四、太子捕縛
瓦舎と呼ばれる芸人街に住む町医者東哲は、無音の一員だ。随風は衛調査官から、怪我をしたら彼を訪ねるようにと教えられていた。大柄な老人だ。見た目はだらしなく、腰には瓢箪を提げている。
「どれ、酷い傷だな。毒はない。疲労もかなりある」
いいながら、テキパキと処置をしてゆく。酒かと見えた瓢箪からは、神薬が出てきた。
「証言します、筆記を」
怪我人の息がいくらか楽になり、証言を申し出た。随風は急いで筆を取った。
「お名前と所属を」
「段家軍厨師、大石と申します」
随風の予想通り、幕屋では留守番数名が元太子護衛に斬られた。彼等は慌ただしく出ていったので、大石に息があったことには気づかなかった。彼は姓を持たないただの料理人だが、従軍厨師なので、素早さと体力は自然と鍛えられていた。そうは言っても、やはり武人ではない。裏切り者たちは、甘く見たのだ。
大石は燕に言い含められて、気配を薄める特訓も受けた。神燕将軍直々の特訓である。時間が空いた時に指南していたため不定期で、偶然にも、誰もこのことは知らなかった。致命傷を避けた大石は、出ていった裏切り者を追った。そうして、彼は一部始終を目撃したのだ。
「彼等が将軍様の背中を射たのです」
大石は恐怖が大きすぎて麻痺してしまい、援軍が去った後を隠れながら追いかけた。しかし、傷が酷くて次第に遅れた。
「都の老将軍に知らせなければと、ただそれだけを考えていました」
強い思いが旅路を支えて、大石は将軍府に辿り着いた。
「封鎖を見て絶望しかけましたが、すぐに婿殿を思い出したのです」
彼は料理人だったので、峡谷戦以前の事情は知らない。その日の惨事は、大石にとって驚天動地の大事件だった。
「時に東哲先生。凱旋の日、城門広場にいらしたのですか?」
随風は、筆を置かずに質問した。
「へっ、抜け目ないやつめ。呑気な面して食えぬ奴よの。まあいい。あの日はな、お役目とは全く関係ない弟子どもと薬草研究に出かけておったのじゃ。城外の山ん中に泊まったからな。騒動は後から知ったよ」
新情報は期待できないようだった。
「そういえば、騒動は巫蠱術絡みの線もあるそうじゃな?弟子の一人が南山国に入り込んで、巫蠱の虫めを解毒する薬草を見つけてきたぞ。まったく、頼まれもしないのに、命知らずな馬鹿者だ」
単なる好奇心から解毒術を身につけてきたようだ。十年潜入していた彼の帰還祝いも兼ねて、久々に師弟一同集まったらしい。
「症状によって、やはり解き方は違うようでな。術が必要なものは我々には解毒できないが、単に薬草の煙で虫を誘き出し、溺れさせて仕舞えば良いだけのものもある。そういう虫なら手に負えるそうだ」
「太子の性格激変が虫によるものなら、解けば真相は解るのではないでしょうか」
「上に聞いてみないことにはな。弟子めはお役目とは全く関係がない。それに、いつ虫に飽きるかわからんしの。帰国したってことは、もう興味が失せたってことやも知れん」
二日後、早馬が到着した。その間、医療班がついに皇帝の脈を取ることに成功した。そこからの展開は早かった。
「皇帝に毒が盛られた」
「ただの毒ではない。南山国のへんな虫らしい」
「体の中に入り込んで悪さをするそうだ」
「うわぁ、気味が悪いや」
「名医が突き止めて、陛下はお目覚めになられた」
「よかった」
「よかったなぁ」
御林軍の目を盗み、東哲の弟子が呼ばれて解毒に成功したのである。なにしろ、十年以上もの長きにわたり、独り敵国に潜んで秘術の解毒法を研究してきた曲者である。御林軍など、いないも同然であった。
