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黄泉路も独りじゃ寂しかろ  作者: 黒森 冬炎


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3/6

三、皇太子謝天開と女琴師

 その晩も、食卓を囲んだ家族はチラチラと随風を伺っていた。皆、口数少なく箸を動かした。本来なら結婚第二夜だった。少年時代の活劇英雄が思いがけない婚約者となり、老将軍とも親しくなった。四年目の初顔合わせでは、互いにぴったりの相手であると知った。崇敬は恋に変わり、その後一年間の短信往来で愛が育っていった。五年目の昨日、想いは実り、これからの人生を共に歩む門出の時となる筈だった。


「それにしても、太子殿下は老将軍のお弟子なのでしょう?とんだ白眼狼(おんしらず)ね」


 四男段(くう)の嫁はまだ年若いので、感情のままに不満を述べた。


「こら、妻よ、滅多な事を言うものではない」

「だって、酷いじゃないの。太子殿下と段燕将軍とは、幼い頃に同じ幕屋で育った仲でしょう?」


 随風は何でもなさそうに、キョロリと四男夫人に眼を向けた。


(ん?何だって?)


 四男夫人は、武家の出だ。武術の師弟関係には詳しい。


(明日、衛調査官に聞いてみよう)


 随風はすぐに視線を取り皿に戻す。家族の話を聞きながら、黙々と肉や野菜を口に運んだ。



 翌朝もまた、無音写本官の詰め所へと出勤する。同僚と挨拶を交わし、それぞれの個室へと引きこもる。しばらくして、衛調査官がやって来た。


「葉殿、太子殿下が女琴師を囲っていたのは二年前からでした。失踪事件はその半年後、いつも薄絹で顔を隠していたそうですが、目元が南山人に似ているという噂がありました」

「言葉は流暢でしたか?」

「寡黙で、歌も歌わなかったと聞いています」

「ボロが出ないようにしていたのかな」

「おそらくは」


 随風は軽く頷いて、話を続けた。


「記録には、琴師失踪後に太子殿下の性格が変わったという証言もありました」

「それは私も聞いています。以前はけして艶ごとに現を抜かすような方ではなかったとか」

「女琴師を囲ってはおられたけれど?」

「当時を知る者たちによれば、純粋に楽士として屋敷に招いたのだそうです」


 屋敷に住まうようになってからの証言もある。楽人を招いた宵の話だ。


「殿下、琴師の薄絹の下は、さぞ美しいのでしょうなあ」

「もしや、傷跡や大きな口を隠しておるのでは?」

「はは、さもあらん、さもあらん、どうなのです?殿下?」

「かような無礼は控えよ」

「殿下はご覧になられたのでしょう?」

「日々に?」

「まさか。左様な恥知らずな行いは致さぬ」


 その言葉に嘘は無さそうだった。噂好きが屋敷の下人に聞き回ったところ、どうも純粋なお抱え楽士だったようなのだ。琴師が住まうようになってから、その離れには、太子が足を踏み入れたことがないとのことだった。琴師は時々呼ばれて演奏を披露し、ひとり離れへと帰ってゆく。まさに出勤という様子だったそうだ。


「一年半前、突然、太子殿下が音楽会を開かなくなり、二ヶ月ほどして楽人たちが尋ねたところ、女琴師は出て行ったと仰せになったとのことです」

「ええ。記録で読みました」

「その後、女琴師の姿を観た者は誰もいなかった」

「太子殿下に関わりがあるので、無音でも調査したのですね?」

「陛下にとって放っておけない噂もありましたしね」

「どんな噂です?」

「ある時、下女が偶然琴師の顔を見てしまったというのです。下女は剣吟城生まれで、南山人を見たことがありました。琴師の顔立ちは、わが巌国のものではなく、南山人の特徴が一眼で観て取れるものだったそうです。噂好きの楽士が、噂仲間の下女から聞いたとか。ただ、命に関わる秘密のため、その二人はこっそり逃げてしまったそうです」


