第1話 偽聖女が追放された日
作品名:「その奇跡は、誰かに傷を移すだけです」偽聖女として追放された私は、王家の傷を押しつけられた騎士と教会の嘘を暴く
の連載版です。第7話までは同内容なので、短編をお読みいただいた方は第8話からお読みください。
短編版
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「その奇跡は、誰かに傷を移すだけです」
聖女認定の最終試験で、私は祈りを拒んだ。
その一言で、十三年を捧げた教会は私を偽聖女にした。
けれど、私を辺境へ捨てればすべて終わると思った彼らは知らなかった。
追放先には、王家の奇跡の代価を押しつけられた四十一人がいたことを。そして、教会が隠した契約を読めるのは、偽聖女と呼ばれた私だけだったことを。
もっとも、そのときの私は、まだ自分の力の名さえ知らなかった。
白い礼拝堂の中央では、レオニス王太子殿下が右腕を差し出している。儀礼用の短剣でつけた、指の長さほどの傷。深くはない。それでも血は白い袖を赤く汚していた。
「どうした、ノエラ。祈りなさい」
オルデン大司教の声が背後から落ちてくる。
私は王太子の腕に手をかざしたまま、動けなかった。
傷から、何本もの黒い糸が伸びていたからだ。
そのうち、ひときわ太い一本は礼拝堂の壁を抜け、王都を越え、はるか北へ続いている。意識を向けた瞬間、雪の積もる古い建物と、粗末な寝台で眠る少年が見えた。
まだ十歳ほどだろう。細い右腕に、王太子と同じ形の赤い筋が浮かびかけている。
王太子の傷が淡くなるほど、少年の皮膚が裂けていく。
「何を言っている?」
王太子は眉を寄せた。試験を待つ貴族たちの間から、失笑が漏れた。
「傷は消えていません。遠くにいる子どもへ移されます。これを治癒とは呼べません」
「妄言だ」
オルデン大司教は迷いなく言い切った。
「聖女の奇跡は神の慈悲。代価を求めるような俗悪な術ではない」
「ですが、見えます。今も――」
「力を発現できぬ者ほど、奇妙な言い訳をするものだ」
大司教が杖を一度鳴らすと、控えていた教会騎士が私の両脇に立った。
十三年間、私はこの日のためだけに生きてきた。
七歳で教会に引き取られてから、祈りも礼法も薬草学も、眠る時間を削って覚えた。聖女になれば、拾ってもらった恩を返せる。役に立たなければ、私には何も残らないと思っていた。
それでも、もう一度祈ることはできなかった。
「私は、その子を傷つけません」
礼拝堂が静まり返った。
オルデン大司教の目から、最後の温度が消えた。
「候補生ノエラには、聖女の資質なし。虚言によって神聖な試験を妨げた偽聖女と認定する」
私の胸から、銀の候補章がむしり取られた。
「エステル。試験を続けなさい」
列の端にいた少女が、びくりと肩を揺らした。
淡い金髪のエステルは、候補生の中で最も強い治癒の光を持っていた。彼女は私と王太子を交互に見たあと、おそるおそる前へ出る。
「ノエラ、本当に……誰かが?」
「祈ってはいけません」
「惑わされるな」
大司教が命じた。
エステルは唇を噛み、王太子の腕へ両手をかざした。
白い光が満ちる。
傷が閉じた。
同時に、黒い糸が北へ弾けるように走った。寝台の少年が跳ね起き、右腕を押さえて叫ぶ。白い寝間着へ血が広がった。
「やめて!」
私はエステルの手を払おうとした。騎士に腕をねじ上げられ、石床へ膝をつく。
王太子の腕は、跡形もなく治っていた。
礼拝堂に拍手が起きた。
その音の向こうで、私は少年の泣き声を聞いていた。
悔しかった。十三年を一言で捨てられたことも、真実を告げた私が嘘つきにされたことも。
けれど、それ以上に許せなかった。
誰かの血が流れた瞬間を、奇跡だと称えて拍手する、この礼拝堂が。
私は石床へ押さえつけられながら、その拍手を決して忘れないと決めた。
◇
その日のうちに、私の名は聖籍から削られた。
白い候補生服も取り上げられ、与えられたのは灰色の作業着と、北辺境への片道の馬車だけだった。
「偽りを口にした罰として、辺境聖痕院で生涯奉仕しなさい」
出発前、オルデン大司教はそう告げた。
「あの子がいる場所を、最初から知っていたのですか」
私が尋ねると、大司教は否定しなかった。
「国家を支える奇跡の仕組みを、候補生が知る必要はない」
それで十分だった。
彼は私に力がないと思ったのではない。見てはいけないものを見たから、口の届かない場所へ捨てるのだ。
辺境聖痕院は、戦傷者や重い病を負った者を保護する教会の慈善院だと教えられていた。王都から馬車で十二日。訪ねてくる貴族も、外へ戻れた患者もほとんどいない。
私を遠ざけるには、都合のいい場所だったのだろう。
北へ進むほど雪は深くなった。
十二日目の夕方、馬車は石壁に囲まれた古い建物の前で止まった。門の上には、半分欠けた聖印が残っている。
御者は私の荷を雪の上へ下ろすと、挨拶もせずに引き返した。
門を叩こうとしたとき、中から子どもが飛び出してきた。
「ダリオ、包帯がまた――」
少年は私を見て立ち止まった。
十歳ほどの、小柄な子だった。右腕へ巻いた包帯に、細長く血がにじんでいる。
あの礼拝堂で見た少年だった。
少年の背後から、長身の男が駆けてきた。
黒に近い焦げ茶の髪。雪の中でも背筋は崩れず、右手だけで少年を軽々と抱き上げる。外套の留め金には、削りかけた近衛騎士の獅子章が残っていた。左腕は厚い革帯で胸元に固定されている。指先まで広がる黒褐色の痣から、数え切れないほどの黒い糸が王都へ伸びていた。
厳しい顔つきなのに、少年を抱く右手は驚くほど優しい。私はなぜか、その手から目を離せなかった。
「トーマ、走るなと言っただろう」
「でも、包帯が濡れたから」
「中で替える。――あなたは?」
男の灰色の目が、私の作業着の胸に残った教会の縫い跡を見た。
「中央教会から来ました。ノエラと申します」
彼は少年を抱いたまま、私と荷物の間へ立った。
「今度は、何を調べに来た」
歓迎されないことだけは、よく分かった。
「調べに来たのではありません。偽聖女として、ここへ追放されました」
「偽聖女?」
「その子の傷を、王太子殿下から移したと言ったからです」
男の目が鋭く細められた。
私はトーマの右腕を指ささず、本人へ尋ねた。
「包帯の下を見せてもらってもいいですか」
トーマは男を見た。男は答えを代わらず、少年を雪の上へ下ろした。
トーマが自分でうなずく。
「いいよ。今日のお昼に、急に切れたんだ。何にも触ってないのに」
ほどいた包帯の下には、儀礼用短剣と同じ長さの傷があった。
男は長いあいだ、その傷を見つめていた。
「俺はダリオ・ヴェルン。この院の管理人だ」
低い声から、疑いは消えていない。
それでも彼は門を開けた。
「入れ。ここで立ち話をして、子どもを凍えさせる気はない」
門をくぐる直前、私はもう一度、ダリオの左腕を見た。
絡みつく黒い糸の一本。その先に浮かんだ受益者の名は、レオニス王太子。
追放先で最初に出会った男は、王家の奇跡の代価を押しつけられていた。




