一、我が妻神燕将軍
南の国境から凱旋の知らせが届いた。南方戦線を指揮した段将軍の屋敷は、喜びに浮き立っていた。鎮南将軍府、と書かれた扁額に、いそいそと赤い布が飾られてゆく。ここ巌国の風習だ。一目で祝い事があると判る。府とは邸宅のことである。まるでひとつの町のように広大で、家というより、もはや行政単位である。
「随風くん、何してるんだね?家で大人しく待っていなさい」
「ひとりでいても、落ち着かなくて」
脚を痛めて引退した老将軍が、線の細い若者を諌めている。若者は穏やかな笑顔で対応していた。
将軍が帰還したら、祝賀会と同時に結婚式も行う。将軍家は長女が継ぐので、入婿である。式場の準備は、迎え入れる側のすることだ。それなのに、何故か新郎がやってきて、何食わぬ顔で手伝っていたのだ。
将軍家長女の段燕は軍営で生まれ、幕屋で育った。母白棠と兄の段月牙、段永明が戦死した日、僅か十二歳で戦場に出ていた。初戦だった。十五歳の頃、亡き父、段黒虎の後を継いだ。小柄だった父が激戦に倒れた時、敵の士気を上げさせぬ為に父を演じた。父が常日頃、金属製の面覆いで顔を防護していたのが幸いし、敵に気取られることはなかった。喉に重症を受けたが九死に一生を得たとの設定で、合図は身振り、鬨の声は副将軍が担当した。それは、皇帝公認の作戦であった。引き継いですぐに連戦連勝し、正式に鎮南将軍の肩書きをいただいた。
同時に、皇帝から良縁を賜った。当時、十六歳。勅令が届けられたのは、辺境の幕屋である。戦場に焼けた浅黒い肌、眉は凛々しく鼻筋が通っている。卵型の顔に目元涼しく、髪は鴉の濡羽色。きりりと結って高い位置で一つにまとめ、毛先が肩先で揺れていた。
「婚姻?都の屋敷に戻る時間はないけど、どうするの?我が国が優勢とはいえ、停戦はまだ先となるだろうに」
段燕は困惑した。その様子を観て、老いた袁副将軍は苦笑いを浮かべた。白髪をきちんと撫で付けた、恰幅のよい男である。彼は、祖父、父、娘と三代に渡り副官を務めてきた。
「都のお方は呑気なものだね」
「将軍、まあ、そうおっしゃらずに」
「そもそも、この葉随風というのは、どんな方?」
「刑部尚書葉淵の五男坊で、皇宮の写本官をしている」
父は町場の事件に関わる役所のトップということだ。皇宮や軍部に関する事件は管轄外である。その息子だが、官位は高くないようだった。
「写本官?それじゃきっと、堅物なんだろうね?」
写本官には、朝廷の各部署から依頼が来る。歴史や儀礼の本を書き写し、日々の業務に使う副本を作成するのだ。機密書類や皇帝の日録には専門官吏がいるが、それ以外の雑多な文献の写本を作成するのが仕事である。正確に、美しい字で書かなければならない。
「真面目に働いてる、ごく普通の下級官吏ですよ」
「そんなのが旦那様じゃあ、毎日息がつまりそうだよ」
段燕将軍は紙を広げて筆を取った。
「写本官葉随風殿」
袁副将軍が内容を覗いている。挨拶などが過ぎ、いよいよ確信部分にさしかかる。
「我が忠心は大巌国に、今生はその民に捧ぐ」
副将軍はギョッとして、思わず半歩前に出た。
「将軍!賜婚ですぞ!なりませぬ!」
「チッ、ダメか?」
段燕は不服そうに眉を寄せた。袁副将軍は、白髭で覆われた口元をへの字に曲げた。
「抗旨は十族に及ぶ重罪ですぞ」
「うん、ダメか」
燕は肩を落として筆を置いた。巌国の十族誅は、父族四母族三妻族二に門下生を加えた厳刑である。しかも、一家を構えている者は、その下人にまで及ぶ。文字通り一族郎党皆殺しだ。戦の絶えぬ世の中である。処刑を恨んだ遺族が力を蓄え兵をあげ、国を転覆することは想像に難くない。予防策が厳しくなるのも仕方のないことだった。
「春はまだ遠い」
書き直した文面の大意である。袁副将軍は嘆息した。
「遠回しに言えば良いというものではないのですぞ」
燕は少し考えてから、新しい書信をしたためた。
「吉報を待て」
袁副将軍は天を仰いだ。
「袁|爺、なに?」
副将軍は首を数回横に振る。女将軍は鼻を鳴らして、手紙を封筒に入れた。
都で封書を受け取ったのは、その年十八歳を迎えたモヤシ少年である。細面に大きな丸い目が無邪気な様子を作っている。艶やかな黒髪は、きちんとまとめて団子状に結い上げていた。机に向かい、まるで背中に棒が入っているかのように真っ直ぐ座っていた。
「婚約者殿から?」
取り次ぎの侍者に、随風は上気した顔を向けた。飛ぶ鳥を落とす勢いの女将軍は、彼にとってまるで叙事詩の主人公のような存在だったのだ。家格と年齢が釣り合い入婿可能な男子が随風しかいなかった、という理由だけで選ばれた婿である。それがまた、随風には運命のように思えた。
