第13話 名前を書けた日
崩落した第三坑道の入り口から吹き出す土煙が、雪に混じって夜の闇を濁していた。
無事に救出された三人の若い坑夫たちが、イリヤたちに毛布を掛けられ、温かい湯を飲ませてもらっている。その光景を少し離れた場所から見守りながら、私は手の中の古い呪文書を強く握りしめた。
「報酬増額に連動して、寿命徴収率が指数関数的に上昇する……。ダリオ、これは明らかな違法条項です」
私は、崩壊した魔力支柱から抜き取った契約の核をダリオに見せた。
「村人たちは、高い報酬を得る代わりに自分たちの寿命を差し出すことに同意しました。ですが、この条項は『高い報酬を望めば望むほど、魔力への変換効率が不自然に悪化し、結果として必要以上の寿命を搾り取られる』ように組まれています」
「つまり、千の魔力を送るために、本来なら一ヶ月分の寿命で済むところを、報酬額を吊り上げた罰のように、一年分、十年分と奪い取る仕組みにされているということか」
「はい。利益と代価が同じ重さで説明されていません。それどころか、意図的に代価を重く誤魔化しています。これは同意の要件を満たさない『搾取』です」
十三年間、教会で教えられてきた奇跡の裏側。王家の傷を押し付けられた四十一人の時と同じだ。ただ、今回は教会ではなく、国の財務院が、貧しい平民の命を数字の罠で削り取っていた。
「この隠し条項を証拠にすれば、契約の違法性を問えます。そうすれば――」
私が言いかけたその時、ダリオが持っていた携帯用の通信魔導具が、チカチカと控えめな光を放った。
王都の病院からの緊急警告のような赤い光ではない。監査院の留守を任せている子どもたちから、定期連絡用に持たせていたものだ。
ダリオが盤面を開くと、そこに不器用な、しかし一生懸命に書かれた文字が浮かび上がってきた。
『ノエラ、ダリオ。よるおそくにごめんなさい』
「ミナからだ」
ダリオが盤面を私の方へ向ける。
監査院に残っている十二歳のミナは、文字を習い始めたばかりだ。第三王女の熱を七年間も負わされ、教会の台帳では『北部第十七号』としか記されていなかった彼女は、文字の読み書き、特に自分の名前を書くことに強い執着と恐怖を抱いていた。
『ノエラに言われたとおり、文字のれんしゅうで、監査院にある台帳の写しを作っていました』
盤面に浮かぶ文字を追いながら、私は少しだけ頬が緩むのを感じた。こんな夜中まで起きて、真面目に写本を続けてくれていたのだ。
『でも、おかしなところを見つけました。監査院にある南部の契約書の控えと、昨日財務院から届いたばかりの通知書。書いてあることは同じみたいだけど、数字が一つだけ違います』
「数字が?」
ダリオが眉を寄せる。盤面には、ミナが写し取った数字の羅列が続いた。
『監査院の控えでは、徴収の倍率の項目が「1・0」になっています。でも、財務院の新しい通知書では、点の位置がなくて「10」になっています』
私は息を呑んだ。
慌てて手元の呪文書――先ほど読み解いたばかりの、坑道を支えていた魔力支柱の契約式に視線を落とす。
インクの下に隠されていた、銀色に光る数式。そこにははっきりと『10』という倍率が組み込まれていた。
「……改竄です」
私は震える声で言った。
「村人たちが最初に署名した時の倍率は、正当な『1・0』でした。でも、財務院は署名が完了した後に、控え以外の実務書類や術式の点の位置を消し、倍率を十倍に跳ね上げたんです。イリヤさんたちが異常な速度で老女になってしまった理由は、これです!」
ダリオの灰色の目が、鋭い光を帯びた。
「ただの隠し条項じゃない。明確な契約改竄の証拠だ。よく見つけたな、あの子は」
魔力を持たないミナには、私のように契約の糸を見ることはできない。けれど彼女は、私が持っていない根気強さで台帳を書き写し、インクの点一つの違いという、決定的な不正の証拠を見つけ出してくれたのだ。
盤面の文字は、まだ続いていた。
『わたしは、魔力がありません。ノエラみたいに糸は見えないし、ダリオみたいに剣も振れません。でも、こうやって記録を比べれば、嘘を見つけるお手伝いができますか?』
「ええ、できるわ。ミナ、あなたが私たちを救ってくれたのよ」
私は通信魔導具の盤面に向かって、届くはずもない声で呼びかけた。
そして、メッセージの一番最後。そこには、これまで彼女が決して書こうとしなかった文字が、力強く、はっきりと刻まれていた。
『報告者 ミナ・ロウ』
涙が込み上げてきた。
彼女はもう『第十七号』ではない。不正を暴く証拠を見つけ出し、監査院の大切な一員として、自分の名前を最後まで書き切ったのだ。番号から、一人の人間へと戻った瞬間だった。
「……返事を打ってやれ」
ダリオが、魔導具の入力用ペンを私に手渡す。彼もまた、盤面の署名を見て、微かに口元を和ませていた。
私は『ありがとう、ミナ。あなたの見つけた数字が、村を救う鍵になる』と打ち返し、通信を切った。
私は手の中の呪文書と、ミナが送ってくれた証拠を胸に抱き、イリヤや村人たちが集まる場所へと歩み寄った。
救出作業を終え、煤と泥に塗れた坑夫たちが、不安げな目で私を見つめる。
「イリヤさん。皆さん」
私は村人たちに向かって、はっきりとした声で告げた。
「皆さんが署名した契約には、後から財務院によって数字が書き換えられた痕跡がありました。報酬が上がるにつれて、本来の十倍もの寿命が奪われるように改竄されていたんです。これは明確な違法行為です」
村人たちの間に、どよめきが走った。
「騙されていたのか……」「俺たちの寿命を、なんだと思ってやがる」
怒りと絶望の声が上がる中、私は力強く続けた。
「でも、安心してください。監査院に残った書記が、改竄の動かぬ証拠を見つけてくれました。この隠し条項と改竄を理由にすれば、皆さんの寿命を奪うこの悪辣な契約本体を、違法なものとして完全に無効化できます!」
私は、今度こそ彼らを救えるのだと信じていた。
隠された搾取を暴き、不正を糾弾し、当事者を苦痛から解放する。それが呪約師である私の使命であり、正しい結末だと。
しかし、イリヤの反応は、私の期待とは全く異なるものだった。
彼女は白髪交じりの頭を横に振り、ひび割れた声で言った。
「……無効にしたら、村を救うためのあの報酬は、どうなるんだい?」
その問いに、私は言葉を詰まらせた。
「それは……契約が最初から無かったことになれば、当然、財務院からの報酬の支払いも……」
「だったら、駄目だ」
イリヤは一歩前に出て、私の目を見据えた。
「騙されていたことは腹が立つ。十年分も余計に寿命を盗まれていたなんて、許せない。だけど……契約を無効にして、金が入ってこなくなったら、結局村は飢え死にするんだよ」
他の坑夫たちも、重苦しい沈黙の中でイリヤに同意するように頷いた。
「俺たちは、村を生かすためにここへ来たんだ。違法でも、騙されていても構わない。金がもらえるなら、契約本体は絶対に続けてくれ」
雪風が、私の頬を冷たく打ち据えた。
不正な契約を止めることが正義ではない。彼らにとっては、明日食べるパンを買うための金こそが、唯一の正義なのだ。
明らかな違法行為を見つけてもなお、当事者自身が搾取の継続を望んでいる。私はまたしても、どうすることもできない巨大な壁の前に立ち尽くしていた。




