第26話 拒まないことと望むこと
凍てつくような冷気を放つ小屋から、限界を迎えていた母娘を救い出し、私たちは自分たちが借りている宿の部屋へと急いだ。
ダリオが手早く暖炉に薪をくべ、勢いよく火を起こす。ミナは鞄から取り出した保存食を湯で戻し、温かいスープを作ると、毛布にくるまった小さな少女の口元へスプーンを運んだ。
「ゆっくりでいいからね。熱くない?」
ミナの優しい声掛けに、少女はこくりと頷き、震える唇でスープを飲み込んだ。その傍らで、母親もまたダリオから渡された温かい杯を両手で包み込み、ボロボロと声なき涙をこぼしていた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
母親の土気色だった顔に、わずかに血の気が戻ってくる。
私はその様子を見つめながら、胸の奥で静かに、けれど激しい怒りを燃やしていた。
『彼らだけが何一つ痛みを負わず、ただ安全だけを享受しているのです』
村長はそう言った。記憶を差し出すことを拒んだ人間を、村の配給や避難所から締め出すことを「当然の報い」だと。
確かに、この結界の契約書に強制の文言はない。
だが、極寒の北辺において、村の共同体から見捨てられることは、即ち死を意味する。目の前で凍え死にかけていたこの母娘の姿が、その何よりの証拠だ。
「……これは、同意なんかじゃない」
私が思わず呟くと、暖炉の火をいじっていたダリオが静かに振り返った。
「村長の言葉は建前だ。実態は、記憶を差し出すか、雪の中で餓死するかの二択を迫っているに過ぎない。四年前、俺の部隊を縛り付けたのと同じ、見えない同調圧力だ」
「ええ。ですが、あの南部鉱山の時のように、怒りに任せて契約を止めることはしません。結界を消せば、この母娘も含めて村中が魔獣の餌食になってしまいます」
私はダリオの目を真っ直ぐに見返した。
「契約を止める前に、確かめなければならないことがあります。村長は『全員が望んでいる』と言いました。でも、本当にそうでしょうか。村八分という死の恐怖があるから、仕方なく受け入れているだけではないでしょうか」
「それをどうやって見極めるつもりだ?」
「非公開の意思確認を行います」
私はきっぱりと告げた。
「村長や他の村人の目がある場所では、誰も本当のことは言えません。だから私たちが一軒ずつ家を回り、密室の中で、一人一人の本当の気持ちを聞き出します」
全員が同意しているという村長の言葉という一枚岩を、一人ずつの本音によって崩していく。それが、誰も危険に晒すことなく、この狂った契約を根本から見直すための第一歩だった。
「あの、ノエラ」
控えめな声がして振り返ると、空になったスープの器を持ったミナが立っていた。
彼女は私の前に進み出ると、自分の記録用の鞄をぎゅっと抱きしめ、真剣な眼差しを向けてきた。
「その聞き取りの記録、私にやらせてください。記録係をやりたいです」
私は少し驚いてミナを見つめた。
これまでの彼女は、字を書くことに強いトラウマを抱えていた。王都の法廷で証言書を提出し、大きな壁を越えたとはいえ、村人全員の聞き取りを記録するのは、大人でも骨の折れる膨大な作業だ。
「ミナ、とても大変な作業になるわ。一言一句、間違えずに書き留めなければならないし、悲しい言葉もたくさん聞くことになるかもしれない」
「平気です。私、王都の法廷で分かったんです」
ミナは亜麻色の髪を揺らし、力強く頷いた。
「声が出なくても、本当のことが言えなくても、文字にして残せば、それは誰かに届く証拠になるって。……だから、村の人たちが声に出せない本当の気持ちを、私が全部、文字にして残します」
彼女の目には、七年間も番号で呼ばれ続けた怯えた少女の面影はもうなかった。そこにあるのは、王立呪約監査院の書記見習いとしての、確かな誇りと覚悟だった。
ダリオが私の隣に立ち、ふっと口元を和ませた。
「頼もしい相棒ができたな、ノエラ」
「ええ、本当に」
私はミナの肩にそっと手を置いた。
「お願いするわ、ミナ。私たちの監査院の記録係は、あなたよ」
ミナはパッと顔を輝かせ、「はい!」と力強く返事をした。
翌日から、私たちは村長に「監査の正規手順だ」と通達した上で、村の家々を順番に回り始めた。
吹雪の止まない外の冷気とは対照的に、家の中には暖炉の火が焚かれていたが、住人たちの顔は一様に硬く、私たちを警戒していた。
「結界については、村長の言う通りです。私たちは納得していますから」
ある初老の男性は、私たちの顔を見るなりそう言い放った。
