二、随燕
「これは?」
「葉殿、中をご確認下さい」
頭を下げて箱を捧げ持ったまま、使者が告げた。
「うん?」
赤い式服の袂を初冬の涼風にはためかせ、随風は箱を受け取った。
「矢?」
皇室から支給される、正規軍の矢である。南方戦線でも使われていた。南の辺境を守る段家軍は、段家が養う軍事組織である。だが私兵扱いはされない保証があった。皇帝から準国軍のお墨付きをいただいていたからだ。それ故に、戦時は正規軍の武器が支給される。矢の上には、赤黒くこびりついた犠牲者の血が見えた。
「布?」
矢の傍には、白い布が入っている。広げると、ふたつの血文字が現れた。引きちぎった下着の袖に書いたものらしい。
「内奸」
ひと月前、随風が担当した記録文書に、剣吟城で南山国のスパイが捕まったという項目があった。そのスパイは、段将軍旗下で使用されている武器の状況を探るのが任務だった。敵軍に接触する前に捕縛されたので、報告書の写しを作成した随風はほっとしたのだった。
(実は情報収集ではなく、実物を盗んで南山国に持ち込み、巌国側の内奸に見せかけたのかもしれない)
矢は敵から放たれたもので間違いないだろう。だが、なぜ血書を自分に?誰が?随風が呆然としていると、老将軍段起が血相を変えて走ってきた。昔戦場で痛めた脚を引き摺りながら、髪を振り乱して向かってくる。
「随風くん!はやく!城門へ!」
途切れ途切れの言葉を叫び、段老将軍が随風を引っ張った。随風は、慌てて箱の蓋を閉め、冬川に押し付ける。心得たとばかりに、冬川は箱を安全な場所へと運ぶ。
「大変だ!やられたらしい」
「聞いたか?倒れたそうだ」
「それでも勝ったんだ!」
「神燕将軍!万歳!」
城門に近づくにつれ、人の渦が激しくなってゆく。群衆は口々に不吉な言葉を放っている。随風の血の気が退いた。呼吸が苦しい。走っているからだけではない。
(いやまさか、そんなはずは)
城門前の広場には、白鉢巻の兵士たちが直立不動で立っていた。二本の幟が冷んやりとした午後の空気を吸いこむ。その間には、真っ黒に塗られた細長い棺桶がひとつ、置かれていた。棺桶の傍には、鎧と面具が置かれている。
(戦士の数が少なすぎる)
現実から目を逸らすように、随風は棺桶以外の場所を観察した。
(大勝したのではなかったのか?)
最近の戦況から考えると、ダメ押しの一戦で完勝したと考えるのが妥当なのだ。
「天地よ!山河よ!証人となって欲しい!」
若い兵士がドラを鳴らして大声をあげた。喉も裂けよとがなりたてていた。棺桶に張り付いていた数名が、黒い蓋を持ち上げる。中の遺体を立たせると、腕を支えて群衆に背中を見せた。はっきりと矢傷が付いている。
「背中?」
「味方に撃たれたってことさ」
「乱戦なら不幸な事故なんじゃないの?」
「決戦は峡谷だったそうだ」
「じゃやっぱり」
若い兵士は口上を述べる。将軍は背中に矢を受けながらも果敢に闘い、衝撃を受けた部下を鼓舞し、混乱の内に辛くも勝利を納めた。現地で埋葬された仲間達の多くも、背中に矢を受けていた。味方に向けて矢を放とうとする者は、発覚すると悪びれもせずに歯向かってきた。内奸は一握りだったが、彼等の行動が迅速で対応が遅れた。長年段家軍で訓練された、精鋭の動きだった。
「逃亡した内通者に極刑を!」
若い兵士が声を張り上げる。
「内通者に極刑を!」
群衆は拳を天に突き上げる。城門で告発を行うことにより、冤罪を避けるのだ。軍全体が敵国と結託していたなどと言い掛かりを付けられては敵わない。
(こんなに騒ぐのなら、なんで僕に証拠品と血書を届けたんだろう?)
