第28話 正しい代案を拒まれる
「……決して受け入れることはできません」
村長の静かで、しかし岩のように固い拒絶の声が、集会所の冷たい空気に響いた。
私は、テーブルの上に広げたままの『疲労分担の契約書』に置いた両手を、思わず強く握りしめた。
「なぜですか」
震える声が口を突いて出た。
「この疲労分担案は、村の大人全員で少しずつ魔力を捻出する仕組みです。肉体的な疲れは一晩眠れば回復します。計算上、結界の強度は今と全く変わりませんし、子どもたちの顔を忘れることも、過去の思い出が消え去ることもないんです。誰も悲しまずに済む、安全で正しい契約のはずです!」
私は必死に訴えかけた。
南部鉱山の時のような、見切り発車の停止ではない。ミナの協力で未成年の違法登録を解除した上で、村人たちの本音である「本当は忘れたくない」という願いを叶えるために、徹夜で組み上げた完璧な代案だ。
それを拒む理由など、どこにもないはずだった。
「呪約師様。あなたのその計算は、きっと一分の狂いもなく正しいのでしょう」
村長は、悲しげに目を伏せた。
「ですが、正しすぎるのです」
「正しすぎる……?」
私が怪訝に眉を寄せた時、集会所の隅に立っていた四十代ほどの村の男が、耐えきれないというように一歩前へ進み出た。
「あんたの言う通り、疲労だけでこの結界が維持できるのなら……」
男の目は血走り、その両手は激しく震えていた。
「だったら、十年前に俺の親父が捧げた記憶は、一体何だったんだ!」
男の悲痛な叫びが、私の耳を打った。
「親父は、俺たち家族を魔獣から守るために、俺との思い出を全部祭壇に食わせた! 最後には俺の顔を見ても誰か分からなくなって、そのまま死んでいった! 親父だけじゃない。この村の大人たちはみんな、心を引き裂かれる思いで、大切な記憶を村のために差し出してきたんだ!」
男の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。他の村人たちも、一様に目を伏せ、唇を噛み締めている。
「それを、ぽっと出の呪約師がやってきて、『疲労だけで足りますよ』『記憶を燃やすなんて間違ってますよ』なんて……。じゃあ、俺たちの親や家族が捧げてきたものは、何の意味もない、ただの無駄死にだったって言うのか!」
頭を、巨大なハンマーで殴られたような衝撃だった。
私は息を呑み、テーブルに広げた自分の書いた美しい羊皮紙の計算式を見つめた。
『記憶は危険だから、使わないようにしましょう』
私は彼らを救うために、そう言った。
だが、その言葉は彼らにとってどう響いただろうか。三十年間、見捨てられた極寒の地で、彼らが身を切る思いで繋いできた命のバトン。愛する者を守るために記憶を差し出したという彼らの『誇り』を、私はただの「非効率で危険なエラー」として片付け、修正しようとしたのだ。
「私たちは、王都に見捨てられてから三十年、この記憶の儀式を村の絆として生きてきました」
村長が、男を庇うようにして静かに語り継いだ。
「あなたが持ち込んだ代案は、私たちの過去の犠牲をすべて『間違い』だったと否定するものです。私たちの記憶を、早く捨てて取り替えるべき『危険物』としか見ていない。……だから、私たちはあなたの正しさを、受け入れるわけにはいかないのです」
足元が、崩れ落ちていくような感覚だった。
私はまた、間違えたのだ。
南部鉱山では、彼らの「生活」を奪った。
そしてこの北辺の村では、彼らの「意味と誇り」を奪おうとした。
中央教会が「国を救うためだ」と一方的な奇跡を押し付けたのと同じだ。私は「安全で正しいから」という理由で、当事者の歴史と感情を完全に無視した技術的解決を押し付けようとした。
どれほど計算が完璧でも、彼らの心を踏みにじるのなら、それは監査という名の暴力に過ぎない。
「……ノエラ」
隣に立っていたダリオが、私の肩にそっと左手を置いた。
彼の手は、私を咎めるでもなく、慰めるでもなく、ただ「倒れるな」と支えてくれていた。彼は元近衛隊長として、軍隊という組織の中で『無駄な犠牲の美化』の恐ろしさを知っているはずだ。それでも彼は、私の代わりに反論して村人を論破するようなことはしなかった。
これは、呪約師である私が向き合わなければならない壁だからだ。
ミナもまた、ペンの動きを止め、不安そうに私を見上げている。
「……申し訳ありませんでした」
私は深く頭を下げ、テーブルの上の疲労分担の契約書をゆっくりと丸めた。
「私は、皆さんがどれほどの思いでこの結界を守ってきたか、その痛みの重さを理解していませんでした。正しい計算だけを押し付け、皆さんの歴史を軽視したことを、どうかお許しください」
私が代案を取り下げると、村人たちの間に張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
しかし、問題が解決したわけではない。
私が提案を取り下げたということは、これまで通り、強制的な村八分の圧力の下で、泣きながら記憶を捧げる犠牲者がこれからも出続けるということだ。
誇りを守ることと、個人の自由を守ること。
その二つを両立させる道は、本当にないのだろうか。
「では、どうすれば……」
私が顔を上げず、呟くようにこぼしたその時だった。
「呪約師様。顔をお上げなさい」
集会所の奥から、ゆっくりとした足取りで一人の老女が進み出てきた。
深く腰の曲がった彼女の名はヘルガといった。白髪を後ろで束ねた彼女の顔には、厳しい冬をいくつも越えてきた深い皺が刻まれているが、その瞳は驚くほど澄んでいて、力強い光を宿していた。
「ヘルガ婆さん、駄目だ。あんたの番はまだ先のはずだ」
村長の制止を、ヘルガは皺だらけの手を軽く上げて制した。
「いいんだよ、村長。私はもう十分に生きた。それに、呪約師様の話を聞いていて、思ったんだ」
ヘルガは私の前に立ち、その穏やかな瞳で私を見つめた。
「呪約師様。あなたは先日、私たちにこう言いましたね。正当な契約には、本人の『本当の同意』と、『奪われる量の上限』が必要なのだと」
「……はい。その通りです」
私は姿勢を正し、彼女の言葉に耳を傾けた。
「村の誇りは大事だ。でも、若い親たちが子どもとの思い出を泣きながら奪われるのは、やっぱり間違っている。それは『仕方なく』であって、本当の同意じゃない」
ヘルガは、自分の胸元にそっと手を当てた。
「だけどね。もし私が、誰に強制されるでもなく、自分自身の意思で、自分が選んだ記憶だけを村の結界のために差し出したいと望んだなら。……それは、正しい契約と呼べるのではないですか?」
私はハッとして、ヘルガを見つめた。
記憶を代価にする契約そのものを全否定して消し去るのではなく、記憶を差し出す行為を『強制された犠牲』から『個人の純粋な選択』へと変える。
「ヘルガさん。でも、記憶を失えば……」
「何もかも忘れたいわけじゃないよ。私が差し出したいのは、ほんの少しの、小さな記憶だ」
彼女は優しく微笑み、私に向けて深く頭を下げた。
「呪約師様。どうか、私の記憶の契約を、監査していただけませんか。私が選んだものを、私が決めた分だけ、村のために使えるように」
それは、否定でも強制でもない。
当事者自身が導き出した、誇りと自由を守るための、たった一つの尊い申し出だった。