皇帝に仕掛けられたのは、寄生させられると昏睡して衰弱死に至る虫だった。育てるのには術が必要だが、解毒は簡単だ。虫が嫌がる成分を水分として体内に入れさえすれば良い。それは、南山国では自生しない貴重なものだが、巌国の都春陽では容易く手に入るものだった。
「まさか生姜湯が効くなんて。騙されたような気分です」
「葉殿、私もです」
御林軍統領・岳炎は、医者を遠ざけた責任を問われ降格された。後を継いだのは、二大軍族とは関わりのない国軍の将軍だった。太子妃は御林軍手配に無関係なので、お咎めなしであった。偽聖旨とも直接の関わりがない。太子の行動を傍観した恨みはあるものの、随風は太子妃に関して、目下何らかの罪を暴き出す必要はないと思った。
(どうやら直接の仇ではないようだし、まあいいか。今はそれより、太子謝天開だな)
統領だけはすげ変わったが、御林軍は太子に掌握されたままだ。随風は、目覚めた皇帝に偽聖旨の証拠を提出した。
皇后が皇宮に戻ってきた。先帝の菩提を弔うという名目で山寺に匿われていたのだ。皇后は、捕えられた太子に一眼会いたいと懇願した。母子として当然の情だろう。
「調べが終わるまでは、我慢しなさい」
「陛下」
皇后は悲しそうに目を伏せた。太子は皇后の長男だ。だが、子育て失敗の責任は免れた。皇后は今回の事件で何の役割も果たさなかった。加えて、別件で命を狙われている節もあったからだ。
太子妃岳柔は簡単な質疑で解放された。皇后の実家と岳国公一族は政敵だ。太子即位後、太后すなわち皇帝の生母として現皇后が君臨すれば、何かと面倒である。太子、太子妃、岳国公一族が、しばしば起こる暗殺未遂の容疑者だった。この件には証拠がなく、今は追及されないのだ。下手に太子妃を捕えれば、尻尾切りされる可能性もある。単なる個人の確執ではないので、太子妃を捨て駒にして、一族同士の対決は続けることになりそうだ。
意外な逮捕者もいた。皇帝に謎の虫を仕掛けられたことが公表された途端、学問所の花月音蔵書官が逃亡を試みたのだ。
「護衛を増やして発覚したんですが」
衛寒雨調査官が苦々しい雰囲気を醸し出した。いつものように、表情は固定である。
「蔵書官の立場を悪用して、我らに渡す情報を改竄したり調整したりしていたようです」
護衛目的の目が増えることにより、不正行為を隠しきれなくなったのだ。
「花月音の学童たちが太子陣営の手駒とは、驚きでしたね」
「そもそもは、学童の中に、太子別荘の下働きをしていた者がいたんですよ」
五狗は、学問所に通いながら賃仕事を掛け持ちする、抜け目のない子供だった。耳も早く、無音の幹部候補生として育成されていた。ある日、街中の賃仕事をしていた時、屋敷と東宮の連絡係をみかけた。件の巫蠱術師である。何気なく眺めていると、最近流行りの茶楼に入って行った。
(東宮との連絡係だもんなあ。普通の下女よりお給金もいいんだね)
子供は好奇心から、店の中をそっと覗いた。中には太子もいたが、侍女は離れた席に座った。連絡係の席には、噂好きの楽人が待っていた。太子の席から、声は届く程度の距離である。
(まあ、休憩時間を主人に邪魔されたくはないよね)
子供は、無音構成員の習慣で聞き耳をたてる。
「ね、ちょっと、大変なものを見ちゃったんだけど」
連絡係は、身を乗り出して楽人に告げる。奥の席では、太子が耳をそばだてていた。
(殿下も人の子だねぇ。噂話は聞きたいよねぇ)
五狗は、太子に親しみを感じた。
「なんだい、一体?」
興味津々の楽人が続きを促す。
「それがねぇ。うちに住んでる琴師いるでしょう?」
「うん」
「あのひと、噂があったじゃない?」
「ああ、南山国人だっていう?」
「そうそう。それがね。見ちゃったのよ」