背中の矢傷を見せ終わった遺体が、棺に戻される。遺体の顔を、随風は知っていた。だが、目が上滑りして認識できない。
「葉殿」
使者が囁き、握った拳をチラリと開く。掌にすっぽりと収まるサイズの円い金属片が見える。黒一色に塗られている。隷書体で音の字が浮き彫りにされていた。無音の令佩だ。仕掛けを動かすと見えない継ぎ目が割れて、階級と氏名が現れる仕組みだ。使者は、随風より少し位が高いようである。令佩とは、簡単に言えば身分証だ。随風も現在は無音所属なので、この令佩を持っている。
(この事件の記録も、複写は僕が担当することに決まったのか?)
随風は力なく老将軍に目を向けた。老人は怒り狂っていた。
「遺された者どもよ!草の根分けても裏切り者を探し出せ!」
(裏切り者は、本当に段家軍子飼いの精鋭だったのか?増援が来るまではそんなこと一度もなかったじゃないか。チャンスなら今までにもあったはず)
ふと見ると、使者の姿が消えていた。
(証拠品は提出しないほうがいい)
随風は、全てがはっきりするまでは安易な答えに飛びつかない、と心に決めた。
(陛下も動いてるってことだからな)
わざわざ証拠品を横取りして、無音管轄に、しかも非公式なルートで移管したのだ。皇帝が噛んでいることは、予想に難くない。
そこへ援軍の大将がやって来た。当朝太子、谢天開である。女将軍物語のライバル、太子悲恋物語の主人公でもある。舞台は架空古代だが、モデルは謝天開だと言われている。実際の太子は以前、都の女琴師を囲っていた。彼女は南山人だと噂されていた。いつの間にか姿を見なくなったという。それを悲恋に仕立てたところ、大ヒットを記録したのだ。
太子は、背後に宮中を守る御林軍を引き連れている。御林軍の管轄は宮中のみだ。皇族関連であっても、市街地に出れば管轄は衛部である。軍事絡みならば兵部の管轄だ。いずれにせよ、市街地での揉め事に御林軍が出張るのは異常だ。だが、ただひとつ、例外があった。
「何事であるか」
太子は厳しい口調で問いただした。
「太子殿下!戦勝の功労者、鎮南将軍段燕に正義を!」
「戯言を!」
御林軍兵士が凱旋軍を取り囲む。太子は黄色い巻物を広げた。
「聖旨到!段家軍、接旨!」
白鉢巻の一団は戸惑いながら跪く。退役者ではあるが、老将軍が先頭に出た。聖旨、即ち詔勅が読まれるので、群衆も平伏する。要約すると次のような御触れだった。
「罪将段燕は私利私欲で軍需産業の利潤を求め、勝てる戦を引き延ばしたばかりではなく、敵と通じ国に叛いた」
随風は拳を固く握りしめた。赤い式服が群衆の中で華やかに煌めいている。冷たい風に、祝いの真っ赤な髪帯が流れている。俯き引き結んだ唇には血が滲む。
(御林軍統領は太子妃の兄だ。どうりで陛下は証拠をこっそり隠したはずだな)
「満家滅門、誅十族!」
(この聖旨は偽物か?それとも陛下に何かあって、太子が代理に就いたのか?)
現帝、謝頊は類い稀なる賢帝で、こんな出鱈目な詔勅を発布する筈がない。凱旋式典と祝賀宴が既に告知されている。長引いた闘いに決着がついたので、国民への無料食品配布や娯楽の一斉割引などが宣布されていた。だから、突然、段燕を戦勝の立役者から謀叛人に転落させるなどあり得ないのだ。
「そこの花婿!」
太子が冷酷な声を出す。御林軍兵士が剣の腹で顎を押し、随風の顔を上げさせる。
「貴様、葉随風だな?」
「はっ、左様でございます」
「ふん。入婿など情けない。聞けば写本官をクビになり、代書屋をしているそうだな?それも仕事が入らず、実家の穀潰しなのだとか?あの切れ者、刑部尚書葉淵の子とは思えぬ愚昧な奴め」
表向きはその通りである。
「はい」
「虫唾が走る。この場で斬り捨ててやりたいが、そうもいかぬ。ふん。命拾いしたな。貴様は段家軍とは父皇により結びつけられただけの腰抜けにすぎぬ。まだ正式な婚姻儀式も行われず、十族の外だからな」
嫌味ったらしく聖旨を振り回して、太子が随風を侮辱した。これは、段燕への愚弄でもある。罪将段燕は、無能な婿養子を迎えようとしていた、と言いふらしているのだ。随風は無言で平伏しながら、頭は忙しく動かしていた。
(聖旨の実物、そうだ、燕燕との賜婚の聖旨!なんとか無事に帰宅して、見比べなくては!)
