第33話 一万人を救う千人の熱
空を覆う巨大な金色の網――建国契約『第零頁』の圧倒的な魔力に弾き飛ばされ、私は執務室の床に打ち付けられた。
「ノエラ!」
ダリオがすぐに私を抱き起こし、その腕の力強さが痛む背中を支えてくれた。
「大丈夫です……でも、止められなかった」
私は荒い息を吐きながら、窓の外を見上げた。夜明けの空に張り巡らされた金色の糸が、心臓の鼓動のように赤く脈打っている。王都で発生した未知の熱病。数万人規模の苦痛が、今まさに、辺境の国境登録民たちへ強制的に転送されようとしているのだ。
その時、執務室の通信魔導具が、これまで聞いたこともないような耳障りなノイズを発した。
「ノエラ、ダリオ! 王都からの通信ですが、エステル様からじゃありません。ものすごい魔力で、強引に回線が割り込まれています!」
ミナが盤面を押さえながら叫ぶ。
直後、魔導具から響いてきたのは、氷のように冷たく、洗練された男の声だった。
『――聞こえているか、呪約師』
その声には聞き覚えがあった。南部鉱山の第三坑道で、自らの寿命一年分を差し出し、私たちの前で実務的な解決をやってのけた男。
「王国財務院総監、セヴラン・アルノー卿……!」
ダリオが私の前に立ち、鋭い声で相手の名を呼んだ。
『いかにも。新婚の朝に無粋な真似をしてすまないが、事態は一刻を争う』
セヴランの声に焦りはなく、ただ淡々と事実を述べていく。
『王都東区で発生した熱病は、予想を遥かに超える速度で拡大している。死者はすでに数百。王城地下の基幹システムが王都の崩壊危機を感知し、『第零頁』が自動起動した』
「なら、今すぐ止めてください! 辺境の人々に王都の病を押し付けるなんて、許されるはずがありません!」
私が通信盤に向かって叫ぶと、セヴランは小さく鼻を鳴らした。
『案ずるな。辺境の民だけに代価を押し付ける旧教会のやり方は、私の美学にも反する。現在、私が財務院の総権限を用いて、国境民への転送を一時的に保留状態にしている』
「保留……?」
『そうだ。だが、抑え込めるのも長くはない。だから私は、新たな国家契約を上書き発動させる』
セヴランの言葉と共に、通信魔導具の盤面に一枚の契約書の幻影が浮かび上がった。
『王都を救うための魔力と熱の負担を、国境民に限定せず、王国全土の国民から等しく強制徴収する。健康な成人から順番に、均等に熱と疲労を分担させる『全国一律強制分担』だ。これが最も公平で、最も確実に国を救う方法だ』
私は息を呑んだ。
確かに、辺境の少数だけに押し付けるよりは公平に聞こえるかもしれない。しかし、その実態は恐ろしいものだ。
「全国民に強制するですって……!? どれほど均等に分けたとしても、基礎体力のない老人や、持病のある者にとっては致死量になりかねません! 一万人を救うために、千人の弱者を切り捨てる気ですか!」
『その通りだ』
セヴランは、私の非難をあっさりと肯定した。
『国が滅びれば十万人が死ぬ。一万人を救うために千人の熱を燃やすのは、許容されるべき合理的な犠牲だ。誰かが泣いて選ばねばならないのなら、私がその泥を被る』
「それは同意ではありません! ただの暴力です!」
『ならば呪約師よ、これを見ろ』
盤面に浮かび上がった契約書の幻影が拡大される。
その筆頭、第一の署名欄に記されていた名前に、私は言葉を失った。
『セヴラン・アルノー』
そしてその下には、彼の妻や、成人したばかりであろう息子たちの名前が連なっていた。
『私はこの緊急契約の筆頭に、私自身と私の家族の署名を置いた』
セヴランの冷徹な声が響く。
『特権階級の例外は認めない。私も、私の家族も、国民と同じように熱病の苦痛を分担する。自ら血を流さない者が他人に犠牲を強いるのは悪だが、私も払うのだ。これのどこが不当だと言うのだ?』
背筋が凍るような恐ろしさだった。
オルデン大司教のように、自分だけが安全な場所にいて他人を犠牲にする悪党なら、その利己性を糾弾して引きずり下ろすことができる。だが、セヴランは違う。彼は自分の命すらも国家の歯車として計算に入れ、本気で国を救うために自腹を切っている。
自分の血を流すことを厭わない本気の合理主義者を前に、単なる感情論は通用しない。
「……強制は、させません」
私は震える拳を握りしめ、通信盤を真っ直ぐに見据えた。
「王都を救うための負担は必要です。ですが、強制ではなく、自発的な参加者を募ります。第一部で得た意思確認の手法を使い、匿名で、いつでも撤回可能な形で、安全な上限を設けた疲労分担の契約網を作ります」
『自発的な参加だと?』セヴランが冷笑する。『自分が病になるかもしれない契約に、見ず知らずの他人のために進んで署名する馬鹿がどれだけいるというのだ』
「集めてみせます。監査院の全国の支所を通じて」
私の強い言葉に、隣のダリオも無言で頷いた。
沈黙が落ちた後、セヴランは短く息を吐いた。
『よかろう。呪約監査院の理想論がどこまで通用するか見せてもらおう。だが、タイムリミットは七日間だ』
彼の声が一段と低くなる。
『七日後、王都の医療は完全に崩壊する。それまでに自発参加の分担者が王都の熱を相殺する『必要人数』に達しなければ、私は容赦なく全国強制分担の契約を発動させる』
通信が、一方的に切断された。
執務室に残されたのは、魔導具の放つ無機質な光と、窓の外で不気味に赤く明滅し続ける金色の網だけだった。
「すぐに全国の支所に連絡を! エステルにも王都内で安全な分担術式の要件を組み立ててもらいます」
私はミナとダリオに指示を出し、監査院の総力を挙げた戦いが始まった。
各地方の書記や呪約師たちが、村や街の広場に立ち、王都の危機と「撤回可能な安全な分担」を必死に呼びかける。ダリオは各地の騎士団のつてを頼り、健康な成人たちへ協力を打診した。
私は、人の善意を信じていた。
強制されず、安全が保障され、匿名で誇りだけを胸に秘められるのなら、必ず多くの人が手を挙げてくれるはずだと。
しかし、現実は私が思っていたほど甘くはなかった。
数時間後。各地から届き始めた最初の集計結果をまとめたミナが、インクで汚れた手を震わせながら立ち上がった。
「ノエラ……」
ミナの顔は青ざめ、その目には涙が浮かんでいた。
「最初の集計が出ました。でも……駄目です」
「どうしたの、ミナ。何人集まった?」
ダリオが急かすように問うと、ミナは手元の羊皮紙を強く握りしめ、絶望的な数字を口にした。
「一万人を救うための必要人数に対して……自発参加を申し出てくれた人は、たったの三割しかいません」
私は、足元から崩れ落ちるような錯覚に襲われた。
七日間のタイムリミットは、すでに削られ始めている。このままでは、セヴランの強圧的な全国一律強制分担が発動し、多くの弱者が犠牲になる。
自発的な善意だけでは、国を救えないのか。