 随風は呆れてしまった。


「太子殿下の下女が外部の人間に秘密を漏らした?随分と口が軽い」

「元々、宮中の東宮(とうぐう)ではなく、市街地の別荘での出来事でしたから、下人たちも用心せずに、訪問者と噂話に花を咲かせていたようですよ」

「でも、楽士と下女の件は、記録にはありません」

「楽士と下女が実在したのかどうかも怪しいんです。それでも、万が一ってことがありますので、陛下も調査をお命じになられたのです」


 随風は首を傾げた。


「その琴師については、目元が南山国人に似ていると言う噂もあったのですよね?」

「そうです。出所不明なので、意図的に流された噂ではなさそうでした」

「その噂はいつ頃のものでしょう?」

「琴師が太子殿下に雇われるより前の話です」


 随風はギョッとした。


「そんな不穏な噂がある者を、太子殿下は、住み込みで雇い入れたのですか?」

「殿下は琴師の腕をたいそう高く買っておられたので、無闇な噂をたてるな、と屡々お諌めになられたそうです」

(段家軍の幕屋で育った割には、判断力も危機管理能力も調査能力も低すぎるな)


 随風が腹の中で評価を下す。


「優秀な楽士を保護すると言って、お抱えにしたのだそうですよ」

「それは囲ったと言われますね」

「まさしくです」

「しかし」


 随風は話を蒸し返す。


「万が一の為に調べたのなら、発端となった噂も記録されていないとおかしい」

「言われてみれば」


 無音の写本官をしていて知ったのだが、他の部署なら余計だと怒られるような情報まで、調査記録には記載されている。どんな些細なことでも、それが糸口となる可能性は捨てられないのだ。


「その二人の名前は?」

「楽士は噂好きで有名な流れ者で、文曲(ぶんきょく)と呼ぶ者もいれば、李水(りすい)と言う者もあり、また欧阳雲(おうやんうん)と呼ぶ者もあって、顔立ちに特徴がなく、交流していたと言う人達も、こぞって親しくは無いと言い出すんです」


 随風は青褪めた。


「それは」

「スパイかも知れませんし、ただの泥棒や詐欺師かも知れません。一度きり参加した複数の人たちのことを、同一人物だと誤認した可能性もあります」

「手がかりはそれまでなんですね」

「はい」


 雲を掴むような話だ。


「下女のほうも名前が一定せず、離れの下女なのか、母屋の下女なのか、あるいは東宮から使いに出された下女なのか、複数なのか一人なのか、全くわからないのです」

「そんなことが?少なくとも東宮の下女かどうかは、解るのではありませんか?」

「その頃、東宮で流行病があって人手が極端に足りなくなり、あちこちから助っ人が来ていたのです。その後失火があって、記録が皆燃えてしまいました」

「それはまた、都合よく」

「ええ」


 無音の記録には(はな)から残されず、記載された可能性がある東宮の資料は燃えてしまった。


「東宮文書だって写しがあるはずですが?」

「それが、写しも原本と同じ書庫に収蔵されておりまして」

(不用心だな。副本の意味がないじゃないか)


 写本官の血と汗の結晶を、蔵書官が台無しにしたのだ。


(困ったもんだ。その点、無音の管理体制は素晴らしい。副本は一冊だけではないし、複数ある書庫に分散収蔵されていると聞く)


 だが、失くなってしまったものはどうしようもない。


「証拠は何一つ残されておりませんが、不審な点ばかりです」


 衛調査官は、落胆の気配を放った。今日も表情は変わらない。


「それで、性格の変化と琴師の失踪には、やはり関わりがあるのでしょうか?今回の調査で何か判りましたか?」

「失踪事件後、太子殿下は粗暴で嫉妬深くなったのです。人が褒められる度に不愉快そうな顔をするようになり、時には他人を愚弄するような言葉を、大勢の前で吐き捨てていたのですよ」