「全く、面白くもない」
太子は吐き捨てると、聖旨の巻物を老将軍に投げつけた。
「即刻切り捨てよ」
(えっ!)
「冤罪です!どうか調査を!公明正大なお裁きを!」
老将軍が懇願する。太子は無慈悲に蹴飛ばした。
「黙れ老いぼれが!」
午後も遅いがまだ明るい。城門広場にはほとんど町中の人たちが集まっていた。その場で、白鉢巻の凱旋軍が無惨に剣の錆と成り果てた。群衆は声も出せずに震えている。
「謀叛人は抵抗した!許されざる罪である!遺体は獣に喰わせてしまえ」
重罪人は遺骸さえも酷い扱いを受ける。輪廻転生を叶えて解脱へと至る為には、葬送の儀式が不可欠だ。それを許されず、野生動物がうろつく郊外に捨てられるのである。随風は、大きな目が乾いてしまうまでカッと見開いて、凄惨な作業を見つめ続けた。無造作に積み上げられた遺体が、粗末な手押し車で運び去られた。群衆もいつの間にやらいなくなっていた。もう日が暮れる。天も地もどぎつい血色に染まっていた。
「うう」
随風は、壊された棺桶に這い寄る。中身は御林軍に運び去られた。鎧と面具が血溜まりに落ちている。
「ううう」
随風は聖旨を拾って、素早く懐に入れた。側に転がっていた面具もサッと拾う。鎧は重くて持てなかった。
「うううう」
地を這う随風の目が、粗末な木箱を捉えた。壊れた棺桶の木材に紛れている。副葬品だろうか。随風は、震える手で箱をかき抱くと、よろよろと立ち上がった。そして、つまづきながら、不恰好に駆け去った。
(偽物だ)
帰宅後、婚姻の聖旨と誅殺の聖旨を見比べたところ、玉璽の朱肉が違っていた。見た目には同じだが、匂いが異なる。本物には、歴代皇帝だけに伝わる秘法が施されていて、真似のできない香りがあるのだ。
(だとすると、白昼堂々、虐殺を行ったのは腑に落ちない)
派手なことをすれば、瞬く間に捕えられてしまうだろう。本物の御林軍を従えていたとはいえ、目撃者が多すぎる。皇帝もすぐに知るだろう。そうなれば、そんな命令は下していない、と皇帝が宣言するはず。
(やはり陛下に何かあったのか)
随風は、父に相談するかどうか迷った。
(刑部の管轄ではないけれど、何か情報を握っているかもしれない)
随風は、偽物の聖旨をクルクルと丸めた。
(いや、駄目だ。こんな危険なことに父上を巻き込むわけにはいかない)
寝床の飾り彫りを押し込むと、床の一部が音もなく開く。随風は足速に階段を下り、隠し倉庫に証拠品をしまった。無音に配属されてから、少しでも危険な物はここに隠している。随風は記録の写しを作成するだけの下っ端だが、機密文書の内容に直接触れる人間だ。いつ消されても不思議ではない。何があっても失いたくない品物もある。たとえ命を失おうとも、汚されたくない物がある。燕からの手紙や贈り物の一部も、勿論ここに置いてあった。
(そういえば、これはなんだろう)
随風は、惨殺現場から拾って来た小さな箱を開けた。
(あっ)
ふたつの丸い目から涙が溢れ出た。随風は慌てて箱の蓋を閉める。涙で汚れてしまわないようにしたのだ。
(僕からの手紙だ。こんなにたくさん。全部とってあるんだ)
随風は粗末な木箱を抱きしめて、声も出さずに泣いた。肩も背中も震えている。呻き声すら漏れず、涙はとめどなく流れ出た。慶びの赤い婚礼衣裳に、点々と濃い色のシミが広がっていった。
地上の部屋で、冬川の声がした。
「五の若様、お食事ですよ!」
冬川は隠し部屋も本当の仕事も知っている。随風は証拠の偽造聖旨、血で汚れた面具、そして木箱を丁寧に棚の上に載せ、急いで部屋に戻った。涙で汚れた顔を見て、冬川は悲痛な表情を見せた。
「冬川、着替えを出して」
「はい」
