第31話 雪解けの結婚式
北辺の村から王立呪約監査院へと帰還して数週間。長く厳しい辺境の冬が終わりを告げ、屋根から落ちる雪解け水の音が、軽やかな春の訪れを知らせていた。
監査院の敷地の東側にあった古い空き家は、ダリオと村の職人たちの手によって修繕され、見違えるように温かな木の香りを放つ私たちの新しい家となっていた。
その真新しい居間のテーブルの上に、一枚の羊皮紙が広げられている。
『婚姻証書』。
王家や教会の仰々しい儀式はない。監査院の仲間たちと、エステルや王都からお祝いに駆けつけてくれた数人の友人たちだけが見守る、ささやかで静かな結婚式だった。
私はペンを握り、自分の名前を書き入れた。続いてダリオが、不自由な左手を添えながら、右手で力強く『ダリオ・ヴェルン』と署名する。
「ミナ、お願いできるか」
ダリオがペンを差し出すと、私たちの向かいに立っていたミナが、こくりと真剣な顔で頷いた。
彼女はペンを受け取り、証人欄の前に立つ。
半年前、彼女は自分の名前を書くことすら恐れていた。教会の台帳で『北部第十七号』と呼ばれ、理不尽な熱を押し付けられていた日々。そこから抜け出し、監査院の書記見習いとして、彼女は自らの目で嘘を見抜き、村の記録を書き写してきた。
震えのない、しっかりとした手つきで、彼女はペンを走らせる。
『ミナ・ロウ』
証人欄に書き込まれたその名前は、インクの染み一つない、堂々としたものだった。
「ありがとう、ミナ」
私が微笑みかけると、ミナは少しだけ頬を赤くして、私の腰にぎゅっと抱きついた。
「ノエラ、ダリオ。おめでとうございます。……私、お二人の家族になれて、本当に嬉しいです」
ダリオの大きな右手が、ミナの亜麻色の髪を優しく撫でる。
血の繋がりはない。過去の傷を抱えた者同士が、自分の意思で選び取った家族の形。それが、この婚姻証書によって確かに結ばれたのだ。
祝福の宴が終わり、夜の静寂が東の家を包み込んだ。
初めて二人きりで過ごす、新しい家での夜。
寝室のランプが、真新しいシーツと、ダリオの横顔を柔らかく照らしている。彼は右手で茶器を傾け、左の指先で蓋を押さえながら、温かいお茶を二つの杯に注いでくれた。
「疲れていないか、ノエラ」
「いいえ。とても幸せな疲れです」
私は彼から杯を受け取り、一口飲んでから、それを小さなサイドテーブルに置いた。
ダリオも杯を置き、私の隣、ベッドの端に腰を下ろした。
彼の灰色の瞳が、静かに私を見つめている。四年前の戦場で部下を縛ってしまった後悔、そして法廷でその責任を引き受けた重圧。すべてを共有し、乗り越えてきた彼との距離には、もはや一片の嘘も隠し事もなかった。
「……ノエラ」
ダリオの右手が、私の頬のすぐ横でふっと止まった。
「触れてもいいか?」
出会ったあの日から、彼はいつもそうだった。どれほど心が近づいても、決して自分の感情を押し付けることはせず、私の意思と『同意』を第一に尊重してくれた。
それが彼の誠実さであり、私が愛した優しさだ。
でも、今夜は。
私は、頬に触れようとしていた彼の手首を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「……ノエラ?」
驚いたように目を瞬かせるダリオを見つめ返し、私はゆっくりと首を横に振った。
「今まで、私はいつもあなたに尋ねられ、あなたが手を差し出してくれるのを待っていました。選ぶ権利を与えられて、ただ受け取るだけで」
私は彼の手を引き寄せ、自分の頬に押し当てた。彼の手のひらにある硬い剣ダコと、温かい体温が伝わってくる。
「でも、今日は違います」
私は彼に身を寄せ、その唇のすぐ近くで、はっきりと言葉を紡いだ。
「今日は、私から触れたいんです」
ダリオの息が、わずかに止まった。
「……いいのか」
「はい。でも、一つだけ約束してください」
私は彼の首元から覗く、左肩の痛々しい黒褐色の聖痕――彼が背負ってきた傷の証にそっと指を這わせた。
「もし痛かったり、無理をしていると思ったら、すぐに言葉にして止めてください。私も、怖い時はちゃんと『怖い』と言いますから」
「あぁ。分かった。俺も、あなたが無理をしていると感じたら、必ず止める」
それは、呪約師としての契約でも、重苦しい義務でもない。互いを決して傷つけないための、愛に満ちた同意の確認だった。
ダリオの右手が私の腰を抱き寄せ、不自由な左手が、私の背中へ優しく、大切そうに添えられる。
触れ合う肌の温度が、少しずつ熱を帯びていく。
私たちは互いの傷を隠すことなく、ゆっくりとランプの灯りを吹き消した。
春の雪解けを知らせるかすかな水音だけが、静かな夜の闇に優しく響いていた。
数時間後。
夜明け前の静けさの中、私はベッドを抜け出し、一枚のショールを羽織って居間の机に向かっていた。
隣の寝室からは、ダリオの穏やかな寝息が聞こえてくる。彼を起こさないよう、私はランプの火を最小限に絞った。
机の上に広げられているのは、北辺の村の祭壇――あの『忘却の祭壇』の隠し穴から発見され、監査院へと持ち帰ってきた古びた羊皮紙の束だった。
表紙には『ルーデン王国建国契約・第零頁(写し)』と記されている。
王家が秘匿してきた、国家そのものの命運を縛る究極の契約。この数週間、私は少しずつこの複雑な古代の術式と暗号を解読し続けていた。
「……ようやく、見えた」
私は監査の光を灯し、羊皮紙の奥底に隠された真実の文字を浮き上がらせた。
空全体を覆うような金黒の巨大な網目のビジョンが、脳裏にフラッシュバックする。
受益者は『王都』。
国家の危機、すなわち大規模な魔獣の襲来や疫病の蔓延時において、王都を絶対的に守護するための結界と奇跡を強制起動させるシステム。
問題は、その途方もない奇跡の『代価』を誰が払うように設定されているかだ。
私は、浮かび上がった血のような赤い文字の羅列を読み上げ、全身の血の気が引いていくのを感じた。
『代価負担者――国境登録民』
国境登録民。
それは、つい先日まで記憶を捧げて村を守っていた北辺の人々や、寿命を削って魔導炉を動かしていた南部鉱山の坑夫たちのことだ。
王都の平和と繁栄が崩れ去ろうとした時。国は、一番過酷な環境で生きる辺境の民たちの命と魔力を、彼らの同意の一切ないまま、根こそぎ搾取して強制的に王都へ転送する仕組みを作っていたのだ。
カチャン、と。
私が手からペンを落とした音と同時に、窓の外から異様な音が響いた。
王都の方角から、空気を震わせるような重い鐘の音が鳴り響いたのだ。
一回、二回、三回。
それは、国家の最高警戒態勢を知らせる弔鐘だった。
私たちの静かな雪解けの結婚式から一夜明けた、最初の朝。
窓の外を見上げた私の目に映ったのは、王都の空を覆い尽くし、北辺の村や南部鉱山に向かって無数の金色の網を張り巡らせようとする、巨大で絶望的な『第零頁』の強制起動の光だった。