 随風は、惨殺当日の様子を思い出した。とても高貴な人とは思われない、残虐で横暴な男だった。


「三人が消えたタイミングは一年半ほど前ですか」

「はい」


 女将軍物語が下火になったのもその頃だ。随風が無音に引き抜かれて、収入が格段に上がったのも同じ時期である。金銭的余裕が出来たので、突然人気を攫った太子悲恋物語と対抗するべく、影絵芝居の一座に投資を始めたのだ。


(陛下は元々、僕を琴師失踪事件の記録複写担当にするつもりだったんだろうか?全ての時期が合い過ぎてる)


 随風が無音に来てから担当した文書には、南方戦線絡みのものが多かった。皇帝は段燕将軍が大のお気に入りである。機密に類する近況を婚約者にも伝えてやろう、との配慮があってもおかしくはない。また、無音に入れて保護してくれたとも考えられる。太子が段燕を狙い始めたのは、恐らくその頃からなのだろう。武功低弱なヒョロモヤシ婚約者は、段燕唯一の弱点であった。随風が知らなかっただけで、太子一派から命を狙われていたのかもしれない。


「南山国が和平と見せかけて油断を誘い、奇襲を仕掛けて来たのは、そこから更に半年後」

「裏切りが起きた峡谷戦はその一年後ですね」

「スパイが半年かけて太子籠絡に成功し、更に半年かけて罠を仕掛けたなら、奇襲の時に裏切りが起きなかったのが腑に落ちない」


 衛調査官が疑問点を提示した。随風も同意する。


「剣吟城奇襲失敗の一年後、峡谷戦で突然、内通者が明るみに出たのが不思議ですよね」


 随風は始終、茶飲み話でもするような調子である。


「段家軍の記録は閲覧出来ないんですかね?」

「東宮監視班からの連絡待ちですね。私は監視班が捏造証拠を奪取した後からの参加ですから、太子一派が都の鎮南将軍府から何を押収し、幕屋や剣吟城に何が残っているのか、全く知らないのです。鷹伝書便は射落とされる危険がありますから、知らせは早馬で来ることでしょう。七日日の道のりを五日で走る優秀な者どもです。それに、監視班は強者揃いです。謀叛人陣営からの刺客ぐらい難なく返り討ちにするでしょうから、心配ご無用ですよ」


 随風は、昨夜まとめた南方戦線謀叛事件のあらましを取り出した。太子の項目には、四男夫人の証言も付け加えられている。


「太子が幼少期に段家軍の幕屋で育った?」

「ええ。私も昨夜初めて知りました」


 段燕将軍にとっては、何人も軍営にいた子供たちの一人に過ぎなかったのだろう。短信でも夢のような昼食でも、話題には上らなかった。


「幕屋で生まれた子供や、親戚から預けられた子供がいると言う話は、段燕将軍から聞きましたが」


 随風は言いながら、内心少し溜飲が下がっていた。


(燕燕は、太子なんかに興味がなかったんだな)



 衛調査官の感じたことは、全く違うようだ。段燕とは面識がないので、当たり前だが。


「不思議ですね。太子殿下の幕屋時代は、全く知りませんでした。三位調査官では閲覧権限がない事項みたいです」

「それこそ焼けてしまった東宮文書と、段家軍の記録にしか載っていないことかも知れません」


 そこまで言ってから、随風は一瞬動きを止めた。何か思い当たる節があるようだ。


「何か気がついたことがおありでしょうか?」

「はい。少し気になることがございます。本日はこれにて失礼致します」

「え?はい、では、また何か解りましたら参りますね」

「はい、お願い致します」



 民家に擬装した詰所を出ると、愁を知らぬ少年のようにぶらぶらと市場を通って帰った。特に何かを買うでもなく、たまに屋台の品物に目を落としながら、姿勢正しく悠然と歩いて行った。