数分後、随風は何食わぬ顔で食卓についていた。証拠品を私蔵していることなど、誰も気付かないだろう。家族は様子を伺っている。惨殺事件はとっくに知れ渡っていた。まして葉家の家長葉淵は、刑部尚書である。町中の騒ぎを知らないはずもない。夕食では、誰も口を開かなかった。
「ご馳走様でした」
皆が心配するなか、随風は穏やかな笑顔で席を立つ。幼い子供達が子守に連れられて自室に向かう。後には父と兄弟たちとその嫁が残った。
「大丈夫でしょうか?」
次男段玉が声を潜めて父に聞いた。
「謀叛は冤罪に違いない。無茶をしないと良いのだが」
「父上、随風はモヤシですから、仇討ちの為、太子殿下に切り掛かるような真似はしないでしょう」
長男辰が慰めるように言った。
「武力を持たぬからと言って、復讐に出かけぬとは言いきれまい」
「確かにそうですが、父上。五弟は呑気者ですから、衝動的な行動は致しますまい」
「三男よ、あやつはあれで、底知れぬところがあるのだよ」
「考えすぎですよ」
「次男よ、お前の方がよほど世間知らずだ。あやつの仕事を知っておるか?」
「代書屋ですよね?」
父は頷いた。
「そうだ。しかし、あれほど優秀だったあやつが、突然皇宮の仕事を首になったのは、おかしいとは思わぬか?」
「事情はわかりませんが。父上はお仕事柄、なんでも疑いの目でご覧になるから」
「一見、悲しみのあまり却って普段通りに振る舞っているように見える。だがな。長年の経験から言うと、あれは覚悟を決めた者の落ち着きだ」
父は大勢の犯罪者たちを見て来た。悪人だけではなく、事情のある者たちも多かった。復讐者の一部には、凶行の最中にすら落ち着き払っている者がいる。彼らの心は、既にこの世を離れているのだ。そうした復讐者たちは、本懐を遂げると自ら命を経ってしまう。多くは被害者の位牌や墓の前、または想い出の場所で。
「父上、怖いこと仰らないで下さいましな」
長男の嫁が身を震わせた。
「皆、どうかよく見ていてやってくれ」
兄弟たちは無言で頷いた。
翌朝、随風は通常通り出勤した。表向きは、朝の散歩である。
「葉殿」
無音の写本官詰所に入ると、昨日の使者が随風に声をかけた。詰所は民家に擬装してある。ふたりは急いで小部屋に入った。
「大変です。陛下がお倒れになりました」
随風は穏やかに目を伏せた。
「ご存知でしたか」
「いえ、でも、予想はしておりました」
「それもそうですね。あんな杜撰な偽造事件がまかり通るのですから」
使者は硬い表情で言った。
「使者どの」
「衛寒雨と申します。三位の調査官です」
無音の調査官は、五位に別れている。一位が一番上だ。二位が補佐官、三位から現場の実働隊になる。一般写本官は、普段会うことがない相手だ。依頼は伝達官が運ぶ。
「なぜ私にそんな話を?」
「葉殿は関係者ですから」
「しかし、だからと言って、一介の写本官に証拠品が届くのは普通ではありません」
「その件ですが」
衛調査官が言葉を切って聞き耳を立てる。怪しい気配はないようだ。
「あれは、援軍の伝令が持っていた物なのです」
随風は表情を変えずに頷いた。
「やはり葉殿に託してよかった。お見通しというわけですね」
「まあ、予想はしておりました」
本来ならば、大敗した段家軍に内通者がいた、という筋書きだったのだ。段燕は死者であろうと管理責任を問われ、手柄は、惨敗現場に駆けつけて逆転勝利に導いた、援軍だけのものとなる。しかし、悪人太子の予想に反して、神燕将軍と渾名される名将段燕は、背中に矢を突き立てられたまま、辛くも勝利してしまった。援軍到着前に決着はついていた。敵将を討ち取り、南山国帝王へ降伏勧告を送ったところだった。やって来た援軍は、しぶとく抵抗する敵兵を少し片付けただけだ。
