第14話 契約を消さない監査
「違法でも、騙されていても構わない。金がもらえるなら、契約本体は絶対に続けてくれ」
雪風の吹き込む第三坑道の前で、イリヤの悲痛な声が響いた。
彼女の皺だらけの顔には、村を、そして家族を生かすための凄絶な覚悟が刻まれている。他の坑夫たちも同じ目をして私を見ていた。
違法な搾取であれば、それを止めるのが正義だ。そう信じてきた私の監査は、ここでは彼らの生活を壊す暴力でしかない。
私は大きく息を吸い込み、冷たい空気を肺に満たした。
「……分かりました。契約は消しません」
私の答えに、坑夫たちの間に張り詰めていた空気がわずかに揺らいだ。
「消さないって……でも、このままじゃ俺たちは死ぬんだろ?」
「はい。ですから、契約を『止める』のではなく『書き換え』ます」
私は手元にある、魔力支柱から抜き出した契約の核(呪文書)を広げた。
「財務院が勝手に書き加えた『報酬増額に連動して寿命徴収率が上がる』という改竄条項だけを、監査院の権限で無効化します。ですが、それだけでは元の低い報酬額に戻ってしまい、村は冬を越せません。だから、代価の支払い方を根本から組み替えます」
「組み替えるって、どうやって?」
村長が震える声で尋ねた。
「寿命を直接魔力に変換するから、身体が耐えられないんです。皆さんの本来の仕事は、魔導炉の燃料である『青鉱石』の採掘ですよね」
私はダリオの方を見た。彼は私の意図を即座に察し、力強く頷いた。
「ノエラが言いたいのは、こういうことだ」
ダリオが一歩前に出て、村人たちを見渡す。
「坑道の崩落箇所は俺たちが支える。明日から村の男たちで班を作り、交代制で青鉱石を掘り出せ。そして、石の魔力だけでは足りない分を、三十人の寿命ではなく、村の大人全員の『微量な体力(疲労)』で補うんだ」
「疲労で……?」
「そうです」と私が引き取る。「一人から数十年の寿命を奪うのではなく、百人が交代で数時間の疲労を提供するんです。それなら一晩眠れば回復します。青鉱石の現物支給と、安全な疲労提供を組み合わせれば、王都の病院の魔導炉を支える十分な魔力になります。財務院には、それを『正当な労働の対価』として満額の報酬を認めさせます」
坑夫たちが顔を見合わせた。
命を削るのではなく、汗を流して働き、休む。それは彼らが今まで当たり前にやってきた、ただの真っ当な労働だ。
「それなら……俺たちでもやれる。命をすり減らさなくても、家族を食わせられる!」
若い坑夫の顔に、希望の光が点った。
イリヤも、枯れ木のような両手で口元を覆い、何度も頷いている。
「やります、呪約師様。私たちで、やらせてください!」
私は監査印を手に取り、呪文書の上に重ねた。
これまで私は、隠された契約を暴き、強制的に停止させてきた。だが今回は違う。彼らの意志を守り、生活を残すための監査だ。
「契約番号三〇一四。代価負担者三十名への異常な寿命徴収条項を、財務院による改竄と認定し、破棄する」
印章から透明な光が放たれ、契約書に絡みついていた黒く濁った糸が焼き切れる。
「同時に、本契約を『村全体による青鉱石の納品』および『交代制の疲労提供』へと再設計する。利益と代価は適正であり、当事者全員の合意を確認した」
残された銀色の糸が、ほどけては新たな模様を描き出す。
三十人の若者に突き刺さっていた糸が村の大人たちへと薄く広く分散し、美しい銀色の網目となって村全体を包み込んだ。
「……身体が、軽い」
イリヤが自分の手を見つめ、信じられないというように呟いた。
失われた時間は戻らない。彼女の髪は白いままで、顔の皺も消えることはない。しかし、彼女の命を吸い尽くそうとしていた重圧は完全に消え去っていた。
私は、呪約師として初めて「契約を消さない監査」を成し遂げたのだ。
胸の奥に、温かいものが込み上げてくる。ダリオが私の隣に立ち、少しだけ誇らしげに目を細めているのが分かった。
だが、書き換えた真新しい銀の契約網を、王都の魔導炉へと接続しようとした、まさにその時だった。
空中に浮かび上がっていた銀色の糸が、突然、警告を示す赤色に点滅し始めたのだ。
「ノエラ、どうした!」
ダリオが素早く剣の柄に手をかける。
「魔力供給の、接続が拒絶されています……!」
私は慌てて契約の接続先である王都のシステムを読み解き、血の気が引いた。
「どういうことだ。新しい契約に不備があったのか?」
「違います。契約は完璧です。でも……王都の魔導炉は巨大すぎます。寿命の直接変換という『劇薬』から、青鉱石と疲労による『通常の魔力供給』にシステムを切り替えるには、炉の燃焼方式を一度再起動させなければならないんです」
「再起動? つまり、一時的に供給が止まるということか」
「はい。そして、その切り替えのタイムラグを乗り越え、新しいシステムを安定稼働させるための『呼び水』として、一気に膨大なエネルギーが必要になります」
私は絶望的な気分で、契約式が突きつけてくる要求を読み上げた。
「移行の時間を買うための担保として、誰か一人の『無傷の寿命一年分』を、今すぐ炉へ注ぎ込む必要があります」
村人たちが息を呑んだ。
イリヤたち三十人は、すでに限界まで寿命を奪われており、これ以上の負担は確実な死を意味する。他の村人たちも極度の飢餓と寒さで衰弱しきっており、とても寿命の提供に耐えられる状態ではない。
「私が払います」
私は一歩前に出たが、すぐにダリオの強い力で肩を掴まれ、引き戻された。
「駄目だ。監査者が自ら代価を払うことは、契約の公平性を歪める。監査院の信用そのものが失墜するぞ」
「でも、ダリオの身体はこれ以上――」
ダリオは、四十一人分の傷を四年間流し込まれた後遺症で、左腕と生命力に深い損傷を抱えている。契約そのものはすでに解除されていても、傷んだ身体からさらに寿命を徴収すれば、命を落とす危険があった。
払える者が、誰もいない。
システムが切り替わるまでの間、王都の病院では重症患者の体温が下がり続け、村の新しい契約も稼働しない。
完璧な解決策を見つけたはずなのに、移行期間の『一年分の寿命』という絶対的な壁の前に、私たちは為す術もなく立ち尽くした。