「婿殿、おかえりなさいませ」


 書斎に入ると、掃除をしていた下人が恭しく頭を下げた。実直な中年男性といったところだろうか。


「うん、ただいま。冬川、戸を閉めて」

「はい」


 冬川は無音の人間ではない為、主が仕事の間は留守番をしている。道中の安全は、無音の者が密かに見守っているのだ。戸が閉められると、下人は手を止めてその場で待機した。


黄暁(こうぎょう)殿、お顔をお上げ下さい」


 彼は下人に扮した護衛であった。剣吟城鎮南将軍府の客人専門である。一年前の奇襲事件で、都まで送ってくれた護衛達の一人だ。黄暁以外は、皆剣吟城に帰った。だが、段燕は婿殿の為に、ひとり残してくれたのである。


「黄殿は、幕屋にいらしたことはございますか?」


 随風は茶を勧めながら訊いた。


「勿体無い。婿殿にお茶を入れていただくなど」

「いいから、いいから。それで、ずっと剣吟城に?」


 黄護衛は、仕方なく茶を受け取った。


「お屋敷付きとして育てられましたが、四半期に一度、幕屋での訓練に参加致しておりました。やはり段家軍の一員には違いませんので」


 随風は丸い(まなこ)を煌めかせた。


「幾つで軍に入ったんです?」

「この世にオギャアと生まれた時からでございますよ」

「代々の従軍なのですね?」

「はい」


 筋金入りの家臣である。


「幕屋で太子殿下を見かけたことは?」

「ありますよ。太子は老将軍のお弟子でしたからね。護衛団も一緒に滞在していて、共同訓練なども行われました」

「なるほど?殿下の護衛も段家軍の武術や戦法を学んだのですか?」

「そうです。それどころか、親しくなった数人が、陛下の許可を得て段家に残ることになりました」


 黄護衛は、少し含みのある言い方をした。


「そんな昔から」


 随風も言外に同じ含みを滲ませる。


「はい。ですが、当時太子殿下はまだ子供でした。陛下も太子の護衛が幕屋に残ることを歓迎していたようなのです。段老将軍は陛下の師でもあり、また、先帝が無名の冷遇皇子だった時代から交流がありました。痩せてパッとしない九皇子は、名をあげようと戦火の消えない南方戦線にやって来て、段家軍の釜の飯を召し上がることになったのです。終には戦鬼と呼ばれた九皇子、後の先帝と段老将軍は、盟友であるに留まらず、血盃を交わした兄弟分でさえあったことは有名な話です」


 随風は不快を露わにした。段燕のこととなれば、呑気者にも激情が芽生える。いつも泰然自若とした随風が、唯一気持ちを上下させる話題だ。それは、身内なら誰でも知っている。黄護衛も、既に慣れていた。


(先帝陛下は、謀叛人太子と燕燕を縁づかせるつもりだったんだ)


 太子が幕屋に預けられて数年後、先帝が崩御なさり、現帝が即位した。しばらくして、老将軍が脚に深い傷を負った。太子の指南役には、段燕の父が就いた。更に数年経ち、成年の儀に備えて都に帰った太子は、武門の名流、国公岳鶴鳴(がくかくめい)の長孫女を見初めた。国公とは正規軍を束ねる役職である。武将としては段家のライバルでもある。岳鶴鳴は段起より身分が少し上だ。。建国功臣の家柄であり、運も良かった。段起が南部辺境で苦戦している間に、国公にまで登り詰めたのだ。