燕はその場で手当てされ、幕屋に戻され意識を失った。その隙に太子が戦勝報告を偽造して、援軍の活躍が強調された。幸い段家軍の早馬が既に届けていた真実により、援軍は駄目押しの力を貸したのだと知れていた。
太子にとって、父皇帝の信任厚い段燕は目障りな存在だった。忠実な部下たちが遺っていては、いずれ自分が登基した時、皇権をも脅かすのではないかと懸念した。今回の勝利は、どうしても太子率いる援軍の手柄でなければならぬ。そこで、管理責任などという生温い罪ではなく、段燕を主犯として大悪人に仕立て上げたのである。そうすれば、段燕旗下の生存者たちも根絶やしに出来る。
「担当した記録、町の噂、公開されている刑部担当の事件、今回のいきさつ、総合して考えれば、あらかたの筋書きは見えて参ります。でも」
「証拠がない」
「はい。あちらの偽造証拠品は幸い奪えましたが、こちらに決め手となる証拠が」
「あるでしょう?」
衛調査官は促すように言った。随風は控えめに応答する。
「昨日の?」
「偽造でしょう?聖旨」
「ええ、まあ」
随風は歯切れが悪い。
「御史台に通報しては?葉殿なら、偽造だと証明できるのではありませんか?」
御史台は巌国内務監察の役所てある。聖旨に関わる不備や不正の摘発も行っていた。
「ですが、放置して行ったのです。提出先が無いとたかを括っているのでしょうが、実際、権限を握られてからでは、証拠があっても無駄ですし」
「ああ、残念です。今朝既に、無駄な事態になってしまいました」
昨夜のうちに動きがあったようだ。通常の手続きを全てとばして、太子が皇帝代理に就任していた。その聖旨は、本物だという。
「それに、聖旨偽造も、内奸捏造も、太子の敵国内通と謀叛を裏付ける証拠にはなりませんね」
衛調査官はシュンとした。動きの乏しい表情筋だが、全身から溢れ出る落胆の気配は感じ取れた。
「可能性としては、ひとつあります」
随風がゆっくりと考えをまとめ始めた。
「何でしょう?」
興味を示す衛調査官に対して随風は、のほほんとした口調で告げる。
「衛調査官、琴姫と古代太子の悲劇はご存知ですか?」
「ああ、謝天開がモデルとかいう、あっ!」
「そうです。どこかで件の女琴師に関する記録を、探せれば良いのですが」
「担当蔵書官に話を通しておきます。花月音という女性です。信頼のおける者です」
「それは助かります」
話が決まると、衛調査官は一段と声量を絞って言った。
「我々無音は陛下直属ですが、太子陣営との内通者には注意しましょう。では、私は新事実がないか、町に出てみます」
写本官は、蔵書官とは権限が違う。あくまでも副本を作成して、提出するだけだ。担当した記録ですら、提出以降目を通すことは許されない。衛調査官には、何か特別な手段があるのだろう。
衛調査官から教えられた住所は、女性教師が開いた子供向け学問所だった。教師の名は花月音。随風に与えられた訪問理由は、教師からの依頼だ。代書屋の技量で、手習い教本を複写して欲しいという内容である。勿論、建前だ。渡された原本には、件の資料が混ざっている。学問所自体が、無音蔵書館のひとつなのだった。通ってくる子供たちは、将来無音の構成員になる予定の訓練生である。
(琴師の件は、陛下もご存知だったのか)
だからこそ、援軍を見張らせていたのだろう。なのに遅れを取ってしまった。相手は御林軍を掌握しているのだ。手強い相手ではある。
(城外を含む皇族関連の事件を担当する衛部、御林軍以外の国防関連案件を扱う兵部、あとは後宮内務を執り仕切る太監勢力、そして、もちろん御史台も。この辺りの立ち位置をはっきりさせないとな)
随風が参照できるのは、目下、自分が担当した記録の記憶と、今回預かった琴師失踪事件の記録だけ。そこから推測し、衛調査官の情報と合わせて推論を進めるのが妥当な線である。
(今のところはここまでか)
