第30話 あなたの選択を奪わない
ヘルガの目からこぼれ落ちた涙は、強要された悲壮感によるものではなかった。自分が選んだ記憶を差し出し、愛する村の未来へ繋いだという、誇りと尊厳の証だった。
私は、テーブルの上に広げた白紙の羊皮紙に向かい、力強くペンを走らせた。
三十年間、この極寒の北辺で彼らが守り抜いてきた絆を否定せず、同時に、強制という名の暴力から個人の自由を守り抜く。そのための、全く新しい契約式を組み上げるのだ。
「皆さん、どうか聞いてください」
私はペンを置き、集会所に集まった村人たち、そして村長を真っ直ぐに見据えた。
「これより、この村の結界を四つの絶対条件に基づいた新しい契約へと再設計します」
息を呑む村人たちに向け、私は一つ目の条件を提示した。
「第一に『成人限定』。未成年の子どもは、いかなる理由があろうと代価の対象から外します」
「第二に『疲労分散』。結界を維持するための基本魔力は、村の大人全員から均等に徴収する『疲労』とします。一晩眠れば回復する程度の肉体的な疲れであり、これだけで通常時の結界は完全に維持できます」
そこまでは、私が以前に提示して拒絶された代案と同じだ。村長が、微かに眉をひそめるのが分かった。
「そして第三に『記憶の上限固定』です」
私は、ヘルガの方へ視線を向けた。
「ヘルガさんのように、自らの意思で村のために記憶を捧げたいと望む方の尊厳を、私はもう否定しません。ただし、捧げる場合は本人が事前に『この記憶だけ』と上限を必ず指定し、それ以上の過剰徴収を監査印によって物理的に防ぎます。すべてを忘れ、家族の顔すら分からなくなるような悲劇は二度と起こさせません」
「……しかし、呪約師様」
村の若い男が、戸惑うように声を上げた。
「俺たちは、疲労の分担には賛成だ。でも、もし記憶を捧げる者と、疲労しか出さない者が分かれたら……結局、記憶を出さない奴は村のために身を切らない卑怯者だとして、また村八分が起きちまう」
「ええ。その同調圧力こそが、村から選択の自由を奪っていた一番の毒です」
私はダリオと目を合わせた。四年前、同じ圧力に苦しんだ彼が、静かに、そして力強く頷き返してくれた。
私は羊皮紙に書かれた、最後の、そして最も重要な条項を指差した。
「だからこそ、第四の条件として『匿名拒否』の術式を組み込みます」
「匿名、拒否……?」
「はい。誰が記憶を差し出したのか、誰が疲労だけで済ませたのか。その内訳を、契約の糸そのものに秘匿の術式を掛けて完全に隠蔽します。私を含め、誰が祭壇の記録を調べても、個人の負担内訳は絶対に分かりません」
集会所が、水を打ったように静まり返った。
これが、呪約師である私が導き出した結論だ。
誰が拒否したのか分からなければ、村八分にすることはできない。記憶を捧げた者は「自分が村を守った」という誇りを胸に秘めることができ、記憶を拒んだ者も「村を裏切った」と後ろ指を指されることなく、堂々と疲労の分担で村に貢献できる。
真の同意とは、拒否する自由が完全に守られて初めて成立するものなのだ。
「これが、皆さんの歴史と誇りを守り、同時に一人一人の選択を奪わないための、唯一の道です」
私は深く頭を下げた。
「……どうか、私にこの契約を監査させてください」
長い、長い沈黙が落ちた。
やがて、村長がゆっくりと歩み寄り、私の前に置かれた羊皮紙の契約書を見つめた。深い皺の刻まれた目から、一筋の涙がこぼれ、羊皮紙の上に落ちた。
「……三十年です」
村長は震える声で呟いた。
「私たちは三十年、誇りの名の下に、互いを監視し、犠牲を強要し合ってきた。本当は誰もが、これ以上家族の記憶を失いたくなかったのに。……呪約師様、どうか、どうか私たちを、その呪縛からお救いください」
村長のその言葉に、集会所にいたすべての村人が、泣き崩れながら深く頷いた。ミナが、安堵の涙を拭いながら、その歴史的な合意の瞬間を猛烈な勢いで記録簿に書き留めていく。
私は祭壇の前に立ち、地方管理印を高く掲げた。
外では、飢えた雪魔獣の群れが結界の弱まりを察知し、凄まじい咆哮を上げて結界の壁に体当たりを始めていた。氷の砕けるような音が響き、村人たちが悲鳴を上げる。
「ダリオ、少しだけもたれるかもしれません」
「あぁ。俺がいる。思い切りやれ」
ダリオが私の背後に立ち、いつでも支えられるように右手を添えてくれた。その体温に背中を押され、私は残るすべての魔力を印章に注ぎ込んだ。
「新契約、起動!」
石の台座に監査印を打ち込む。
パァンッ、と鋭い音が鳴り響き、これまで村人を縛り付けていた青白い記憶の糸が、無数のガラスの破片のように砕け散った。
一瞬、村を覆う結界が消失し、猛吹雪と魔獣の赤い目が露わになる。
だが次の瞬間、砕け散った光の破片が温かい銀色に変色し、村の大人たち全員の胸から伸びた無数の銀糸となって、再び空を覆い尽くした。一人一人の負担はごく僅かな疲労。だが、それが何百本も編み込まれることで、かつてないほど分厚く、強靭な銀の網の結界が完成した。
ドォンッ!
結界に体当たりをした巨大な雪魔獣が、銀の網に弾き飛ばされ、雪原を転がっていく。
結界は、びくともしなかった。
「……ふうっ」
村人たちが一斉に、畑仕事を終えた後のような心地よい疲労感の溜息をついた。誰も、大切な人の顔を忘れてはいない。誰も、悲しい思いをしていない。ただ少し身体が重いだけで、村は完全に守られたのだ。
「やった……!」
若い母親が、隣にいる子どもをきつく抱きしめながら歓喜の声を上げた。集会所が、安堵と喜びに包まれる。
私は極度の魔力消費で膝から崩れ落ちそうになったが、背後にいたダリオがしっかりとその腕で私を抱き留めてくれた。
「よくやった、ノエラ」
彼の不器用な労いの言葉が、私の耳元に優しく落ちる。
技術的な正解だけを押し付けるのではなく、彼らの心に寄り添い、真の同意の形を見つけ出した。私は呪約師として、ようやく一つの正しい答えに辿り着いたのだ。
しかし、私たちが安堵の息を吐いた、まさにその直後だった。
ゴゴゴゴゴ……!
古い契約の糸がすべて消え去った祭壇の台座が、突然、地の底から響くような重い石音を立ててスライドし始めたのだ。
誰も知らない隠し機構。現れた空洞の中から、古びた羊皮紙の束がせり上がってくる。
そこから放たれていたのは、黒でも、銀でもない。空全体を覆い尽くすほどの、巨大で禍々しい『金黒の網』の魔力だった。
「これは……」
ダリオが息を呑む。
私は、圧倒的な重圧を放つその羊皮紙の束の表紙に刻まれた文字を読み上げ、凍りついた。
『ルーデン王国建国契約・第零頁(写し)』
それは、辺境の村の結界などではない。国そのものの命運を縛る、国家契約の存在を示すものだった。




