第29話 私の記憶は、私が選ぶ
「どうか、私の記憶の契約を、監査していただけませんか。私が選んだものを、私が決めた分だけ、村のために使えるように」
ヘルガの静かで力強い声が、冷え切った集会所に響き渡った。
村人たちは息を呑み、村長は慌てて彼女の前に進み出た。
「ヘルガ婆さん、何を言っているんだ。あんたの番はまだ先だ。それに、そんな勝手なことをすれば結界の均衡が――」
「村長。私はもう、村の決まりだからと泣きながら記憶を捨てる若い衆を見たくないんだよ」
ヘルガは、皺深く刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべたまま、村長の言葉を遮った。
「それに、これは村のためじゃない。私が、私自身の意思で選びたいんだ」
私は、ヘルガの澄んだ瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
これまでの私は、代価を伴う契約そのものを「なくすべき危険なもの」として扱ってきた。だが、彼女は誰に強制されるでもなく、村八分の圧力に屈したわけでもなく、自らの明確な意思で結界に寄与しようとしている。
「……分かりました」
私は、監査院の地方印を取り出した。
「ヘルガさん。あなたが差し出してもいいと思える、その記憶の上限を教えてください。私がこの印で、奪われる代価をそれだけに個別固定します。指定したもの以外は、決して奪わせません」
「ありがとう、呪約師様」
ヘルガは小さく頷き、少しだけ懐かしむように目を細めた。
「私が差し出すのは、死んだ夫がよく吹いていた、あの口笛の旋律一つだよ。……あれを聞くと、つい文句を言いたくなってしまうからね。結界の足しになるかは分からないが、これなら惜しくはない」
それは、村を守るための巨大な犠牲と比べれば、あまりにもささやかで、個人的な記憶だった。
「ヘルガさん、そんな小さな記憶では結界の維持には……」
村長が困惑したように声を上げたが、私の隣に立っていたダリオが、低く静かな声でそれを制した。
「村長。彼女が何をどれだけ差し出すか、それを決めるのは彼女自身だ。他人が口を挟むことじゃない」
ダリオは、それ以上何も言わなかった。彼もまた、四年前の戦場で「自分を差し出す」という決断で部下たちを縛ってしまった過去がある。だからこそ彼は、答えを代弁したり、ヘルガの選択を自分の価値観で評価したりはしなかった。ただ、一人の人間が誇りを持って選択するその瞬間を、私の隣で静かに見守っていた。
私は地方印を握り、空中に青白い魔力の糸を展開した。
「契約者ヘルガ。代価の上限を『亡き夫の口笛の旋律の記憶』一つに固定。本人の明確な同意を確認しました」
地方印から放たれた光が、ヘルガの胸から伸びる青白い糸に絡みつき、強固な銀色の枷となって代価の流出量を厳格に制限した。
これで、指定した記憶以外が奪われることは絶対にない。
「少し、待っておくれ」
祭壇に手を触れる直前、ヘルガは集会所の隅にいた自分の家族へと振り返った。
そこには、彼女の息子夫婦と、まだ七歳になる小さな孫の男の子が不安そうに立っていた。
「坊や、こっちへおいで」
ヘルガが手招きすると、孫はとてとてと歩み寄り、彼女の足元に抱きついた。
ヘルガはゆっくりと膝を折り、冷え切った孫の小さな頬を、皺だらけの両手でそっと包み込んだ。
「おばあちゃん、おじいちゃんのお歌、忘れちゃうの?」
「ああ、そうだよ。だから、坊やに預けておこうと思ってね」
ヘルガは孫の顔を優しく見つめたまま、小さく息を吸い込み、唇をすぼめた。
集会所の静寂の中に、ひどくかすれた、けれどどこか軽快で温かい口笛の音が響き始めた。
それは、厳しい冬の寒さを一瞬だけ忘れさせるような、日向の匂いがする旋律だった。ヘルガの夫が、生前、薪割りの帰りや夕食の前にいつも吹いていたというその曲。彼女は目を閉じ、指先で孫の背中を一定のリズムで優しく叩きながら、その旋律を最後まで吹き切った。
「さあ、坊や。吹いてごらん」
孫はコクリと頷き、一生懸命に唇を尖らせた。
ヒュウ、プスッ、と最初は風の抜けるような音しか出なかったが、何度か繰り返すうちに、不器用ながらもヘルガが吹いたものと同じ旋律が、たどたどしく形作られていった。
ヘルガはその小さな音をじっと聞き届け、深く、満足そうに頷いた。
「上手だよ。……もう、大丈夫だ」
彼女は孫の頭を一度だけ力強く撫でると、立ち上がり、迷いなく祭壇の石台に手を置いた。
淡い青白い光がヘルガの身体を包み込んだ。
彼女の胸元から、一本の細い光の糸がスッと抜け出し、結界の源へと吸い込まれていく。
それは一瞬の出来事だった。
光が収まると、ヘルガは少しだけきょとんとした顔で、自分の手と、目の前にいる孫の顔を交互に見比べた。
「……おばあちゃん?」
孫が不安そうに、もう一度、さっき教わったばかりの口笛を吹いた。
たどたどしくも温かい、日向の匂いのする旋律。
ヘルガは不思議そうに目を瞬かせた。
「おや、坊や。それは誰の曲だい? なんだか、とても……」
彼女は首を傾げた。その記憶は、すでに結界の一部となって彼女の中から完全に消え去っている。夫が吹いていたその曲の意味も、それにまつわる些細な口論の思い出も、彼女の頭にはもう残っていない。
だが、ヘルガの瞳から、ふいに一粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は驚いたように自分の頬に触れ、濡れた指先を見つめた。
「おかしいね。風邪でも引いたのかねえ……涙が、止まらないよ」
理由も分からずにこぼれ落ちる涙を、彼女は荒れた袖口で何度も拭った。
孫が小さな手で、彼女の袖をぎゅっと握りしめる。冷たいすきま風が吹き込む集会所の中で、二人の間にあるその手の体温だけが、失われた記憶の代わりにそこにあった。
私は、その光景を静かに見届けていた。
ヘルガの顔には、無理やり記憶を奪われた者の絶望や悲壮感はなかった。彼女は確かに何かを失ったが、それは自分の意思で選び、未来へ繋ぐために手放したものだ。
「……この契約は、正当なものです」
私は、村人たちに向けてはっきりと宣言した。
「利益と代価が説明され、拒否する自由が担保され、奪われる量に明確な上限がある。これは搾取ではなく、個人の尊厳に基づいた正当な魔法契約です」
村人たちは、理由の分からない涙を流しながらも穏やかな顔をしているヘルガを見て、言葉を失っていた。
彼らが三十年間縛られてきた「同調圧力による犠牲」と、ヘルガが今見せた「自発的な選択」の違い。それは、魔法の強さではなく、人間の意思の在り方の違いだった。
「呪約師様」
村長が、震える声で私を呼んだ。
「私たちの……これまで捧げてきたものは、決して間違ってはいなかった。だが、これからは……」
「ええ。もう、誰かが泣きながら全てを奪われる必要はありません」
私は、丸めていた疲労分担の契約書をもう一度広げた。
村の誇りを否定せず、同時に個人の自由を守る道。
それは、記憶の提供を完全に禁止することではない。強制(村八分)を排除した上で、大人が均等に負担する『疲労』を基盤としつつ、ヘルガのように自発的に差し出したいと願う『小さな記憶』を組み合わせる。
一人一人が自分で上限を決める、新しい結界の再設計へ向けて、私は迷いなくペンを握った。




