第2話 奇跡の請求書
聖痕院には、四十一人が暮らしていた。
戦で片脚を失った老人、原因の分からない発熱を繰り返す少女、眠ったまま目を覚まさない元兵士。医師は一人、看護人は二人。薬も薪も足りていない。
そして全員の身体から、王都へ黒い糸が伸びていた。
私は到着した日の夜、トーマの傷口を洗う手伝いをした。普通の消毒と縫合しかできない。祈っても傷は閉じない。
「やはり、私は何も治せないのですね」
思わずこぼすと、向かいで包帯を切っていたダリオが顔を上げた。
「医師が縫った傷を押さえ、包帯を巻いている」
「それは誰にでもできます」
「できる者が足りない場所では、十分に仕事だ」
慰める口調ではなかった。ただ事実を置くような声だった。
深夜、院内の鐘が激しく鳴った。
十二歳のミナが高熱を出したのだ。昼まで台所で豆を選っていた少女が、寝台の上で息を荒らげている。
その胸から伸びる黒い糸は、火であぶられたように赤く脈打っていた。
糸へ指を近づける。
文字が、頭の中へ流れ込んだ。
受益者――ルーデン王国第三王女。
代価負担者――北部第十七号。
症状――高熱、悪寒、関節痛。
登録時年齢――五歳。
本人同意――なし。
幼いミナの身体へ、今、王女の病が注ぎ込まれている。
「王都で王女殿下が治療を受けています」
私が言うと、老医師が険しい顔をした。
「どうして分かる」
「この子と王都を結ぶものが見えます。止められるかもしれません。ただ、治せるわけではありません。流れ込む熱を止めるだけです」
「なら止めろ」
ダリオが即答した。
「簡単ではありません。契約を無理に切れば、王女殿下にもミナにも反動が出ます。契約の手順を探す必要があります」
「何が要る」
「台帳と、この院の印章です」
ダリオは腰から鍵束を外した。
「中央から来る人間には、書庫を開けないことにしていた」
「私はまだ信用されていないと思っていました」
「信用はしていない。だが、ミナに残された時間は、俺の疑いが晴れるまで待ってくれない」
彼は最も古い鍵を私へ渡した。
「必要なものを見つけろ。俺が隣で見ている」
書庫は礼拝堂の地下にあった。
湿気た棚には二冊一組の帳簿が並んでいた。片方は受益者の名と治癒の日付、もう片方は番号と発症日だけ。氏名が切り離されているため、普通に読めば誰の傷が誰へ移ったのか分からない。
だが、私が頁へ触れると、インクの下から黒い線が浮かんだ。
三日前に落馬した侯爵と、肋骨を折った元兵士。
出産後に衰弱した伯爵夫人と、原因不明の出血を起こした女中。
何十年分もの奇跡の請求書が、二冊の間に隠されていた。
総覧によれば、王国で受苦者を登録しているのは、この聖痕院だけだった。王家と中央教会が起こした奇跡の代価は、すべてここへ集められている。
「これを、教会はずっと……」
ダリオが左手を押さえた。黒い痣が、革帯の下でかすかに動いた。
問いかける前に、奥の棚から古い木箱を見つけた。中には欠けた地方管理印と、薄い手引書が入っている。
表紙にあった職名は削られていた。
指でなぞると、消された文字が黒く浮かび上がる。
――呪約師。
治癒を行う聖女とは別に、誰が利益を受け、誰が代価を払うかを監査する者。
最後の呪約師が記録から消えたのは、八十二年前だった。その後、地方管理印を起動できた者はいない。
手引書の末尾に、一つだけ生きている条項があった。
受苦者の同意に不備が疑われる場合、地方管理印は当該転送を三日間停止できる。
「止められます」
私は印章を持ってミナの部屋へ戻った。
寝台脇で、本人の名を確かめる。
「ミナ。この熱を、これからも代わりに引き受けたいですか」
「いや……」
乾いた唇が、はっきり動いた。
「もう、いや」
「分かりました」
地方印を帳簿の第十七号へ押し、私は隠された文を読み上げた。
「代価負担者ミナ・ロウ。登録時五歳。説明記録なし、本人署名なし。呪約師の監査権により、この転送を三日間停止します」
印章の亀裂から、青白い光が走った。
ミナの胸から伸びていた黒い糸が、弓弦のように張り詰めた。
それまで私にしか見えなかった糸が、寝台の上へ黒々と浮かび上がる。糸の表面が裂け、隠されていた文字が青い炎となって宙へ並んだ。
受益者――第三王女。
代価負担者――ミナ・ロウ。
本人同意――なし。
老医師が息を呑み、ダリオが目を見開いた。
熱と痛みが腕を伝い、私の頭へ流れ込んだ。王女の苦しさ。ミナが七年間に受けた熱。息ができず、膝が崩れそうになる。
「ノエラ」
ダリオの右腕が、私の背へ回りかけて止まった。
「触れるぞ」
「……はい」
答えた直後、身体を支えられた。
黒い糸から黒い皮膜が砕け散り、害のない灰色へ変わる。宙に浮かんだ契約文字へ、赤い「監査停止」の印が打ち込まれた。
ミナの熱はすぐには消えなかった。それでも上がり続けていた体温が止まり、老医師の薬と冷たい布が、ようやく追いつき始めた。
翌朝、王都から緊急の伝書鳥が届いた。
『奇跡により快癒した第三王女へ、発熱が再発。辺境の管理印に異常を確認。直ちに報告せよ』
ダリオは紙を読み、静かに息を吐いた。
「八十二年、誰にも動かせなかった印だ」
彼は割れた地方印と、まだ熱の残る私の手を見比べた。
「中央教会が消した仕事を、あなたは一晩で取り戻した」
「あなたの言ったとおりだった」
「私は奇跡を起こせません。止めただけです」
「違う」
彼は、机に置いた古い手引書を私へ向けた。
「聖女ではなく、呪約師なのだろう」
失われた職名を、誰かが私のために口にした。
胸の奥で、十三年間閉ざされていた扉が、かすかに開く音がした。
そのとき、ダリオの左腕を覆う聖痕が脈打った。
ミナへつながる一本を止めたばかりだというのに、彼の腕には、王都へ伸びる黒い糸が幾重にも絡みついている。
次に読まなければならない契約は、彼の身体に刻まれていた。