「何を?」
連絡係は運ばれてきたお茶を一口飲み込んだ。
「顔よ!顔」
「えっ」
「偶然、顔覆いが落ちたの」
「それで?」
「巌国人の顔とは、なんか違った」
「どこが?」
「こう、鼻とかね。厳ついっていうか、骨っぽいっていうか、私達よりずっと高くてさ」
「へええ」
それから連絡係は怖そうに眉を顰めた。
「ねぇ、わたし、大丈夫かな?逃げたほうがいい?」
「何で?」
「怖いじゃない!隠してた顔、見ちゃったのよ?スパイなんじゃないの?殺されちゃう」
「ああ、そいつぁ気が付かなかった。え、おい、ちょっと待てよ。そんな危ねぇネタ、聞かされた俺も、やべぇだろ」
五狗は意外に思った。
(あのひと、あんなにがらっぱちだったっけ?もうちょっとはんなりした感じかと思ってたけど)
太子が怒りに眉を吊り上げていた。
(あーあ、噂話から守ってあげた琴姫が、本物のスパイかも知れないなんてねぇ。殿下もついてないね)
それからまもなく、屋敷からも町からも、件の三人が消えてしまった。またも好奇心を掻き立てられた五狗は、子供の身軽さで、琴師の部屋に忍び込む。
(部屋のもの、なんにも失くなってないぞ?身一つで出ていくたって、お金までこんなに置いてくなんて、おかしくないか?)
無音の訓練生なら、そこらの仕掛けなど容易く見抜く。五狗は隠し部屋を見つけた。覗くと、太子が怒りに声を震わせていた。
「貴様、人の好意に付け込んで、当朝太子の鼻先で諜報活動をしやがるとは!」
「間抜けデスね」
鎖に繋がれた女が嘲笑う。女琴師だ。訛りが強い。
「ソンナだから、町のミナサンモ、女ショーグンばかり褒メテ、アナタのことは言わないネ」
失踪事件の当初、琴師は太子に拷問されていたのだ。重用していたお抱え楽士に裏切られたという悔しさで、太子の心に隙が生まれた。そもそも、不穏な噂の真偽を確かめもせず、陰口から保護するという時点で、盲目的になっていたのは明らかである。
スパイ発覚も、意図的に聞かされた会話による。聞いてすぐ怒った。つまり鵜呑みにしたということだ。あとはスパイの手の内で簡単に踊らされるようになっていった。太子はどこにも報告せず、楽人仲間には琴師が出ていったと説明した。一方で、詳細を吐かせてから報告する、と言う愚かな主張を自分自身に信じ込ませた。
一方、連絡係と噂好きの楽人は、さっさと活動の地盤を移した。太子がスパイと手を組むまで、さほど時間はかからなかった。五狗は逐一花蔵書官に報告した。五狗を通して花蔵書官が太子に接触した。
(ええー。大丈夫かな?やばそうなら、番所に匿名の訴状を投げ込んで逃げよう)
訓練生には、まだ無音の全貌が知らされていない。ほかの構成員に言いつけようにも、五狗には手立てがなかった。そこで、町の番所に匿名で知らせて、自分は遥か遠くで身を隠そうと思いついたのだ。
(あーあ、嫌な予感がするなあ)
花蔵書官が取り込まれ、訓練生がまとめて太子陣営に組み込まれた。裏切りを警戒した太子と、花蔵書官を新たな恋敵かと勘繰った太子妃から、それぞれに監視員が派遣された。見張りが厳しくなり、五狗は番所に近づく機会を失った。
(琴姫が本当に出てったみたいだな)
琴師は太子に送り出された。
「嫁サンちゃんと見張ってナサイヨ」
「あいつの手の者など、そなたの敵ではないだろう」
「それだって、ウルサイヨ。ケンギンジョウまで押しかけテ来ないようにシナサイ」
琴師は威張っている。多くの手勢がサポートして、太子は琴師を無事城壁に登らせた。そちらに注意が行っているので、他の者どもへの警戒が薄れている。五狗が一行についてきたことは、発覚しなかった。
