第15話 最初に払った財務卿
空中に浮かぶ銀色の契約網が、危険を知らせる赤色に点滅している。
王都の魔導炉を再起動し、新しい供給システムへ移行するための『呼び水』――無傷の寿命一年分。
イリヤたち三十人の若者はすでに限界を超え、他の村人たちも極度の飢餓状態にある。監査者である私が代価を払うことは、呪約監査院の中立性と信用を完全に破壊する行為だとして、ダリオに固く禁じられていた。
誰も払えない。王都の病院が凍てつき、村の新しい契約も死に絶えるのを、ただ見ていることしかできないのか。
その時だった。
吹雪の夜の闇を裂くように、激しい馬蹄の音が響いた。
数人の護衛を伴った黒塗りの馬車が、崩落した第三坑道の前に乱暴に停まる。
「誰だ、こんな夜更けに……」
村人たちがざわめく中、馬車の扉が開き、一人の男が降り立った。
仕立てのいい、しかし装飾の一切ない実用的な漆黒の外套。年齢は三十代後半。氷のように冷たく鋭い知性を宿した目と、一切の無駄を省いたような洗練された身のこなし。
「……王国財務院総監、セヴラン・アルノー卿」
ダリオが、低く警戒に満ちた声を漏らした。
国の予算と資源のすべてを握る男。つまり、この鉱山村に異常な契約を持ち込み、報酬と引き換えに坑夫たちの寿命を吸い上げていた組織のトップだ。
「王都の魔導炉への供給が完全に断絶した。直ちに状況を報告しろ、元近衛隊長殿」
セヴランは雪の中を躊躇いなく歩み寄り、空中に展開されたままの契約式を一瞥した。
「私が契約を書き換えました」
私はダリオの横から前に出た。彼に怯んでなるものか。
「財務院は、村人たちが署名した契約の徴収倍率を、事後になって十倍に改竄していました。これは明確な違法行為であり、坑夫たちの命を騙し取る搾取です!」
セヴランは私の糾弾を受けても、眉一つ動かさなかった。
「ほう。末端の役人が、ノルマを達成するために愚かな小細工をしたようだな。後ほど事実関係を調査し、関与した者は法に則り処断しよう」
まるで事務処理の報告でもするかのように、彼は淡々と言い放った。自己保身の嘘も、隠蔽の言い訳もない。
「それよりも、だ」
セヴランは私の手元から伸びる新しい銀色の契約網を、興味深そうに観察した。
「寿命の直接変換から、青鉱石の現物納品と、村人全体の疲労の交代提供による魔力供給へ変更したのか。初期の変換効率は著しく落ちるが、長期的に見れば資源が枯渇しない合理的な代案だ」
彼はわずかに頷いた。
「だが、お前たちはシステム移行にかかる初期負荷を計算していなかったようだな。このままでは炉の火が落ちる。どけ」
言うが早いか、セヴランは私の手から契約の核である呪文書を半ば強引に取り上げ、自らの素手をそこに押し当てた。
「なっ……何を!」
「契約の再構築を承認する。移行担保として、私、セヴラン・アルノーの寿命一年分を徴収せよ」
空気が凍りついた。
強烈な光が走り、セヴランの身体から生命力が抽出される。彼の漆黒の髪の一部が、根元から毛先に向かって一瞬にして真っ白に染め上げられた。目元には深い疲労の影が落ち、彼自身が微かに呻き声を漏らす。
「アルノー卿! なぜ、あなたが!」
私は驚愕のあまり叫んでいた。私腹を肥やすための悪党ではなかったのか。安全な王都から、平民を搾取するためだけに指示を出している男ではなかったのか。
「勘違いするな、呪約師」
セヴランは白くなった髪を払い、冷徹な目で私を見下ろした。
「私は、誰か一人に隠して犠牲を押し付ける旧教会のやり方が嫌いなだけだ。全国民が、国を維持するために能力に応じて対価を払う。それが最も公平で合理的なのだ。国家が凍えるというのなら、私も例外ではない。自らの寿命一年分で王都の機能が保たれるなら、安い買い物だ」
彼は本気だった。
他人に犠牲を強いるだけでなく、自分自身さえも国家のための部品として消費することに、一切の躊躇いがない。
「……こんな」
私は言葉を失った。オルデン大司教のような卑劣な悪党なら、正論で殴り倒すことができる。だが、自らの信じる『国家の存続』という正義のために、自分自身の身を切れる人間を、どうやって否定すればいいのか。
セヴランの寿命を呼び水として、赤く点滅していた契約網が美しい銀色に輝き始めた。
ずん、と地鳴りのような音が遠くから響く。王都の魔導炉が再点火され、安定した魔力の循環が始まった証だった。
村人たちが、信じられないという顔で光を見つめ、やがて歓声を上げた。
寿命を削られる恐怖から解放され、自分たちの労働で堂々と村を養うことができる『坑夫の共同経営』が、ここに成立したのだ。イリヤは膝をつき、安堵の涙を流していた。
「事態は収拾したようだな」
セヴランは懐からハンカチを取り出し、指先を拭いながらダリオに向き直った。
「ダリオ・ヴェルン。お前にはこれを直接渡すために、私自身が足を運んだ」
彼は分厚い羊皮紙の封筒を、ダリオに向けて差し出した。
「中央教会が崩壊し、現在王都では旧制度の清算が行われている。オルデン大司教の罪を問う公開法廷の準備が整った」
ダリオは、その封筒が何を意味するのかをすでに知っているかのように、一切の動揺を見せずに右手でそれを受け取った。
「ご苦労だったな」とダリオは短く応えた。
私は胸騒ぎを覚え、ダリオの横からその書状を覗き込んだ。
てっきり、四年前の不正を告発する証人としての召喚状だと思っていた。私と一緒に、オルデン大司教の嘘を証言するための。
しかし、赤蝋の封が切られたその書類に書かれていた文字は、私の想像を絶するものだった。
『王都公開法廷 召喚状』
その下。証人ではなく、裁きを受ける『被告席』の筆頭に。
ダリオ・ヴェルンの名前が、はっきりと記されていた。




