表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「その奇跡は、誰かに傷を移すだけです」偽聖女として追放された私、辺境で王家の傷を背負う騎士と「奇跡の代価」を暴きます  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/50

第2話 奇跡の請求書

聖痕院には、四十一人が暮らしていた。


 戦で片脚を失った老人、原因の分からない発熱を繰り返す少女、眠ったまま目を覚まさない元兵士。医師は一人、看護人は二人。薬も薪も足りていない。


 そして全員の身体から、王都へ黒い糸が伸びていた。


 私は到着した日の夜、トーマの傷口を洗う手伝いをした。普通の消毒と縫合しかできない。祈っても傷は閉じない。


「やはり、私は何も治せないのですね」


 思わずこぼすと、向かいで包帯を切っていたダリオが顔を上げた。


「医師が縫った傷を押さえ、包帯を巻いている」


「それは誰にでもできます」


「できる者が足りない場所では、十分に仕事だ」


 慰める口調ではなかった。ただ事実を置くような声だった。


 深夜、院内の鐘が激しく鳴った。


 十二歳のミナが高熱を出したのだ。昼まで台所で豆を選っていた少女が、寝台の上で息を荒らげている。


 その胸から伸びる黒い糸は、火であぶられたように赤く脈打っていた。


 糸へ指を近づける。


 文字が、頭の中へ流れ込んだ。


 受益者――ルーデン王国第三王女。


 代価負担者――北部第十七号。


 症状――高熱、悪寒、関節痛。


 登録時年齢――五歳。


 本人同意――なし。


 幼いミナの身体へ、今、王女の病が注ぎ込まれている。


「王都で王女殿下が治療を受けています」


 私が言うと、老医師が険しい顔をした。


「どうして分かる」


「この子と王都を結ぶものが見えます。止められるかもしれません。ただ、治せるわけではありません。流れ込む熱を止めるだけです」


「なら止めろ」


 ダリオが即答した。


「簡単ではありません。契約を無理に切れば、王女殿下にもミナにも反動が出ます。契約の手順を探す必要があります」


「何が要る」


「台帳と、この院の印章です」


 ダリオは腰から鍵束を外した。


「中央から来る人間には、書庫を開けないことにしていた」


「私はまだ信用されていないと思っていました」


「信用はしていない。だが、ミナに残された時間は、俺の疑いが晴れるまで待ってくれない」


 彼は最も古い鍵を私へ渡した。


「必要なものを見つけろ。俺が隣で見ている」


 書庫は礼拝堂の地下にあった。


 湿気た棚には二冊一組の帳簿が並んでいた。片方は受益者の名と治癒の日付、もう片方は番号と発症日だけ。氏名が切り離されているため、普通に読めば誰の傷が誰へ移ったのか分からない。


 だが、私が頁へ触れると、インクの下から黒い線が浮かんだ。


 三日前に落馬した侯爵と、肋骨を折った元兵士。


 出産後に衰弱した伯爵夫人と、原因不明の出血を起こした女中。


 何十年分もの奇跡の請求書が、二冊の間に隠されていた。


 総覧によれば、王国で受苦者を登録しているのは、この聖痕院だけだった。王家と中央教会が起こした奇跡の代価は、すべてここへ集められている。


「これを、教会はずっと……」


 ダリオが左手を押さえた。黒い痣が、革帯の下でかすかに動いた。


 問いかける前に、奥の棚から古い木箱を見つけた。中には欠けた地方管理印と、薄い手引書が入っている。


 表紙にあった職名は削られていた。


 指でなぞると、消された文字が黒く浮かび上がる。


 ――呪約師。


 治癒を行う聖女とは別に、誰が利益を受け、誰が代価を払うかを監査する者。


 最後の呪約師が記録から消えたのは、八十二年前だった。その後、地方管理印を起動できた者はいない。


 手引書の末尾に、一つだけ生きている条項があった。


 受苦者の同意に不備が疑われる場合、地方管理印は当該転送を三日間停止できる。


「止められます」


 私は印章を持ってミナの部屋へ戻った。


 寝台脇で、本人の名を確かめる。


「ミナ。この熱を、これからも代わりに引き受けたいですか」


「いや……」


 乾いた唇が、はっきり動いた。


「もう、いや」


「分かりました」


 地方印を帳簿の第十七号へ押し、私は隠された文を読み上げた。


「代価負担者ミナ・ロウ。登録時五歳。説明記録なし、本人署名なし。呪約師の監査権により、この転送を三日間停止します」


 印章の亀裂から、青白い光が走った。


 ミナの胸から伸びていた黒い糸が、弓弦のように張り詰めた。


 それまで私にしか見えなかった糸が、寝台の上へ黒々と浮かび上がる。糸の表面が裂け、隠されていた文字が青い炎となって宙へ並んだ。


 受益者――第三王女。


 代価負担者――ミナ・ロウ。


 本人同意――なし。


 老医師が息を呑み、ダリオが目を見開いた。


 熱と痛みが腕を伝い、私の頭へ流れ込んだ。王女の苦しさ。ミナが七年間に受けた熱。息ができず、膝が崩れそうになる。


「ノエラ」


 ダリオの右腕が、私の背へ回りかけて止まった。


「触れるぞ」


「……はい」


 答えた直後、身体を支えられた。


 黒い糸から黒い皮膜が砕け散り、害のない灰色へ変わる。宙に浮かんだ契約文字へ、赤い「監査停止」の印が打ち込まれた。


 ミナの熱はすぐには消えなかった。それでも上がり続けていた体温が止まり、老医師の薬と冷たい布が、ようやく追いつき始めた。


 翌朝、王都から緊急の伝書鳥が届いた。


『奇跡により快癒した第三王女へ、発熱が再発。辺境の管理印に異常を確認。直ちに報告せよ』


 ダリオは紙を読み、静かに息を吐いた。


「八十二年、誰にも動かせなかった印だ」


 彼は割れた地方印と、まだ熱の残る私の手を見比べた。


「中央教会が消した仕事を、あなたは一晩で取り戻した」


「あなたの言ったとおりだった」


「私は奇跡を起こせません。止めただけです」


「違う」


 彼は、机に置いた古い手引書を私へ向けた。


「聖女ではなく、呪約師なのだろう」


 失われた職名を、誰かが私のために口にした。


 胸の奥で、十三年間閉ざされていた扉が、かすかに開く音がした。


 そのとき、ダリオの左腕を覆う聖痕が脈打った。


 ミナへつながる一本を止めたばかりだというのに、彼の腕には、王都へ伸びる黒い糸が幾重にも絡みついている。


 次に読まなければならない契約は、彼の身体に刻まれていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