(この機を逃す手はないな。もう付き合ってられない。逃げよう)
しかし行く当てはない。夜陰に乗じて城壁を越える琴師の姿を盗み見て、五狗は衝動的に後をつけた。琴師は剣吟城で、件の二人と大道芸人を始めた。彼等は時折、南山人らしき覆面の人間と物陰で言葉を交わしている。それから数ヶ月後、休戦の知らせを受けて浮き立つ剣吟城は、突然戦火に包まれた。
(いやあ、すごいね。神燕将軍!先手を打たれてたのに、城下町の連中に殆ど被害が出ないなんて。ほんとに神仙様なんじゃないの?絶世神功は、現実にあったんだ!城主との連携も見事だったなあ。俺は断然神燕将軍派だね。太子陣営から逃げてよかった)
逃亡した五狗には、何かを目撃しても知らせる相手がいない。段家軍は警戒が厳しく、将軍府でも出自不明な浮浪児を雇う見込みがなかった。憧れの神燕将軍に近づく隙も見つからなかった。気がつけば、奇襲から一年近く経っていた。
(あ、軍人と接触した)
元琴師と接触した軍人は善良な町人のふりをしているが、五狗は一目で見抜いた。これまた衝動的に後をつける。軍人は三人の芸人に、幕屋の巡回警備や武器庫の位置などを知らせている。
「今回、何でアナタたち来ましたカ?バレたらドウスル?」
琴師がまた威張っている。
「威張るんじゃない。そっちの情報員が捕まったんだよ。聞いてないのか?」
「シラナイ!」
琴師は怒鳴って立ち上がった。
「無音の奴等だ。あいつら、何処にでもいやがる」
「無音?ナカマじゃないのカ?」
「仲間は花女史だけだよ」
「ヤヤコシイ」
「とにかく、もうドジ踏むなよ?こっちはクソ女の眼を誤魔化すんで手一杯なんだよ」
彼等は皇帝の意向で幕屋に残っているが、太子に心酔しているようだ。クソ女とは段燕将軍のことだ、と判断して良いだろう。
「モヤシ消せば、クソ女ハ気持ちガ弱くナルヨ」
「うぜぇモヤシも無音に守られてやがるから、手出しできん」
「コシヌケガ」
「自分でやれ」
(モヤシ?ああ、去年剣吟城にやってきた、神燕将軍の婚約者か。奇襲事件のあと見てないから、都に帰ったんだろうね。最近また、すごい量の物資を幕屋に届けさせたって聞いたな。そんで、琴姫が探りを入れたのか)
半月後、剣吟城は悲しみに包まれていた。鎮南将軍府は封鎖され、段燕謀叛の触書が張り出された。
(ヤツら、勝ったのか?なんでだ?無敵の神燕将軍がどうして?陛下、何やってんだ?無音に裏切り者が増えたのかなあ)
五狗は居ても立ってもいられなくなり、都の様子を見に行くことにした。身を隠すために瓦舎に紛れ込んだところを、東哲に保護された。東哲は五狗を無音の幹部候補生として知っていたが、五狗は東哲を知らなかった。ちょうど太子が捕縛された頃だったので、五狗も事情聴取されることになった。
「太子はスパイの手玉に取られた愚か者だ。段起将軍の弟子を名乗る資格はない」
黄護衛が吐き捨てた。太子は巫蠱術の犠牲者ではなかったのだ。傷の療養をしている大石も、憤慨して硬く拳を握った。随風には疑問が残る。
「けどなんで、学問所は上に報告を上げなかったんだろう?」
五狗が隠し部屋を発見したのは、奇襲事件よりも前のことである。花月音が太子と手を組んだのは、最初の報告からかなり後だ。その間、一度も報告がない。
「花月音は、狂信的な皇権主義者だったのさ。子供の報告で聞いたスパイの戯言に踊らされたひとりなんですよ」
「燕燕が太子を脅かし、国を揺るがすと?」
「そうなんです」
随風の瞳の奥には、呆れと深い哀悼が揺れていた。
(燕燕。僕が女将軍物語を応援しなければ、こんなことにはならなかったんじゃないか?)
