第25話 これは強制ではありません
「私たちは全員、この記憶を燃料とする契約の『継続』を望んでおります」
村長の誇り高い言葉が、猛吹雪の音を切り裂いて私の胸に突き刺さった。
祭壇の周囲には、青白い光の粒が舞っている。結界が外の雪魔獣の群れを弾き返すたびに、この光が明滅し、村の誰かの記憶が少しずつ燃やされているのだ。
我が子の顔すら忘れてしまった母親の姿を思い出し、私は言葉を絞り出した。
「……記憶を失うことが、どれほど残酷なことか、本当に理解されているのですか。大切な人を忘れてしまうのですよ」
「理解しております」
村長は深く刻まれた皺を寄せて、静かに頷いた。
「しかし、結界がなければ、忘れるどころか、大切な人は明日には魔獣の腹の中です。私たちは、誰かに命令されてこの契約を結んだわけではありません」
村長は私たちを促し、祭壇から少し離れた村の集会所へと案内した。
集会所の暖炉には、わずかな薪が燻っているだけで、室内は外と大差ないほど冷え切っていた。
「三十年前、王都からの魔石の供給が絶たれ、この村が見捨てられた時……私たちは、大人全員で話し合いました。そして、誰か一人を犠牲にするのではなく、大人が等しく記憶を差し出すことで、この村を、子どもたちを明日へ繋ぐと決めたのです」
村長が語るその歴史は、悲壮でありながらも、確かな誇りに満ちていた。
「ですから、呪約師様。これは中央教会のような隠された搾取ではありません。私たちが全戸合議で決めた、誇りある選択なのです」
私は、反論の言葉を見つけられなかった。
『利益と代価が説明され、本人が同意していること』。それは、私が呪約師として求めてきた正当な契約の絶対条件だ。彼らはそれを満たしている。
技術的に安全な疲労分担の代案を出せば、記憶は守れるかもしれない。しかし、それは彼らが三十年間守り抜いてきた「自分たちの犠牲で村を繋ぐ」という誇りを、「間違った野蛮な儀式」として外部の人間が土足で踏みにじり、否定することになるのではないか。
「ノエラ、行き詰まったか」
隣に立つダリオが、小声で問いかけてきた。
「……彼らの言う通り、これは本人が望んだ完全な同意です。これを強制的に書き換えれば、私はただの価値観の押し付けをする横暴な権力者になってしまいます」
ダリオは私の顔をじっと見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「俺が言うのも何だが、集団の『全員一致の同意』ほど怪しいものはない。俺の部隊でも、誰も『嫌だ』とは言えなかったからな。……ミナ、記録はどうだ」
ダリオに呼ばれ、部屋の隅で分厚い手袋のまま村の台帳を調べていたミナが、顔を上げた。
「えっと……字は、ちゃんと全員の分が書かれています。でも」
ミナは、インク瓶と格闘しながら、一つの名簿を指差した。
「この名簿、少し変です。結界の契約書にある名前の数と、この『配給と避難所の割り当て名簿』にある名前の数が、合いません」
私はハッとして、ミナが広げた名簿を覗き込んだ。
確かに、結界の契約書(青白い糸が繋がっている名前)の数よりも、村の生活物資の配給名簿に載っている名前の数の方が、五世帯分ほど少ない。
「字の読めない人がいるから、代筆したとか?」とミナが首を傾げる。
「いいえ、ミナ。違うわ」
私は監査の力をわずかに使い、名簿のインクの古さを読み取った。
「配給名簿から意図的に外されているんです。しかも、ここ数年の間に」
私は名簿を手に取り、村長に向き直った。
「村長。この結界の契約は、全員一致の合議だと仰いましたね。では、この配給名簿から外されている五つの世帯は、一体誰なのですか」
村長の顔に、初めてはっきりとした動揺の色が浮かんだ。
彼は視線を逸らし、重い口を開いた。
「……彼らは、記憶を差し出すことを拒んだ者たちです」
「拒んだ?」
ダリオの目が鋭く細められた。
「はい。この契約は強制ではありません。どうしても記憶を失いたくないという者は、契約に署名しない自由があります」
「ならば、なぜ彼らを配給から外したのですか。結界の中にいる以上、彼らも村人のはずです」
私が詰め寄ると、村長は苦渋に満ちた声で答えた。
「村の全員が記憶を削って結界を維持しているのに、彼らだけが何一つ痛みを負わず、ただ安全だけを享受しているのです。そんな利己的な人間を、村の限られた食料や備蓄で養うことなど……村の他の者たちが納得するはずがありません」
私は、自分の足元がぐらりと揺れるのを感じた。
強制ではない。署名しない自由はある。
だが、署名を断れば、極寒の村で食料の配給を止められ、魔獣が襲ってきた時の避難所からも締め出される。村八分という名の、事実上の死刑宣告だ。
「それは……『断れば生きていけない』という脅迫です」
私は震える声で言った。
「王都の法廷で、ダリオの沈黙の圧力が裁かれたのと同じです。大義名分や誇りを盾にして、従わない者の生存権を奪っている。これが、あなたの言う『全戸合議』の正体ですか!」
村長は顔を伏せ、何も答えなかった。
悪意がないからこそ、集団の正義は時に最も残酷な刃となる。村を守るという誇りが、従わない少数を切り捨てる免罪符になっていたのだ。
私は名簿に記された、配給から外された家の一つを確認し、集会所を飛び出した。ダリオとミナもすぐに後を追ってくる。
雪風が叩きつける中、村の端、結界の境界ギリギリの場所に、その家はあった。
半分ほど雪に埋もれた、今にも崩れそうな粗末な小屋だ。
「ダリオ、扉を」
ダリオが肩で強く扉を押し開ける。
中に入ると、外と変わらないほどの冷気が肌を刺した。暖炉には火の気は一切なく、ただ黒い灰が残っているだけだ。
部屋の隅に、ボロボロの毛布にくるまった小さな塊があった。
「誰か、いるの……?」
微かな声。毛布から顔を出したのは、ミナよりもさらに幼い、七、八歳ほどの少女だった。
少女の隣には、彼女を抱きしめるようにして倒れ伏している母親らしき女性の姿がある。その顔色は土気色で、呼吸は浅く、極度の飢えと寒さで完全に限界を迎えていた。
「お母さんが、起きないの……。ずっと、ごはんを食べてないから……」
少女の虚ろな目が、私たちを捉えた。
これが、「強制ではない」という言葉の裏で、記憶を守ることを選んだ者たちが支払わされていた、もう一つの代価の現実だった。