「奇妙なことに、太子妃が輿入れをして久しい現在に至るまで、太子護衛団の精鋭数名が段家軍幕屋に残されていました」

「陛下としては、次代皇帝の補佐のため、太子を仲立ちに二大軍族を仲良くさせたかったのでは?」


 黄護衛は腑に落ちた。


「それはあり得ますね。幼少期、若将軍と殿下は特に親しくもならず、礼儀正しい交流をしていただけなので、互いに恨みもないはずですし」


 若将軍とは、燕のことである。黄護衛の世代では、祖父を老将軍、父を将軍、燕本人を若将軍と呼びならわしていたのだ。


「燕燕からは、西北辺境駐在の岳栄峯(えいほう)について、チラリと聞いたことがあります」


 栄峯は太子妃の父である。国公と共に西北国境を手堅く守っている。国公は長男を後継ぎに育てた。栄峯は、そのまた長男を同じように手元に置いて育成し、次男は御林軍に送り込んだ。次男岳(えん)は、現在御林軍統領である。


「殿下が燕燕を敵視し始めたのは、いつ頃からなのでしょう?」

「一年半ほど前からですよ。その前は特に。なにしろ得意分野が違いますし、太子の座は盤石でしたから」


 太子も武芸はそこそこなのだが、むしろ芸術方面に秀でた才覚を見せていた。兵法書より詩文をより深く理解して、将来は仁政を行うことを期待されていたのだ。


「不思議ですよねぇ。燕燕を潰す必要はないですよねえ。太子も太子妃とその実家も」


 随風が首を捻る。


「確かに燕燕は神燕(かみつばめ)の現し身として人気でしたが,太子殿下も文人太子と呼ばれて、燕燕と人気を二分して来たのですし。だからこそ、太子悲恋物語が登場するや否や、女将軍物語に取って代わる勢いを見せたのですから。それに、神燕は建国皇帝の導き手であって、女帝でもなければ皇后でもないですからね。いわばお助け脇役です」

「輿入れ後、太子夫妻が幕屋の視察に訪れたことがありましたが、穏やかに済みましたよ。ご夫妻は剣吟城では城主館に滞在されたので、詳しいことは存じませんが」


 それを聞いた随風は、ふと思いついたことを口に出した。


「妃殿下と燕燕にも、確執はなかったんですよね?」

「はい。老将軍世代はライバルでしたが、孫世代は単なる疎遠な同僚一族同士に過ぎません。若将軍も、明確に太子妃候補とされたことはないですし。妃殿下も、あらゆる可能性を潰しておくような毒婦ではありません」


 随風は、その件を衛調査官に確認しようと心に留めておいた。太子妃についてはノーマークだったのだ。後宮で権勢を誇る女性は、裏表があるのが普通である。


「やはり、性格が変わったという、琴師失踪の時期に何かあったのでしょうね」

「段家軍に残った者の名簿は手に入りませんか?口述ではなく、正規文書があると良いのですが」

「あるにはあるのですが、原本は確認できておりません。名簿は代々、将軍が作成と保存を手づからなさっておりました」

「写しはすぐに閲覧できますか?」

「はい。奇襲事件の避難時に持ち出しまして、その後、若将軍からの指示を受けて、末将が保管しております。今ご覧になりますか?」

「頼みます」


 黄護衛は、名簿の他に鍵を持って来た。


「剣吟城に滞在した段家軍人の記録を保管した、倉庫の鍵です」


 倉庫は都にあるという。段燕が、奇襲事件の直後に資料を都に隠したのだ。


「流石は燕燕」


 愛情と悲しみを湛えた髄風の双眸からは、静かに涙が流れ落ちた。


 裏切り者の名簿が手に入れば、元太子護衛と重なるかどうか解る。今はまだ疑惑段階だ。太子が漁父の利を得ただけならば、内通者は巧妙に入り込んだスパイ、または、子飼いでありながらも恥を知らない裏切り者ということになる。剣吟城鎮南将軍府と幕屋跡地に、峡谷戦の詳細記録が残されていることを祈るのみだ。



 翌日、衛調査官が慌ただしく無音写本官詰所に入って来た。動作に落ち着きが見られないだけで、表情は相変わらず凪いでいる。


「辺境から、南山国皇族の似顔絵が届きました。東宮監視班とは別のチームからです」


 その中に、成人後すぐ病没したという公主(ひめ)がいた。南山国三帝女翠雲(すいうん)公主である。帝女は生まれを表すだけの言葉で、公主は役職名である。その役職に対して封地俸禄がある。


