第20話 届かなかった四年
「……嘘です! 筆跡も、封蝋の紋章も、確かにお兄様のものでした!」
王都の法廷の控室。ダリオの妹であるリヴィアの悲痛な叫びが、冷たい石壁に反響した。
彼女の震える手から奪い取るようにして受け取った便箋には、ダリオが家督を放棄し、妹を「足手まとい」と切り捨てる残酷な言葉が並んでいた。肉親から突然突きつけられた絶縁状。この三年間、彼女がどれほどの絶望と孤独の中で生きてきたか、想像するだけで胸が痛む。
だが、私の目にははっきりと見えていた。
几帳面な筆跡を装ったインクの下で、どす黒く濁った魔力の糸が蠢いているのを。
「リヴィアさん、よく見てください」
私は便箋の上に手をかざし、監査の力を解放した。
指先から放たれた透明な光が紙面を覆うと、インクの下に隠されていた黒い糸が、まるで炙り出された毒虫のように実体を伴って空中に浮かび上がった。
「これは……?」
リヴィアが息を呑み、一歩後ずさる。
「魔法による偽造の痕跡です。筆跡も封蝋も、本物から精巧に写し取られただけの幻影。教会の契約局がよく使う、特定個人の関係を断絶させるための違法な呪術です」
私は静かに、しかし断固とした声で告げた。
「ダリオはこんな手紙を書いていません。教会は、不当な契約に異議を唱えた彼を辺境へ追放しただけでなく、彼が真実を語る気力を根底から奪うために、家族との絆すらも魔法で切り裂いたんです」
ダリオの顔に、底知れぬ怒りの色が浮かんだ。彼が四年間、沈黙呪約に縛られて誰にも真実を語れなかった間、教会はその沈黙を利用して彼の帰る場所まで奪い取っていたのだ。
リヴィアは空中に浮かぶ黒い糸から目を離せず、やがて糸が切れて消え去ると同時に、その場に崩れ落ちた。
「そんな……じゃあ、あのおぞましい手紙は……お兄様の言葉じゃ、なかったの……?」
「あぁ。俺が、お前を足手まといだなんて思うはずがないだろう」
ダリオが片膝をつき、妹と同じ目線になって語りかけた。
「俺はあの日、教会から沈黙呪約を掛けられ、部下たちのことも、自分の身に起きたことも、誰にも話せなくなった。お前に危険が及ぶのを恐れて連絡を絶ったが……まさか、奴らがこんな偽造書簡を送りつけていたとは」
誤解は解けた。教会の悪辣な罠が暴かれ、兄が自分を捨てたわけではないと証明された。
物語の中なら、ここで兄妹は涙を流して抱き合い、失われた空白を埋めるように和解するだろう。私も、そうなることを願って見守っていた。
しかし、現実は魔法のように簡単には書き換わらない。
「……手紙が偽物だったことは、分かりました」
リヴィアは床に落ちた便箋を拾い上げ、くしゃりと強く握りしめた。その目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「でも! 偽物だと分かっても……私がこの三年間、どれほどお兄様を恨み、惨めな思いで毎晩泣き明かしたかという『時間』は、消えません!」
彼女の叫びに、ダリオの肩がびくりと震えた。
「お兄様に事情があったのは分かります。魔法で口を封じられていたことも、今なら理解できます。でも……手紙が偽物だと言われて、『はいそうですか』とすぐに元の兄妹に戻れるほど、私の流した涙は軽くありません……!」
それは、どうしようもなく当たり前の、人間の感情だった。
真実を知ったからといって、傷ついた心がすぐに癒えるわけではない。彼女が暗闇の中で一人、兄への愛と憎しみの間で引き裂かれていた三年間は、紛れもない現実なのだ。
ダリオは、妹を抱きしめようとしていた右手を、ゆっくりと下ろした。
安易な慰めや抱擁で、彼女の痛みを誤魔化そうとはしなかった。
「……そうだな。お前の言う通りだ」
ダリオは静かに頷き、妹の怒りと悲しみを真正面から受け止めた。
「手紙が偽造だったとはいえ、お前を一人で苦しませた原因の端緒は、間違いなく俺の判断ミスにある。すぐに許してくれとは言わない。失われた四年間は、どんな言葉を尽くしても元には戻らない」
彼は真っ直ぐにリヴィアの目を見た。
「だが、もう隠し事はしない。沈黙呪約はもうないんだ。お前が納得するまで、何度でも、何年かかっても話し直したい」
その不器用で誠実な言葉に、リヴィアは強く唇を噛み締めた。
彼女は目元を乱暴に拭い、立ち上がった。
「……分かりました。すぐには許せません。でも、次に会う時は、偽物の手紙ではなく、必ずお兄様の口から直接、言葉を聞かせてください」
それだけを言い残し、リヴィアは控室の扉を開けて出て行った。
完全な和解ではない。冷たい溝はまだ二人の間に横たわっている。それでも、決定的な断絶は回避され、「話し直す」という未来への細い糸が、確かに繋がった瞬間だった。
「……すまない、ノエラ。見苦しいところを見せた」
ダリオがゆっくりと立ち上がり、深く息を吐いた。
「見苦しくなんかありません」
私は彼に歩み寄り、その無骨な右手に自分の手を重ねた。
「あなたは逃げずに、リヴィアさんの痛みと向き合いました。……午後の法廷でも、同じです。私たちは、私たちの真実から逃げずに立ち向かいましょう」
「あぁ。そうだな」
ダリオの灰色の瞳に、迷いはもうなかった。
午後の審理を告げる鐘が鳴り、私たちは再び法廷へと足を踏み入れた。
午前中の騒然とした雰囲気とは打って変わり、傍聴席には異様な静けさが漂っていた。ダリオが自らの非を認め、調査官の辞任という重い代価を自ら差し出したことで、一方的に彼を糾弾しようとしていた旧教会側の弁護人も、攻めあぐねているようだった。
さらに、私が新たに提出した「家族の絶縁状すら偽造していた」という教会の悪辣な手口の証拠が、裁判官たちの心証を大きく揺さぶっていた。
「証人ノエラ」
裁判長が私を指名する。
「午前中の証言にあった、教会による恒久的な契約改竄について、さらなる物理的証拠の提示を求める」
「はい」
私は証言台の前に立ち、持参した台帳の束を広げようとした。
その時だった。
ふと視線を上げた私の目に、傍聴席のやや後方、人混みに紛れるようにして座っている一人の女性の姿が飛び込んできた。
地味な灰色の外套を羽織り、頭には薄い布を被っている。年齢は三十代半ばだろうか。怯えたような、けれど射抜くような強い眼差しで、証言台に立つ私と、被告席のダリオをじっと見つめている。
私はその顔立ちを見て、一瞬、呼吸を忘れた。
見間違えるはずがない。少し癖のある亜麻色の髪。少し垂れ下がった、意志の強そうな目元。
それは、遠く離れた辺境の監査院で、今も私たちの帰りを待っている十二歳の少女――ミナの面影と、恐ろしいほどに瓜二つだったのだ。
なぜ、ミナに似た女性が王都の法廷にいるのか。
胸の奥で、新たな波乱を予感させる小さな警鐘が鳴り響いていた。




