第24話 娘の名を忘れた母
王都から馬車を乗り継ぎ、たどり着いた北辺の村は、世界が白一色に塗り潰されたような猛吹雪の中にあった。
村の入り口に馬車が停まった直後、私は信じられない光景を目の当たりにした。
風雪を避ける小さな家屋の前。薪を抱えて戻ってきた十代の娘が、「お母さん!」と声をかけて一人の女性に駆け寄った。
だが、母親と呼ばれたその女性は、薪を受け取ろうともせず、ひどく怯えた目で娘を見つめた。
「……お嬢ちゃん、誰? どこから来たの?」
娘の顔が、絶望に凍りつく。
冗談や錯乱ではない。母親の瞳には、目の前の少女に対する愛情も、共有したはずの過去の欠片も、一切存在していなかった。娘の存在そのものが、彼女の中からすっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。
私が息を呑んだ次の瞬間、地鳴りのような咆哮が響いた。
村の周囲を覆う淡い光の『結界』。そのすぐ外側の雪闇の中から、何十、何百という雪魔獣の巨大な影が現れ、飢えた赤い目を一斉に光らせていた。
「ノエラ、後ろへ」
ダリオが素早く私の前に立ち、右手を腰の剣に添えた。彼の不自由な左手が、私と、その後ろで震えているミナを庇うように広げられる。
「大丈夫です、ダリオ。結界はまだ持ちこたえています」
私は彼にそう伝えながら、猛烈な吹雪に身をすくませた。
王都での公開法廷を終え、私とダリオが正式に婚約してから数週間。ダリオは宣言通り、王立呪約監査院の調査官を辞職した。今の彼は、いかなる公的な肩書きも持たない無職の男であり、私の「私的な助手」として、そして婚約者として隣に立っている。
ミナもまた、監査院の書記見習いとしてこの過酷な調査に同行していた。彼女は分厚い手袋越しに記録用の鞄を抱きしめ、「……お母さんが、娘を忘れるなんて」と震える声で呟いた。
「よくぞお越しくださった、呪約師様。こんな最果ての村へ」
雪を掻き分けて迎えに来たのは、深い皺を刻んだ村長だった。彼は雪魔獣の群れが牙を剥く結界の外をちらりと一瞥し、重い溜息をついた。
「ご覧の通り、この村は常に魔獣の脅威に晒されております。結界がなければ、一日たりとも生きてはいけません」
「その結界の『代価』が、記憶なのですか」
私が問うと、村長は苦しげに頷き、私たちを村の中央にある小さな祭壇へと案内した。
祭壇の周囲には、淡く発光する魔力の源が置かれていた。
私が分厚い手袋を外し、凍てつくような冷たさを放つ石の台座に素手を触れると、監査の力が発動し、村全体を覆う契約の形が頭の中に流れ込んできた。
傷を移す黒い糸でも、寿命を吸い上げる赤黒い糸でもない。
そこに見えたのは、透き通るような青白い糸だった。
祭壇に刻まれた契約書を読み解く。しかし、インクで書かれた文字は所々が不自然に擦れ、読めなくなっている。監査の力で深層を視ると、契約書に記された村人たちの「名前」の文字列や、「顔の輪郭」を示す情報が、虫に食われたようにごっそりと欠け落ちていた。
寿命や肉体の痛みではなく、『記憶』。
愛する者の顔、共に過ごした日々、自分を形作る大切な記憶そのものを切り取って燃料とし、この強固な結界は維持されていたのだ。先ほどの母親が娘を忘れてしまったのも、結界を強めるために彼女の記憶が代価として徴収されたからだった。
「……なんて痛ましい契約ですか」
私は思わず唇を噛み締めた。
人の心を、家族の絆を削り取って燃やす結界。これでは、魔獣に肉体を食われるよりも残酷ではないか。
「すぐにこの契約を……」
言いかけて、私はハッと息を呑み、自らの言葉を飲み込んだ。
頭をよぎったのは、南部鉱山での失敗だ。あの時、私は「寿命を奪う契約は悪だ」と決めつけ、本人の意志も聞かずに緊急停止させた。結果として、王都の病院の暖房が消え、坑夫たちの生活を奪うことになった。
もし今、この記憶を奪う結界を「間違っている」と断じて停止させればどうなるか。
結界が消えた瞬間、外で赤く目を光らせている無数の雪魔獣がなだれ込み、この村の住民は一人残らず食い殺される。正しい手順で悪を止めることだけが、正解ではないのだ。
「ノエラ」
ダリオが、私の冷え切った手に自分の右手を重ねてきた。
「焦るな。あなたが一人で性急に答えを出す必要はない。まずは現状を正確に把握しよう」
彼の穏やかな声と温もりが、私の張り詰めた心を落ち着かせてくれた。
ダリオは村長に向き直り、実務的な確認を始めた。
「村長。この結界はいつからこのような代価を要求するようになった。代替の魔石や、他の疲労分担などの手段は試したのか」
「もとより、この北辺は土地が痩せ、魔力を持つ者もおりませぬ。数十年前までは魔石を買って結界を維持しておりましたが、村が貧窮し、魔石を買えなくなった時から、この『忘却の祭壇』に頼るしかなくなったのです。王都に助けを求めても、国境の村一つに割く予算はないと見捨てられました」
貧困が、彼らから他の選択肢を奪っていた。
ミナが、寒さに手を震わせながらも、鞄から取り出した羊皮紙に村長の言葉を必死に書き留めている。魔力を持たない彼女には青白い記憶の糸は見えていないはずだが、書記としての役割を果たそうとするその姿勢は、王都の法廷を経験して確実に逞しくなっていた。
「分かりました」
私は、祭壇から手を離し、村長を真っ直ぐに見つめた。
「記憶を代価にするこの契約は、あまりにも危険です。ですが、結界を止めれば村が滅びることも理解しています。だから、すぐには停止させません」
私は、これまでの監査の経験を総動員して、彼らに安全な代案を提示しようとした。
「監査院の権限を使えば、記憶ではなく『疲労』を分担して結界の魔力に変換する陣に書き換えることが可能なはずです。計算は複雑になりますが、肉体を少し休ませるだけで回復する疲労なら、大切な記憶を失わずに済みます。時間をください。私たちが必ず、記憶を使わない代案を――」
「いいえ、呪約師様」
村長は、私の言葉を静かに、しかし明確な意志を持って遮った。
彼は深く頭を下げたまま、はっきりとした声で告げた。
「代案など、必要ありません」
「え……?」
「私たちは、誰一人としてこの結界を変えたいなどとは思っていないのです」
吹雪の音が、私の耳を通り抜けていく。
村長は顔を上げ、深い皺の刻まれた顔に、悲壮ともいえる誇り高い笑みを浮かべた。
「記憶を捧げることは、私たちがこの村を守り抜いてきた証です。私たちは全員、この記憶を燃料とする契約の『継続』を望んでおります」
私は、言葉を失って立ち尽くした。
悪人が仕組んだ隠された搾取ではない。無知ゆえに騙されているわけでもない。
彼らは自分たちの記憶が奪われることを完全に理解した上で、それでもなお、この残酷な契約を自ら望んでいるというのだ。
「正しい代案」を持ち込んだつもりの私は、最初から、彼ら当事者の強固な意志という壁に冷たく拒絶されていた。




