をまとめる手を止めず、冷徹な声で返した。
「相談している時間はなかった。それに、これは必要な判断だ」
「何が必要だと言うんですか! 中立性を捨ててまで!」
「俺が指揮権を握らなければ、強硬派の将軍が輸送路を完全に封鎖する。そうなれば、薬も食料も届かず、名乗り出てくれた三割の参加者すら死ぬことになるんだぞ!」
ダリオが振り返り、その灰色の瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。
「セヴランが提示した七日間。あなたにその猶予を与えるためには、誰かが物理的に輸送路をこじ開けなければならない。軍の内部を抑え込めるのは、元隊長である俺しかいないんだ」
「それは……」
私は言葉に詰まった。
彼が行く必要はある。けれど、正しい結論なら、そこへ至る過程で私を置き去りにしていいわけではない。
「……四年前と同じです」
私は震える声で言った。
「あなたはまた、一人で決断して、一人で泥を被ろうとしている。私が怒っているのは、王命を受けたことではありません。私の知らないところで、あなたの人生が差し出されることです」
「俺はあなたを信じているからこそ、この背後を任せて行くんだ」
ダリオは譲らなかった。
「俺は輸送路を守る。あなたは、残りの七割の参加者を集めて国を救え。別々の場所で、それぞれの職務を果たすんだ」
「『信じている』という言葉で、相談しなかったことを正当化しないでください」
「なら、どうしろと言う。あなたの許可が下りるまで、閉じていく道を眺めていろと?」
「許可が欲しいなんて言っていません! たった一言、知らせてほしかった。あなたは私に、他人の選択を守れと言いながら、あなたを失うかもしれない私の選択だけは、最初から奪うのですか」
ダリオの顔から、さっと熱が引いた。
「……俺の命を、あなたの持ち物のように言うな」
今度は、私の胸へ刃が入った。
「持ち物だなんて言っていません! でも、怖がることも、反対することも、最後に背中を押すことも、全部あなた一人で済ませないでと言っているんです」
「では何を選べと言うんだ。俺が行かず、薬を待つ者たちを死なせる道か」
「そうやって二つしか道がないように言う、その決め方が嫌なんです!」
言葉が途切れた。
ダリオは荷紐を握ったまま動かず、私は爪が掌へ食い込むほど拳を固めていた。どちらも相手を愛している。どちらも人を救おうとしている。それでも今は、その正しさが互いを傷つけていた。
言い争いの熱がまだ冷めないまま、私たちは玄関口へと向かった。
外には吹雪が舞い、出立を待つ馬が嘶いている。私は彼を睨みつけたまま、腕を組んで唇を固く結んでいた。ダリオもまた、険しい表情を崩していなかった。
結婚して初めての朝に、心がすれ違ったまま別々の場所へ向かう。その事実が、胸の奥をチクチクと刺していた。
彼が重い木製の扉に手をかけた瞬間だった。
吹き込んだ冷たい風に、私が思わず肩をすくめると、ダリオはピタリと足を止めた。
彼は無言で私との距離を詰めると、左手を伸ばしてきた。まだ怒っているのかと一瞬身を強張らせた私に、彼は触れず、震える指先で、ただ私の首元の外れかけた留め具を丁寧に結び直した。
「……風が冷たい。隙間風を入れるな」
それは謝罪でも、仲直りでもなかった。私の痛みは消えていないし、彼の怒りも解けてはいない。ただ、喧嘩をしていても相手を凍えさせたくないという愛情だけは、まだ私たちの間に残っていた。
「……帰ってきてください。話は、終わっていません」
「分かっている。帰ってから、続きを話す」
ダリオは笑わなかった。私も許したふりはしなかった。
それでも彼は吹雪の中へ躍り出て、馬に跨がった。
「俺は輸送路を開く。あとは頼んだぞ、ノエラ」
彼はそれだけを残し、近衛の騎士たちと共に雪煙を上げて走り去っていった。
彼の背中が見えなくなった後、私は少しだけ温かくなった首元の留め具に触れ、まだ痛む胸のまま深呼吸をした。
「落ち込んでいる暇はありませんね。私たちは私たちの仕事を――」
気を取り直して執務室に戻った私は、ダリオが机の上に残していった王命の書状の写しを手に取った。彼がどういう権限で動くのか、正確に把握しておくためだ。
しかし、その書面の末尾。インクの掠れそうな小さな文字で追記されていた一文を読んだ瞬間、私の全身から血の気が引いた。
『――なお、二次感染防止および現場の混乱を避けるため、王立呪約監査院の全職員による疫病区への立ち入りを一切禁ずる』
指先が震えた。
王家は、ダリオの統率力だけを利用するために彼を近衛に引き戻したのではない。彼を監査院から引き剥がした上で、この一文を突きつけるためだ。
疫病区への立ち入り禁止。それはすなわち、感染の中心地で『第零頁』の魔力がどのように作用しているのか、本当の受益者が誰なのか、監査院が現地で直接契約の糸を読み解く権利を完全に剥奪されたことを意味していた。
王家は、私たち呪約師の目を完全に塞ごうとしていたのだ。




