第23話 選べる婚約
「被告人オルデン。前へ」
王都最高法廷に、裁判長の厳格な声が響き渡った。
二人の衛兵に両脇を固められ、罪人席へと引き出された前大司教オルデンは、かつての威厳をすっかり失い、ひどく老け込んで見えた。しかし、その目だけは未だに自分の正当性を信じて疑わない暗い光を宿している。
「被告人は、中央契約印を不正に使用し、多数の民から本人の同意なく代価を徴収した。さらにその事実を隠蔽するため、受苦者の名簿と契約期間を組織的に改竄した」
裁判長が、分厚い判決文を読み上げる。
「私は王国を守ったのだ!」
オルデンが嗄れた声で叫んだ。
「あの時、誰かが奇跡の代価を負わねば、国は戦火と疫病で滅んでいた! 愚かな民に真実を話せば、誰も国のために血を流そうとはしない! だから私が背負わせたのだ。それは必要な犠牲だった!」
「黙りなさい」
裁判長の木槌が、オルデンの言葉を冷たく叩き切った。
「本人の選択の自由を奪い、同意なき苦痛を強いることは、いかなる大義があろうとも『救済』ではない。ただの暴虐な『搾取』である。当法廷は、被告人オルデンに国家反逆罪に準ずる罪を適用し、すべての聖職権限の剥奪、全財産の国庫没収、および辺境修道院での終身幽閉を言い渡す」
その瞬間、法廷を包んでいた張り詰めた空気が、大きく弾けた。
オルデンは力なく膝から崩れ落ち、衛兵たちに両腕を掴まれて引きずられるように退廷させられていく。
第一部で私が彼を告発してから、長く続いた因縁。それが今、魔法ではなく「法」という人間社会のルールによって、完全に断罪されたのだ。
「続いて、被告人ダリオ・ヴェルン」
法廷が再び静まり返る中、ダリオが静かに被告席の中央へ進み出た。
裁判長は、手元の資料に視線を落とし、厳粛な声で告げた。
「被告人が、部下に対して契約の署名を強制・欺罔した事実は認められない。よって、刑事上の契約強要罪については無罪とする」
私は小さく息を吐き出した。彼が犯罪者という烙印を押されることは回避されたのだ。
「しかし」と、裁判長は言葉を継いだ。
「指揮官である被告人が真っ先に署名を行ったことが、部下たちに強烈な同調圧力を生み、結果として教会の不正な契約改竄の温床を作ったことは事実である。当法廷は、被告人に指揮官としての重大な監督責任、および道義的責任があったと認定する」
「……はい」
ダリオは、その言葉を重く受け止めるように深く頷いた。
彼はそのまま傍聴席へと振り返った。そこには、彼の元部下であるカイルたち数名が座っている。ダリオは彼らに向かって、ゆっくりと、そして深く頭を下げた。
「すまなかった」
静かな、けれど法廷の隅々にまで届く声だった。
「私が自分の感情を優先し、部下である君たちの立場と思いを慮れなかったばかりに、四年という取り返しのつかない時間を奪った。謝罪だけで許されることではないが、この罪は一生背負っていく」
言い訳は一つもなかった。法的な無罪に逃げ込むこともせず、彼は自らの無自覚な加害性を認め、ただ純粋な謝罪だけを口にした。
カイルは火傷の残る顔を歪め、強く歯を食いしばっていた。
「……あんたを、許す気はない」
カイルは絞り出すように言った。
「俺たちの失われた四年と痛みは、あんたが頭を下げたからって消えるわけじゃないからな」
「あぁ、分かっている」
「だが……」
カイルは法廷の出口へと背を向けながら、ぽつりと付け加えた。
「あんたが逃げずに、ここで俺たちの痛みを認めて裁きを受けたことだけは……覚えておく」
カイルたちの背中が見えなくなるまで、ダリオは頭を下げ続けていた。
完全な和解ではない。許されたわけでもない。
それでも、ダリオは「完全な被害者」という安全な場所から一歩を踏み出し、自らの過ちを引き受ける一人の人間として、過去の清算を終えたのだ。