 翠雲公主は、目元が件の女琴師と瓜二つだというのだ。体格や容貌、仕草の癖など、細かい報告も大部分が一致した。南山国の皇族でありながら、宿敵巌国の七弦琴という楽器が得意だった。琴柱の無い小型の琴である。


 琴師を知る人々に公主の絵姿を見せると、こぞって件の女琴師だと証言した。女琴師は大衆から琴姫と呼ばれていて、名を知る人はひとりもいなかった。元来、素性の知れぬ怪しい人物だったのである。


 だが、次の情報はもっと重要だった。


「失踪事件からしばらくして、剣吟城に三人組の芸人が現れたそうです」

「女琴師がいたのですか?」

「いえ、薄絹で顔を隠した女性は小型の太鼓を担当し、特徴の無い女性が横笛を奏で、平凡な容姿の男性が老若男女を踊り分ける人気一座でした」


 彼等の特徴は、琴師、楽人、下女にそれぞれ少しずつ当てはまる。しかし、これだけでは無関係と考えるほうが普通だ。


「剣吟城で似顔絵を見せたところ、翠雲公主を太鼓の女性だと断言する人が多く、都では、踊り手を噂好きな楽人と同一人物だと言う人が現れ、東宮の古参公公(こんごん)たちは、笛の女性を例の下女だと断定しました。所属は別荘で、東宮との連絡係をしていたそうです」


 公公とは、太監たちに対する呼称だ。思わぬところから突破口が開いた。


「陛下がお目覚めにならない今、なぜこの三人が無音の調査対象外だったのかは確かめようがありません。ただ、三人が峡谷戦の少し前に城門を出たという記録があるのです。彼等は、もう巌国には用がなくなったのではないでしょうか」

「ちょっと待ってください」


 随風は記憶を探る。


「翠雲公主といえば、巫蠱(ふこ)術に天賦がある侍女がいたはずですよ」


 巫蠱術とは、特殊な毒虫を使って行う呪術のことだ。


「翠雲公主の成人よりも前に、剣吟城で侍女だけが捕縛されたという古い記録がありました」


無音の設立は、現皇帝がただの皇子だった時代に遡る。時折、古い記録の写本依頼も随風に回ってくるのだ。


「捕縛された、というだけで、後は何もない、奇妙な報告書でした」

「葉殿、それはまさか、その女が呪術を使って担当者を操り、逃げ仰たということなのでしょうか?」


 髄風も同じ懸念を抱いていた。


「虫で操って、記録の内容もその女が決めた可能性がありますね」

「記録が信用出来ないとなると、奇襲事件の時も裏切り者はいた、という線もありますかね?」

「あると思います。虫遣いが記録者を操れば」

「いくらでも隠蔽できますね」


峡谷戦とは別の内通者で、既に軍法処置を施されたとも考えられる。都の倉庫に何か遺されていると良いのだが。


「謀叛太子の性格激変も、その女の仕業かも知れません」

「実は、東宮に高熱が出る悪質な風邪が流行したとき、不審なことがあったと解りました。その下女が数名の荷物持ちを従えて、太子から東宮職員への下賜品を配ったんです。荷物持ちは、皆咳をしていたということでした」


 病を持ち込んだのは、その荷物持ちたちのようだ。流行病も計画のうちだったのだ。するとやはり、火事は人災である。


「葉殿、幕屋跡地はすっかりただの荒地で、剣吟城の将軍府は既に封鎖されておりました」

「遅かったですか」

「はい。封鎖された将軍府に潜入した者によりますと、剣吟城の屋敷は家具も食器も持ち去られ、春陽の屋敷には火をかけられて焼き尽くされていたとのことです」

「謀叛の汚名の元に、証拠隠滅を図ったんでしょうね」

「おそらくは」



 髄風は、一旦衛調査官と別れ、鍵を貰った倉庫を開けた。翌日、段家軍の記録を衛調査官に見せた。残念ながら、軍法処置に関わる記録は、この倉庫に保存されていなかった。幕屋にいた兵士の剣吟城滞在記録については、随風が作成した抜粋である。膨大な量になるからだ。


