第27話 呪約師になれない子
「……私には、何も見えないんです」
ペンの転がる乾いた音が、静まり返った宿の部屋に虚しく響いた。
ミナは力なく両手を膝に置き、うつむいていた。王立呪約監査院の書記として、村人の本音を必死に書き留めてきた彼女の誇りが、今、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
空中に浮かぶ青白い記憶の糸。私が指し示しているその決定的な証拠が、魔力を持たない彼女の目には一切映らないのだ。
「ミナ……」
私は声をかけようとして、言葉を飲み込んだ。
「見えなくても大丈夫」という慰めは、あまりにも残酷で無責任だ。魔法契約の不正を暴くには、魔力の痕跡を視認する力がどうしても必要になる。呪約師という仕事の根幹にある才能の壁を、言葉で誤魔化すことはできなかった。
「私、やっぱり駄目ですね。ノエラみたいに魔法の糸も見えないし、ダリオみたいに剣でみんなを守ることもできない。……ただ字が書けるようになっただけで、呪約師になんて、なれるわけがなかったんだ」
ミナの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、書き写したばかりの羊皮紙にシミを作っていく。
私は胸が締め付けられ、空中に展開していた監査の光を消して彼女を抱きしめようとした。
だが、それよりも早く、ダリオがミナの前に進み出た。
「泣くな、ミナ。涙でインクを滲ませるような奴は、監査院の書記失格だぞ」
ダリオの厳しい声に、ミナがビクッと肩を震わせて顔を上げる。
「いいか。ノエラには魔法の糸が見えるが、村中から聞き取りをした膨大な言葉を、一字一句間違えずに記録し、整理する能力はない。俺には剣は振れるが、そもそも細かい文字を読むのが得意じゃない」
ダリオは、涙で濡れたミナの羊皮紙を指差した。
「お前には魔力がない。だが、お前が誰よりも正確に書き写したこの『記録』がある。魔法が見えなくても、文字に隠された嘘なら、お前の目で暴けるはずだ」
ミナは涙を拭い、鼻をすすりながらダリオを見上げた。
「文字に隠された、嘘……?」
「そうだ。お前が書き写した、村の配給名簿と、この祭壇の契約書に書かれている全員の署名リスト。それをもう一度、最初から最後まで見比べてみろ」
ダリオの言葉に、ミナは弾かれたように羊皮紙の束を引き寄せた。
私はダリオの意図を察し、再び空中に契約の糸を展開した。私が追跡していた細く弱々しい糸――未成熟な魔力の波長を持つ、未成年のものと思われる契約の端を、もう一度視認する。
ミナは目を真っ赤にしながらも、自分が書いた配給名簿の年齢欄と、契約書の署名を必死に照らし合わせていった。
「……あっ」
数分後、ミナが短い声を上げた。
「見つけました。この契約書にある『ヨハン』と『リタ』っていう名前……配給名簿の方だと、まだ八歳と十歳の子どもです」
「やはりな。未成年が結界の代価として組み込まれている」
ダリオが頷く。だが、それだけではまだ彼らの同意がなかったことの証明には弱い。
ミナはさらに契約書の署名リストに顔を近づけ、ランプの灯りに透かすようにして文字の形を凝視した。
「字が、同じです……!」
ミナが弾んだ声で叫んだ。
「このヨハンとリタっていう子どもの署名の筆跡、すぐ上に書いてある『ハンス』っていう大人の署名と、インクの跳ね方や文字の傾きがそっくりです。他の子どもの名前も……全部、同じ家の大人の字と筆跡が同じです!」
私は目を見開いた。
それは、大人が子どもの同意を得ずに、あるいは強制的に代筆した『代理署名』の決定的な証拠だった。字を書くことに並々ならぬ執着を持ち、一文字ずつ丁寧に写本を続けてきたミナだからこそ、微細な筆跡の癖を見抜くことができたのだ。
「やったわ、ミナ!」
私は思わずミナを抱きしめた。
彼女の見つけた代理署名の名前は、私が空中で追跡していた未成熟な魔力の糸の繋がりと、完璧に一致していた。
「魔法がなくても……私、嘘を見つけられましたか?」
ミナが私の腕の中で、嬉しそうに、けれどまだ少し自信なさげに尋ねる。
「ええ、見つけたわ。あなたの記録と目が、子どもたちを救うのよ」
私は監査印を手に取り、空中の糸に向かって毅然と宣言した。
「未成年に対する同意なき代理署名を不正と認定し、該当する十名の子どもの記憶契約を無効化する!」
透明な光が走り、細く弱々しい青白い糸だけが、プツリ、プツリと小気味良い音を立てて切断されていく。
結界の強度はわずかに落ちただろう。だが、これで少なくとも、まだ幼い子どもたちの未来の記憶が理不尽に燃やされることはなくなった。
魔力がないことを嘆いていたミナは、監査院の書記として、自分の力で最初の明確な勝利を掴み取ったのだ。
子どもたちの契約を無効化したことで、私は一つの確信を得ていた。
村の大人たちも、本当はこんな残酷な契約を望んでいない。だからこそ、ミナの聞き取りで本音を漏らしたのだ。
私は徹夜で計算を繰り返し、記憶を一切使わずに済む、安全な結界の代案を完成させた。
それは、子どもと老人を除いた村の大人全員で、結界維持のための『疲労』を均等に分担するシステムだ。一人当たりの負担上限を厳格に定め、倒れる者が出ないように調整を重ねた。計算上、これなら現在の結界の強度を維持したまま、魔獣の襲撃を完全にしのぐことができる。技術的にも倫理的にも、完璧な解決策だった。
翌朝、私はダリオとミナを伴い、集会所へと向かった。
村長をはじめとする村の大人たちが集まる中、私は完成したばかりの疲労分担の契約書をテーブルの上に広げた。
「皆さん、どうか聞いてください。私は、皆さんが本当は記憶を失いたくないと思っていることを知っています。だから、記憶を使わずに済む新しい契約の形を作りました」
私は自信を持って、疲労分担の仕組みを説明した。
「一人一人が少しずつ疲れを分け合うだけで、大切な思い出を燃やさずに済みます。もう、子どもたちの顔を忘れる恐怖に怯える必要はないんです」
これなら、誰もが喜んで受け入れてくれるはずだ。南部鉱山での失敗を教訓に、被害を出さない安全な代案を提示したのだから。
しかし。
私の説明が終わっても、集会所は重苦しい沈黙に包まれたままだった。
誰一人として、安堵の表情を浮かべる者はいなかった。
「……呪約師様」
やがて、村長がゆっくりと首を横に振った。
「あなたの計算は、きっと正しいのでしょう。私たちの命を思って作ってくださったことも、理解しております」
村長の深く沈んだ目が、私を真っ直ぐに捉えた。
「ですが……私たちは、あなたのその『疲労の分担』という案を、決して受け入れることはできません。お引き取りください」
完璧な正解を提示したはずの私の言葉は、村の誇りと覚悟の前に、冷たく、そして完全に拒絶されていた。