太子のくだらない自尊心と、狂信者の薄っぺらい忠誠心を満足させてやっていたら。太子が、文人太子としての人気を保っていたならば。僅か数ヶ月でスパイを解放するような狂気の沙汰は、起こさなかっただろうに。太子がうまく丸め込まれて、スパイに手を貸す事態が起こらなかったならば。たとえ逃げられていたとしても、段家軍のお膝元でスパイ一味が活動を再開などしなかっただろう。奇襲に失敗したあとも図々しく居座り、ついには謀叛成功目前までいったなんて。
(僕のせいだ)
衛調査官は、随風の気持ちを察知した。
「悪党と愚者は、結局のところ悪事を働くものなんですよ。葉殿の活動は、結果として大巌国のウミを搾り出したんです。謝天開が登基していたら、陛下がお隠れになった途端に暴君と化したんじゃないかと思いますよ」
悪人の洗脳を受けて、簡単に操られた人間だ。琴師が成功しなくても、いずれ誰かの傀儡となっていただろう。
「そうですかねぇ」
「婿殿、衛殿の仰る通りです」
凄まじい執念を見せた大石と、段家軍将士の面目躍如たる黄護衛は、その働きを認められて、今や無音の所属である。皇帝の配慮で、随風専属の補佐官となった。段家軍はもはやこの二人のみ。段家の血筋は遺されていない。
「そうか」
髄風は無理に納得するように、ぎこちない笑顔を作った。それから、また、いつもののほほんとした風情に戻る。
(さて、南山国に行ってみるかな)
その場には、無音の正式調査官となった五狗と、相変わらずだらしのない格好をした東哲もいる。図体が大きいので、余計にだらしなく見える。
「おっ、モヤシの旦那。写本官の本分を忘れてやしませんか?」
五狗は燕の将軍姿を目のあたりにし、感服していた。将軍の熱烈な崇拝者であり、相愛の婚約者でもあった随風のことを、好意的な目で見ていた。
「小僧、お前さんの目は誤魔化せないねぇ」
「哲爺ちゃんだって気づいてんだろ」
「葉殿。早まってはなりませんよ?」
衛調査官が釘を刺す。
「ああ、ちょっと血迷いましたね」
随風は徹頭徹尾モヤシである。相手の地元まで乗り込んだところで、何かができる訳ではない。それに五狗の言う通り、随風が国外にまで出かけて行くのは、逸脱行為だった。写本官の身分では、記録の副本作成だけが許されている。今回は、逆賊事件という緊急事態だったので不問に付されたが、随風の言動は、写本官の職務範囲から完全にはみ出していた。そのため、感覚がおかしくなっていたのだ。
「でも、鎮南将軍府が失くなってしまい、南方辺境はどうなってしまうのでしょうか」
「南方戦線は、現在剣吟城主様が暫定的に守っておられますが、城主様はあくまでも辺境防衛軍を後方から支える役割であって、前線に出て戦うのには向かないお方です」
衛調査官が重苦しい雰囲気を醸し出した。当然、表情は一定である。
「勝利はしたし、謀叛事件は十日程度で解決したけど、賠償請求とか戦後処理はようやく使者が旅立ったところです」
太子一派は敵と通じていたので、降伏勧告への返信は無いままで帰還していた。反面、太子一派の帰還が早過ぎたため、帝王は状況を把握しきれていなかった。太子からの連絡より先に降伏勧告が届き、次いで太子による追い討ちの知らせも来た。適当に無名兵士を屠る手筈にはなっていたが、双方疲弊し切った戦場での追い討ちは計算外であった。
裏切り者の離脱を手引きした翠雲公主も、その頃にはまだ帰城していなかった。峡谷戦が惨敗だと判断した帝王は、段燕宛ての停戦定義書を発送していた。これを受け取った後、段家軍は白鉢巻で幕屋を後にした。剣吟城主の助力もあり、無音の活躍もあったので、数種類のルートを使い、最終的な戦勝報告は複数発送された。最初の報告書と定義書の写しが皇帝の手に渡ったのは、幸いにも太子帰還の半日前であった。無音が誇る早馬隊のなせる技だ。定義書原本は、段家軍が持っていた。