法廷が閉廷し、王都の空はすでに赤く染まり始めていた。
私たちは法廷の冷たい石段を降り、夕暮れの通りを並んで歩いていた。
ダリオの胸元には、もう監査院調査官の銀色の徽章はない。彼は自ら職を辞し、すべての責任を引き受けたのだ。
「これで俺は、片腕が不自由な、ただの無職の男になってしまったな」
ダリオが、夕日を見上げながら自嘲気味にぽつりとこぼした。
私は彼を見上げて、ふふっと笑った。
「そうですね。でも、監査院は人手不足ですから、私が個人的に助手を雇うことはできるかもしれません」
「助手か。人使いの荒い呪約師の下で働くのは骨が折れそうだ」
「ええ。間違えた時は一緒に謝って、私が倒れそうな時は止めてもらわなければなりませんから」
私の言葉に、ダリオは足を止めた。
通りを行き交う人々の影が長く伸びる中、彼は私に向き直り、その灰色の瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「ノエラ」
彼は少しだけ緊張したように息を吸い込み、不自由な左手で、私の右手をそっと包み込んだ。
「今の俺には、近衛隊長としての地位も、監査院の調査官という肩書きもない。英雄でも何でもない、ただ過去に過ちを犯し、それを背負って生きていく男だ」
彼の左手は、以前よりも少しだけ温かさを増しているような気がした。
「俺はあなたを、もう無条件に守れるとは言えない。だが、あなたが迷った時は隣に立ち、間違えそうになった時は止め、同じ食卓で明日のことを話し合いたい。……俺は、あなたと生きていきたい」
ダリオは、私の手を握る力を少しだけ強めた。
「地位も名誉もないが、ノエラ、俺と結婚してくれないか」
それは、教会の神官が用意するような、形式張った美しい誓いではなかった。
自分の弱さと罪を認め、それでも隣にいることを望む、彼らしい不器用で誠実なプロポーズだった。
かつての私は、他人が望む「聖女」の役割を演じることしか知らなかった。けれど今は違う。誰かに命じられたからでも、同情からでもなく、私は自分の意思で、目の前の彼を選ぶことができる。
「無謬の騎士様になんて、ならないでください」
私は、彼に握られた手を両手で包み返し、真っ直ぐに微笑んだ。
「私が選ぶのは、間違えても逃げず、不自由な手で私のために温かいお茶を淹れてくれる、あなたです」
私は、はっきりと言葉にした。
「はい。喜んで、お受けします」
ダリオの目がわずかに見開かれ、やがてその口元に、安堵と深い愛情の入り交じった柔らかい笑みが浮かんだ。
夕暮れの王都の片隅で、私たちは静かに誓いを交わした。偽物と呼ばれた私と、傷を背負った彼は、隠し事のない本当の婚約者になったのだ。
◇
同じ頃、王都から遠く離れた北辺の村。
一年中雪に覆われたその村は、猛烈な吹雪に見舞われていた。
「お母さん! 薪を取ってきたよ!」
冷たい風を避けるように、分厚い外套を着込んだ十代の少女が、小さな木造りの家へ駆け込んできた。
暖炉の前には、彼女の母親が座っている。
だが、母親は少女の声に振り向くと、まるで全く見知らぬ他人の家へ迷い込んでしまったかのように、ひどく怯えた目で少女を見つめた。
「……お嬢ちゃん、誰? どこから来たの?」
「え……お母さん? 私だよ?」
少女が戸惑って一歩近づくが、母親は震えながら首を横に振った。
娘の顔を、そして娘の名前を、完全に忘却してしまっていた。
その直後だった。
村を包み込んでいた見えない『結界』の外側――吹きすさぶ雪の闇の中から、無数の巨大な影が姿を現した。
飢えた雪魔獣の群れが、結界のほころびを狙い、赤く濁った目を一斉に光らせていた。