手元の情報を整理し終わると、まとめた文書を自室の地下に収納した。手紙を納めた木箱が目に入る。随風には、箱を開ける勇気がなかった。中に入っているのは、自分が書いた往信である。燕からの複信は、厳重に保管してあるが、そちらも手に取ることができない。耳に心地よい燕の声音と、料理を取り分ける武人の指先が目の前に蘇った。
(燕燕)
あの日の桃花釀が、記憶の中で甘く爽やかに香る。
(燕燕)
随風は床に蹲った。束の間の幸せが身に染みる。ほんとうに僅かな時間だった。夢なのではないかと思うほどの短い逢瀬だった。
(燕燕、あんなことになるなんて)
随風は、ふと惨劇の情景を思い出す。
(そうだ、そうだよ)
随風がすっくと立ち上がる。
「燕燕!」
随風は乗馬が苦手なので、冬川に御者を任せて馬車に飛び乗った。もう丸一日が経とうとしている。
(どうか五体満足でありますように)
酷い場合だと、遺体は切り刻まれてから捨てられる。だが、昨日の太子にそんな暇はなかったようだ。陛下に何かをして、正式な代理人に就任するほうが急務であった。段燕たちの遺体が刻まれていない可能性は高い。
(罪人の遺体が投げ捨てられる穴は、確かこの辺りだ)
冬川と共に鼻口を布で覆い、穴を覗き込む。さほど深くはない。穴に降りて遺体を引き上げるくらいはできそうだ。広さはかなりある。それでも、随風は一眼で燕の姿を見分けた。矢傷、刀疵、獣の噛み跡、鳥の突つき跡で無惨な姿になっている。幸い、五体満足の範囲内ではあった。
「すみません、すみません」
仕方なく踏み付ける遺体に謝りながら、一直線に婚約者の元へと走る。
「燕燕!迎えに来たよ!」
随風は、土や血で汚れるのも厭わず、冷たくなった婚約者を抱き上げる。硬直した亡骸を、冬川に助けられながら、苦労して穴から運び出した。投げ捨て場から少し離れた場所に、木々に囲まれた草地を見つけた。持参した道具でヨタヨタと墓穴を掘る。今はまだ、正式な葬儀を行うことは許されない。随風は、手頃な石を手に取ると、心を込めて文字を刻んだ。
「随燕?ですか?」
「うん。僕は燕燕の追随者だからね。それは永遠に変わらない」
随風は石を寂しそうに眺め、そっと盛土の前に設置した。
「ごめんね。こんな寂しいところにしか埋めてあげられないけど、いつか必ず、冤罪を晴らして悪人の罪を暴き、立派なお墓を建ててあげる」
そこまでは、冬川にも聞こえた。その後の言葉は、ごく小さな声で、密やかに語り掛けられた。
「全てが終わったら、黄泉路のお共に参上するよ。君のいない世界は味気ない。君だって、黄泉路もひとりじゃ寂しかろ」
随風たちは、老将軍を含む段家軍も山中に埋葬した。
「段家軍の仲間たちに頼むことにするよ。君は彼等を連れて行きたくなんかないだろうけどね。もうこっちに戻すことは出来ないから。僕には観ていることしか出来なかった。役立たずだった」
一人一人、丁寧に埋葬しながら、随風はいつにない饒舌ぶりを見せていた。言葉を途切らせたら心が折れてしまう。そう怯えているかのように、澱みなく喋り続けていた。
「老将軍、貴方を救えなかった不甲斐ない僕を赦さないでください。だけど、必ず復讐を果たします。今更遅いのは解っています。仇を討った暁には、僕もすぐにお供に上がります。その時にはうんとお叱りくださいね」
老将軍を埋め終わると、再び燕に語りかけた。殆ど口を動かさず、静かに、密やかに、優しく想いを伝えた。
「ひとまずはみんなで先に進んでいてね。必ず後から隣に行くから。君の隣は誰にも渡せないからね」
随風と冬川ふたりきりの作業だ。最後のひとりに手を合わせる頃には、狼の遠吠えが聞こえてきた。
「急ごう。危ない」
随風は燕の盛土に最後のひと目を送り、家路を急いだ。