「それは奪われたのでしょうか?」
「分かりません。でも、何処かにはあるはずです。混乱を極めておりましたが、まさかあの規律正しい段家軍が紛失するということはないでしょうし」
衛調査官は一旦言葉を切った。誰も口を開かない。衛調査官は言葉を継いだ。
「太子は、停戦定義書の存在を知らなかった可能性もあるんです」
「と、申しますのは?」
「偽聖旨騒動まで起こしたのに、賠償請求の使者を立てていません。あの時の精神状態なら、太子は賠償請求に擬装した使者を走らせて、南山国に現況を知らせたと思うのです」
「そうかも知れませんね。栄耀栄華を独り占めできる好機でしたから。太子陣営から使者を出さなかったのは、たしかに少し変ですね」
太子は、派手に段燕将軍を潰したいという醜い欲求のため、皇帝に手を出すのは遅らせた。援軍帰還時に皇帝を暗殺する流れも想像できる。だが太子は、一旦、皇帝が神燕将軍を褒め称えるままにしておいた。それは確かに効果的だった。段家軍凱旋、反転十族誅、手柄独占、皇帝発病、代理執行権獲得、皇帝昏睡。ドラマチックである。政敵を完膚なきまでに叩き潰し、自分は英雄となる。太子の狙い通りにことは運んだ。だが、絶望に突き落とされたひとりの狂愛者を生み出すきっかけともなってしまったのである。
「僕がすることは、段家軍の遺族補償と、ふたつの鎮南将軍府を再建すること」
都の屋敷は焼け落ち、剣吟城の別邸は荒らされ放置されている。どちらも扁額は壊され投げ捨てられたままだ。真相が明るみに出て、皇帝から新たな扁額が届いている。それを掲げられるような屋敷を、二箇所に再建しなければならない。持ち主は、春陽が老将軍段起、剣吟城が段燕のままである。段家十族の名誉回復と段燕将軍の国葬が済んだ後、どうなるのかは不透明だ。
「婿殿。それは我らの務めです。婿殿は拝堂前ですし、そこまでなさらなくても」
黄護衛が慌てて辞退した。拝堂とは、結婚式のことである。広大な邸宅を二軒も再建するには、相当の資金が必要だ。正式な婿入りをしていない随風に負担をかけるのは気が引けたのである。
「ああ!忘れるところだったよ!思い出させてくれてありがとうございます」
随風の呑気な顔に、狂気の光が灯った。
「え、何を?」
黄護衛が飲み込めないでいる。会話の流れからは予想できない返答に戸惑った。
「拝堂!拝堂はしなくちゃ。いつまでも婚約者ってわけにはいかないからね!正式な婿にならなくては」
「え、ええ?」
黄護衛がたじろぐ。
「葉殿、落ち着いて」
衛調査官が取り乱す。相変わらず表情は動かないが。
「ほ!」
東哲医師が目を剥く。
「何ですって?」
大石が呟く。
「モヤシの旦那!陰婚ですかい?」
五狗が蒼白になった。陰婚は死者との婚姻だ。冥婚、鬼婚などとも呼ばれる。これを行う者の事情はそれぞれだが、普通のことではない。
「正式な婚姻だよ。みんな何を言ってるんです。そうと決まれば、立派なお位牌を造らなくちゃ!」
「えええ、やっぱり陰婚じゃないですか」
五狗が恐ろしそうに後ずさる。
「やっぱり、婚約者って立場より正式な婿として行かなくちゃね」
随風は円い眼をキラキラと光らせる。
「何処へ?」
衛調査官が恐る恐る聞いてみた。
「そりゃまあ、元凶の所へですよ」
「元凶?」
大石が眉を寄せる。
「あの人が太子殿下を焚き付けなければ、今頃は楽しい新婚生活を送っていたんですからねぇ。元凶と呼んで差し支えないでしょう?」
