第32話 結婚翌朝、王都が閉じた
夜明け前の、まだ薄暗く静かな寝室。
東の空き家を改修した新しい家で、私は微かな衣擦れの音で目を覚ました。
隣からは、規則正しく穏やかな寝息が聞こえてくる。少しだけ身じろぎをして顔を向けると、すぐ目の前にダリオの顔があった。同じ寝台で迎える、夫婦としての最初の朝だった。
私が目を開けたことに気づいたのか、ダリオも静かに灰色の瞳を開いた。
「……起こしてしまったか」
「いいえ。ちょうど、目が覚めたところです」
ダリオは毛布の中で、ゆっくりと自分の左手を動かした。四年前の戦場での代価を背負い、黒褐色の聖痕が残り、まだ完全には動かないその手。彼が最も不自由を感じているはずのその左手が、私の左手を探り当て、そっと指先を絡めてきた。
彼の親指が、私の薬指にはめられた真新しい銀の指輪の表面を、確かめるように、そしていとおしむように撫でる。
「おはよう、ノエラ」
「おはようございます、ダリオ」
彼の左手から伝わる温もりと、指輪に触れる優しい感触が、私たちが本当に家族になったのだという実感を与えてくれる。それは、言葉よりも深く確かな、静かで甘い幸福の時間だった。
だが、その穏やかな朝の静寂は、無残にも引き裂かれた。
ゴォン、と。
遠く地平線の彼方、王都の方角から空気を震わせるような重苦しい鐘の音が響いてきたのだ。
一回、二回、三回。
ダリオの顔つきが、夫の顔から一瞬にして元近衛隊長のそれへと変わった。
「王都の非常鐘だ」
鐘の音は止まらない。十、十一、十二……そして、十三回。
十三回の鐘。それは、大規模な魔獣の侵攻や、王都そのものの存亡に関わる致命的な危機が発生したことを知らせる、国家の最高警戒態勢の合図だった。
私は弾かれたように寝台を飛び出し、窓を開け放った。
冷たい春先の風が吹き込む中、私が見上げた空には、信じられない光景が広がっていた。
夜明けの薄青い空を、巨大な『金色の網』が覆い尽くそうとしていたのだ。昨夜、村の祭壇の隠し穴から発見した建国契約『第零頁』。あの古びた羊皮紙から放たれていた特異な魔力の糸が、王都を中心に天を覆い、恐ろしい速度で北辺の村や、南部の鉱山の方角へとその網を張り巡らせていく。
「……なんてこと」
私は絶句した。王都から伸びる無数の黒い糸ではない。国家そのものを縛る、巨大な金色の契約網だ。
「着替えろ、ノエラ! 監査院へ向かうぞ!」
ダリオの鋭い声に我に返り、私たちは急いで身支度を整え、家を飛び出した。
監査院の執務室に駆け込むと、すでにミナが青ざめた顔で通信魔導具の前に立っていた。盤面は、見たこともないほどの激しい赤い光を点滅させている。
「ノエラ、ダリオ! 王都のエステル様から、緊急の通信が入っています!」
ミナが震える手で盤面を操作すると、エステルの切羽詰まった声が魔導具から直接響き渡った。
『ノエラ、聞こえる!? 王都が……王都が閉鎖されたわ!』
「エステル、落ち着いて。十三回の鐘が鳴ったわ。そっちで何が起きているの!?」
『疫病よ。昨夜から、王都の東区を中心に出所不明の恐ろしい熱病が発生したの。感染力が異常に強くて、たった一晩で数千人が倒れたわ。高熱と呼吸困難を引き起こして、普通の薬草が全く効かないの!』
エステルの声の背後で、数え切れないほどのうめき声と、怒号が飛び交っているのが聞こえた。
『今朝、国王陛下の名代として摂政団が王都の城門を完全封鎖したわ。私を含めた治療院の医師たちが総出で対応しているけれど、患者の増える速度に全く追いつかない。……このまま感染が拡大すれば、間違いなく七日後には王都の医療は完全に崩壊するわ!』
七日後。
王都の何万人という人間が、未知の熱病に飲み込まれて死滅するということだ。
「だから、あの金色の網が展開されたのか……」
私は執務室の窓から、空を覆う金色の契約網を睨みつけた。
「エステル。王都の空に、巨大な魔法陣のようなものが展開されているのは見える?」
『ええ、見えているわ。教会の聖女が使う奇跡の光じゃない。王城の地下から、国全体を覆うような魔力が放出されているの』
「それは建国契約『第零頁』よ」
私は、昨夜読み解いたばかりの古代の契約式の真実を二人に告げた。
「あの網は、王都が致命的な危機に陥った際、中央の機能を守るために自動的に発動する国家防衛システムです。受益者は王都の市民。そして……代価を負担するのは『国境登録民』です」
「国境登録民……まさか」
ダリオが息を呑んだ。
「はい。この北辺の村の人々や、南部鉱山の坑夫たちのことです。あの金色の網は、王都で発生した熱病の症状を、国境地帯に住む人々に強制的に転送して、王都の人間を無傷で救うためのシステムなんです」
執務室が、凍りついたような静寂に包まれた。
私たちは、南部鉱山で寿命を搾取される坑夫たちを救い、この北辺の村で記憶を奪われる村人たちの自由を取り戻したばかりだ。彼らはようやく、自分たちの労働と少しの疲労で、誇りを持って生きていけるようになった。
それなのに。王家が隠し持っていたこの巨大な暴力は、彼らが取り戻したばかりの人生の上に、王都数万人の致死的な熱病を強制的に押し付けようとしているのだ。
「冗談じゃないわ……!」
私は監査印を強く握りしめ、窓から身を乗り出した。
空を覆う金色の網に向かって、監査の力を限界まで解放する。
「契約番号、第零頁! 負担者に対する事前の説明なし、同意なし、生活を破壊する過剰な代価の転送! 私は王立呪約監査院の権限において、この不当な強制転送を直ちに停止する!」
私の指先から放たれた透明な光が、空を覆う金色の網に向かって一直線に撃ち出された。
だが、光が金色の網に触れた瞬間、バチィッ! という鼓膜を裂くような破裂音と共に、私の魔力は完全に弾き返された。
「くっ……!」
強烈な反動が身体を襲い、私は床に投げ出された。
「ノエラ!」
ダリオが私を抱き起こす。
「駄目です……はじかれた」
私は荒い息を吐きながら、絶望的な事実を口にした。
「あの契約は、国そのものの最高権限で保護されています。地方の監査印一つでは、外部から強制停止させることができない……!」
私が無力感に打ちひしがれる中、空の金色の網が、心臓の鼓動のように不気味に赤く脈動し始めた。
それは、契約の要件が満たされ、代価の徴収が始まる合図だった。
王都で苦しむ数千人の熱病の苦痛が、金色の糸を通って、この村と南部の空へ向かって流れ込もうとしている。
逃げ場のない圧倒的な理不尽のシステムが、辺境の人々へ向けて、ついにその強制転送を開始した。