「お話を伺うだけです。ここでの会話は、村長にも誰にも絶対に漏らしません。記録も、監査院の機密として厳重に守られます」
私がどれだけ言葉を尽くしても、最初のうちは誰も口を開こうとはしなかった。村の掟に背くことへの恐怖が、彼らの心を固く閉ざしていたのだ。
だが、私たちが「配給から外された母娘を保護し、監査院の予算で食料を手配した」という事実が村の中に少しずつ広まり始めると、状況は変わり始めた。私たちが村の掟に盲従せず、本当に彼らを守ろうとしていることが伝わり始めたのだ。
三日目。雪の重みで屋根が傾いた小さな家で、一人の若い母親が、ミナの走らせるペンの音を聞きながら、ぽつりと口を開いた。
「……本当は、怖かったんです」
彼女は、隣で眠る幼い子どもの頭を撫でながら、震える声で言った。
「来月、夫の番が回ってきます。結界の維持のために、彼の中にある私との記憶か、この子との記憶が選ばれて消されてしまう。村のためだと言い聞かせてきました。でも……夫が私の顔を見て、『あなたは誰だ』って言う日が来るのが、どうしても耐えられない」
彼女の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
それを皮切りに、他の家でも堰を切ったように本音がこぼれ始めた。
「亡くなった妻の記憶だけは、どうしても消したくなかった。でも、拒めば配給を止められる。だから、泣きながら捧げるしかなかったんだ」
「子どもが大きくなった時のことを忘れたくない。でも、自分が犠牲にならなければ、この子は魔獣に食われてしまう。選べるわけがないじゃないか」
ミナは、彼らの悲痛な言葉を、一つ一つ丁寧に羊皮紙に書き留めていった。彼女のペンが動くたびに、村長が作り上げていた「全員が望んでいる」という偽りの一枚岩が、ガラガラと崩れ落ちていく。
彼らは決して、記憶を捧げることを「望んで」いたわけではなかった。
生きていくために、それしか道がないから、仕方なく「拒まなかった」だけなのだ。
同意とは、心からの納得の上にのみ成り立つものだ。選択肢のない状況での沈黙は、決して同意ではない。
「大丈夫です。必ず、記憶を使わずに済む安全な代案を作りますから」
私は、涙を流す村人たちの手を握り、はっきりと約束した。
その夜、宿の部屋に戻った私たちは、ミナが書き溜めた膨大な聞き取り記録を机の上に広げた。
「これだけの証言があれば、村長が主張する『全戸合議』が、事実上の強制であったことを証明できるわ」
私は羊皮紙の束を整理しながら言った。
「しかし、問題は残っている」と、ダリオが腕を組んだ。
「俺たちの主観ではなく、法的に契約の違法性を問うためには、この契約書の中に明確な規約違反を見つける必要がある。未成年の代理署名や、意思能力のない者の署名などが混ざっていれば、それを突破口にできるはずだ」
ダリオの指摘はもっともだった。同意の欠如を証明するためには、契約そのものの不備を突くのが最も確実だ。
「分かりました。結界の基点から写し取ってきた契約の糸の構造を、この名簿と照らし合わせてみましょう」
私は目をつむり、祭壇で読み取った青白い記憶の糸の繋がりを空中に再構築した。
複雑に絡み合った透明な糸が、部屋の中に淡い光を放って浮かび上がる。
「見て、ダリオ、ミナ。この太い糸は村長のものです。そして、この端の方にある細く弱々しい糸……これは、明らかに成人のものではありません。魔力の波長が未成熟です」
私は空中の糸の一本を指差した。
「この糸の先が、配給名簿の誰に繋がっているかを特定できれば、未成年の違法登録の証拠になります。ミナ、この糸の波長の特徴から、年齢を割り出せる?」
私は隣にいるミナに声をかけた。
しかし、返事がない。
振り返ると、ミナは私が指差している空中を、目を細めて一生懸命に見つめていた。しかし、その瞳は完全に焦点を結んでおらず、ただ虚空をさまよっているだけだった。
「……ミナ?」
「ノエラ、ごめんなさい」
ミナは申し訳なさそうに肩をすくめ、ペンを持った手を力なく下ろした。
「私には、ノエラが指さしている『糸』が、何も見えないんです……」
ハッとした。
彼女は監査院の優秀な書記見習いになりつつある。しかし、彼女には魔力がない。王家の奇跡にまつわる黒い糸も、この結界を形作る青白い糸も、魔力を持たない彼女の目には、絶対に映らないのだ。
真実を証明するための決定的な証拠。それを視認し、繋ぎ合わせるための「魔法という才能」の残酷な壁が、記録係として誇りを持ち始めたばかりの彼女の前に、冷たく立ちはだかっていた。