憎しみも怒りも感じさせない、ほのぼのとした雰囲気が、むしろその場を凍らせた。
「翠雲公主は帰国してしまったから、今更スパイとして捕まえることはできないんですよ」
衛調査官が残念そうな雰囲気を出しながら、淡々と言った。
(この人が出す気配って感情豊かだよなあ。見た目だけだと解らないのに)
まだ衛調査官に慣れていない五狗は、面白そうにじろじろと観察した。寝床で半身を起こしていた大石が五狗の袖をニ、三度引いて、まともな大人らしく注意を促した。
(しまった、ちょっと見過ぎたか。失礼だったかな)
五狗は決まり悪そうに目線を逸らした。
「亡国の元公主なんて、戦勝国に何か権利を主張出来るものじゃないですよね」
「葉殿。まだ亡国じゃないです」
「時間の問題ですよね」
「婿殿、そうとも言い切れません」
黄護衛が言った。太子が捕縛された今、辺境軍の大半を失った南山国が生き延びる道はあるのだろうか。
「段家軍も二人を遺すのみとなり、新たな軍の配備も終わっていません。あちらの辺境軍は壊滅状態ですが、南東の小国初と手を組んだようですから、初も参加する草原同盟に属する四つの小国も力を貸すと見て間違いなさそうですよ」
「初といえば、歌舞が盛んな祭祀国家でしたね」
随風は、軽い確認のような口調で訊いた。
「はい、その通りです」
「殿下捕縛の翌日上がって来た写本依頼に、翠雲公主が初国に姿を現したという内容の報告書がありましたよ」
「なんと。動きが早いですね」
大石が驚いた。
「都に残っていた南山国のスパイが、太子捕縛の知らせを運んだにしては早過ぎます」
衛調査官が冷静に分析した。
「峡谷戦では双方壊滅的な被害を受けましたからね。早めに動いていたのでしょう。捕縛の日と重なったのは、偶然でしょうね」
黄護衛は見解を述べた。皆もその説に賛成した。
「私はそろそろ、町に出てみますよ」
話がひと段落して、衛調査官は地下倉庫を去った。五狗が随風に手を振って、その後に続く。
「じゃ、婿殿、私も仕事に戻ります」
黄護衛もそそくさと、随風の自室へと上がって行った。
「私は一眠りさせてもらいます」
大石はまだ治療中なので、地下倉庫の寝台で横になる。
「もう少し良くなったら、表門から訪ねて来てくださいね」
いつまでも匿っておくわけにもいかない。随風の自室は刑部尚書府の片隅にあり、家族が来ることは滅多になかった。葉家は仲が良いのだが皆忙しく、普段は殆ど家にいない。食事や来客の知らせを寄越す程度の往来である。それでも、万が一ということはある。地下室に人をひとり匿っていることを知られたら厄介だ。
そもそもが重要な生き証人なので隠していたのだ。事件が一応の解決を迎えた今、保護の必要はなくなった。かと言って、屋敷に突然怪我人が現れたら、家族が驚いてしまう。父は大石を犯罪者かと疑いそうだ。なるべく早く、正規の手順で段家軍厨師として迎え入れたい。
「明日また様子を見に来るよ」
東哲が薬箱を肩に掛けて立ち上がった。
「よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる大石に、東哲医師は軽く手を振った。ほんのりと優しさの滲む仕草であった。随風は東哲を連れて自室に上がると、寝台の仕掛けを動かした。床の穴が音もなく閉じる。
「東哲先生。瓦舎に腕の良い木彫師はいませんか」
「代書屋!考え直したほうがいいぞ」
随風は、位牌と婚礼を挙げるつもりなのだ。復讐の大本命、女琴師こと翠雲公主は、段燕将軍の正式な夫としての身分で討ちたいのである。