「おや?峡谷事件の直前にも、太子護衛は剣吟城に滞在していますね」

「大道芸人三人組との接触もあったようです。行動記録に残っていました」


 段燕は、彼等の動きを掴んではいたのだ。


「峡谷戦では、彼等全員が幕屋の留守番組になっています」


 疑わしい者は、戦場に連れて行かなかったのだ。しかし彼等は見張に付けておいた兵士を始末し、弓を取って幕屋を出たに違いない。場所は峡谷だ。こっそりと草木に身を潜めて、凶行に及んだのだろう。


「当日見咎められた裏切り者の名簿は、まだ見つからないのでしたね?」

「捏造勅書で惨殺が起きたあの場にも、それらしき書類がありませんでした」

「生き延びている者がいれば良いのですが」


 投げ捨て穴から引き上げた遺骸については、随風の胸の内にしまっておいた。何か見つけたならともかく、誰の衣服にも、名簿や記録は隠されていなかったのだ。亡骸は、勅書が偽造だと公式に認定されない限り、葬ってはいけない人々である。埋葬の事実を聞いて知らぬふりをしたことが明るみに出たら、衛調査官もただでは済まない。


「今日のところは、ここまでですね。そろそろ早馬隊が着く頃です。二、三日もすれば、新しい展開も見込めますよ」

「だといいのですが」


 随風は頷くと、ひとつ質問をした。


「陛下のご様態は」

「無音の医療班が、さまざまな役職に紛れて努力はしているのですが」


 寝殿は太子陣営で固められており、こちらは思うように動けない。稀に病状を盗み見ることが出来る程度のようだ。


「勢力図はどうなってます?」


 随風は、いつのまにか少し砕けた言葉遣いになっていた。


「御林軍と太子妃だけは確実に叛逆陣営ですが、その他は様子見というのが実情です。寝殿を御林軍が固めているので、手を出せないというだけで」

「御史台の動きは?」

「御林軍は本来、陛下直属ですから御史台の管轄外ですが、偽聖旨の行方は探っているようです」

「御史台では、あれが偽物という判断なのですか?」

「そのようです。戦勝報告が二種類ありますし、白鉢巻で正義を求めた件もありましたから。国公が立場を明かさないので、兵部との連携には踏み切れないみたいです」


 随風は満足そうに頷いた。


「御史台に証拠を提出したいのですが」

「それは少し待ちましょう。陛下がお目覚めになる望みがまだあります。我々の立場なら、直接陛下に提出するほうが良いでしょう」


 それもそうかと得心して、随風は思いとどまった。


「ところで、太子妃殿下は、後宮でどのように過ごされておられますか?誰かとの確執や秘密はあるのでしょうか?」

「妃殿下は、太子殿下に近づく女性を警戒していた節はあります」


 後宮を上手く泳いではいたが、段燕については、眼中になかったようだ。むしろ、女琴師のほうには目をつけていたらしい。琴師を囲い始めた頃から、この女の素性を調べさせていた。下女が顔を見たという噂の後は、しばらく目撃証言を集めたきりだ。都から出たと判断したらしい。突然の謀叛騒動には沈黙を貫いている。元が相愛の夫婦なので、愛恨が渾然一体となり、何をするか分からない。


「琴師は妃殿下の追及を止めるために、失踪したのかも知れませんね」

「おおいにあり得ます」



 随風が帰宅すると、黄護衛が無言で地下室に案内した。そこには、瀕死の男が横たわっていた。


「冬川!瓦舎(がしゃ)東哲(とうてつ)先生を呼んで来て!」

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