第16話 恋人の署名を読みなさい
開廷の鐘が鳴る十五分前。王都の最高法廷に設けられた冷たい石造りの控室で、私はひどく冷え切った自分の両手を固く握りしめていた。
「緊張しているな、ノエラ」
隣に座っていたダリオが、私の固まった両手を、彼の手でそっと包み込んだ。少し不器用な、けれど確かな温もりを持つ左手が、私の指先の強張りをゆっくりと解していく。
「……怖くないと言えば、嘘になります」
私は俯いたまま呟いた。
今日は、旧教会の黒幕であったオルデン大司教の罪を問う公開法廷の日だ。だが、それだけではない。私が恐れているのは、隣にいる彼自身が、教会の被害者としてではなく、裁きを受ける『被告人』として召喚されていることだった。
「法廷では、俺が四年前の戦場で書いた同意書が証拠として出される。そして、監査人であるあなたに、その真贋を問うはずだ」
ダリオは穏やかな声で言った。
「俺の署名は本物だ。だから、嘘偽りなく本物だと証言してくれ」
「でも……! 私がそれを認めてしまえば、彼らはあなたの純粋な自己犠牲を捻じ曲げて、あなたが部下たちに犠牲を強要したのだと責め立てるはずです!」
たまらず声を荒らげた私に、ダリオは静かに首を横に振った。
「隊長である俺が真っ先に署名したことで、部下たちが断れない空気を作ってしまったのは、紛れもない事実だ。俺はその責任から、もう逃げたくない」
彼の灰色の目が、私の目を真っ直ぐに捉えた。
「あなたが真実を曲げて俺を庇えば、呪約監査院の中立性は失われる。何より……嘘の上に立っていては、俺はこれからもあなたの隣を歩くことができない」
その誠実すぎる覚悟に、私は言葉を失い、ただ彼の温かい手を強く握り返すことしかできなかった。
やがて重い扉が開かれ、私たちは法廷へと足を踏み入れた。
高い天井と冷たい石壁に囲まれた広大な空間は、傍聴席を埋め尽くす人々の熱気と、張り詰めた緊張感に満ちていた。
「この署名は、ダリオ・ヴェルン本人のものですか」
裁判長の低く響く声が、静まり返った法廷に落ちた。
私の視線の先、一段低い場所に設けられた被告席には、ダリオが背筋を伸ばして立っている。そして、証人席に立つ私の目の前には、一枚の古びた羊皮紙が提示されていた。
私が「はい」と答えれば、愛する人を契約強要の加害者として裁くための証拠を与えてしまう。だが、偽りだと言えば、呪約師としての信用を自分自身で完全に壊すことになる。
傍聴席からの突き刺さるような視線。旧教会側の弁護人の、獲物を狙うような冷笑。
私は、ゆっくりと顔を上げ、被告席のダリオを見た。
彼は何も言わず、ただ小さく頷いた。「真実を読め」と、彼の目が私を促している。
私は深く息を吸い込み、羊皮紙の上にそっと指を置いた。
監査の力を発動させる。インクの染みに隠された魔力の軌跡が、私の目にだけはっきりと浮かび上がった。
そこにあるのは、誰かに操られたような歪な黒い糸ではない。四年前のあの日、部下を救いたいという純粋な願いとともに、自らの意志でペンを握ったダリオの、強く、迷いのない銀色の光だった。
「……はい」
私は法廷の全員に聞こえるよう、はっきりとした声で答えた。
「この署名は、間違いなくダリオ・ヴェルン本人のものです」
法廷が大きなどよめきに包まれた。
待っていたとばかりに、旧教会側の弁護人が立ち上がり、勝ち誇ったように声を張り上げる。
「お聞きになりましたか、裁判長! 呪約師自らが認めました。ダリオ・ヴェルンは教会の被害者などではない。自らの意志で進んで傷を引き受けたのです! そして何より、指揮官である彼が率先して署名したことが、他の部下たちに『自分たちも署名しなければならない』という圧力を生んだ。彼こそが同調圧力を利用した契約強要者であり、すべての元凶なのです!」
その悪意に満ちた糾弾に、傍聴席からダリオを非難する声が上がり始める。
だが、ダリオは一切の弁明をせず、ただ静かにその声を受け止めていた。
私は証言台の縁を強く握りしめ、弁護人を真っ向から見据え返した。
「お待ちください! 私が本物だと認めたのは、この一枚目の署名だけです」
騒然としていた法廷が、私の鋭い声に再び水を打ったように静まる。
「彼が同意したのは、あくまで『その日の戦場で負傷した部下十二人』の傷を一度だけ引き受けること。それだけです」
私は羊皮紙をめくり、その下にくっつけられていた追加のページを強く指差した。
「この署名の下に継ぎ足されている『期間を恒久とする』『対象を中央教会が指定するすべての受益者とする』という条項。ここから伸びる契約の糸は、どす黒く濁っています。本人の同意なき、完全な偽造です。ダリオ・ヴェルンの署名は本物ですが、教会は彼の純粋な自己犠牲を悪用し、国中から傷を集める恒久的な搾取システムへと改竄したのです!」
弁護人の顔から余裕の笑みが消えた。
私が暴いた教会の偽造の証拠は、監査院の正式な記録としてすでに提出されている。いくら弁護人が言葉で飾ろうとも、魔法契約の物理的な痕跡を覆すことはできない。
裁判長が眼鏡の奥の目を細め、手元の資料と私を交互に見比べる。
「つまり、呪約師殿。被告人ダリオ・ヴェルンの署名そのものは真実であるが、教会側による契約の無断拡張があったと、そう主張するのだな」
「はい。彼は騙され、利用された被害者です」
私はきっぱりと言い切った。これで教会の不正は証明され、彼が全ての負担を望んで背負ったという言いがかりは晴らせるはずだ。
しかし、裁判長の次に放った言葉は、氷のように冷たく、重いものだった。
「教会の改竄行為については、その違法性を重く見て別途審理を行う。だが、呪約師殿の証言により、被告人が『部下を救うために自ら署名した』という最初の事実は、紛れもない真実として確定した」
裁判長は木槌を手に取り、静かに、しかし決定的な一撃を法廷に響かせた。
「よって当法廷は、提示された原署名を、被告人が自発的な同意を開始した『恒久的な証拠』として採用する」
その言葉の意味するところは、あまりにも残酷だった。
教会の罪は罪として問われる。しかしそれとは完全に独立して、「部下たちの前で隊長が真っ先に署名した」というダリオの行為自体が、結果として部下たちに犠牲を強いたという罪状が、これで公式に審理の俎上に乗ることになってしまったのだ。
証言台に立つ私の足元から、すうっと血の気が引いていく。
私は震える瞳で、被告席のダリオを見た。
彼は、これでいいのだと言わんばかりに、私に向けて小さく、静かに頷いていた。