「吉報を待て!ああ、勝利は目前なんだ!」
神経質な同僚たちの中で、彼は能天気なので変人扱いされていた。精神が安定し余裕があるので、集中力も高い。仕事は正確だ。ミスがとても少ない。加えて品行方正である。いずれ機密書類担当になり、重要部署に移動となるのだろうと噂されるほどだった。
「婚礼のことはお任せください。どうぞ心置きなく実力をご発揮なさりませ。無事のお帰りをお待ちしております。あなたの婚約者、葉随風」
書き終えた手紙を嬉しそうに読み上げるのを、侍者が畏って聞いている。
「五の若様」
「なんだい」
「国境は激戦が続いていると伺っております」
「うん、そうだね」
「吉報を待てとは、恐れながら」
侍者は言い淀んだ。
「なんだい?」
「はい、恐れながら、今は戦で手が離せず、遠い将来の戦勝後、改めて婚礼の相談を致しましょう、という意味なのでは」
「えっ、まさか!無敵の戦神段様だよ?神燕の現身と言われるくらいなんだよ?」
神燕は、建国神話に登場する鳥である。建国の祖を約束の地に導き、戦では女将軍の姿で先陣を切ったとされている。
「きっと見通しが立ったんだよ。だからこそ、お父君の影武者という責務を解かれ、表立って鎮南将軍に封ぜられたんじゃないか」
影武者の件は、物語や芝居になって大流行していた。物語では、敵将との接戦中に面が割れて、女性だと解る筋書きが人気だ。しかし、実際には強固な金属面が割れたことはない。敵のイケメン武将が、叶わぬ恋に身を焦がす事実はなかった。随風も、絵空事として物語を楽しんでいた。どうせイケメン敵将は当て馬なのだ。物語でも、相手役は文弱書生である。物語は婚約より先にあった。筋書きは偶然である。だからこそ随風は、天も後押しする良縁なのだと喜んだ。
「しかし、南の辺境にお触れが届けられただけで、都での式典は発表されていないではありませんか」
「ふん、冬川に何が解るんだよ」
呑気に育った五男坊は、実直な従者秦冬川を鼻で嗤った。それから、そそくさと手紙に封をした。そしてまた、輝く笑顔で辺境からの封書を開き、何度も何度も読み返していた。
随風から来た返信に目を通して、燕は眉間に縦皺を寄せた。
「都のお方は呑気なことだ」
「可もなく不可もない、礼儀正しいお返事なのでは?」
袁副将軍が慌てて婿殿の擁護をした。皇帝が決めた縁組に不満を持つのは不敬である。しかも、今は戦の真っ最中だ。将軍に動揺があっては、戦場で惨事が引き起こされるかもしれない。
「うん、まあ、そうとも読めるね」
不服そうではあるが、歴戦の女勇士も一応は納得したようだった。燕は幕屋の習慣で、来信を丁寧に保存した。特に思い入れがあるわけでは無い。隠滅する必要がない文書は全て保存されるのだ。
燕は返信を書かなかった。だが、都からはひっきりなしに手紙が届けられた。
「お忙しいでしょう。お返事はお気になさらず。あなたの婚約者、葉随風」
「南の辺境で雪が降ったと伺いました。軍営に炭を寄付します。あなたの婚約者、葉随風」
「幕屋は荒野にあるそうですね。底の分厚い履物を作らせました。あなたの婚約者、葉随風」
職務を妨げないように配慮された、短信ばかりだ。初めのうちは、駐屯地の気候や激務への気遣いに終始していた。そのうち手紙だけではなく、物資も送られてくるようになった。流石の燕も、これにはお礼の手紙を返した。
そしていつしか、手紙に変化が訪れた。
「毎日お疲れでしょう。干し杏を贈ります。お好きだと伺いました。あなたの婚約者、葉随風」
その手紙を受け取った燕は、好物の干し杏を摘み上げて呟いた。
「誰に聞いたんだろう?」
次の手紙で、その謎は解けた。
「将軍府では、杏の花が咲きました。押花にしてみました。お納めください。あなたの婚約者、葉随風」
「なんだ、図々しい。杏は私の庭にしか無い筈だ。老将軍め。勝手に孫娘の離れに若い男を入れるとは!」
どうやら、退役将軍である祖父段起と仲良くなっているらしい。
「しかし袁爺」
「はい」
「奴からの手紙だが、何処か変では無いか?」
「何処がでしょう?」
「毎回、私と軍のことばかりで、自分のことは書いていない」
袁副将軍はそれを聞き、髭の中で頬を緩めた。
「なにか質問されてみては?」
燕はしばらく思案していたが、最後には頷いた。
「うん、一理あるね」
随風は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「見て!見て!冬川!お風邪など召されておられませんか、だって!お風邪など召されておられませんか!お風邪など、」
繰り返される短信の音読を聞き流し、冬川は生真面目に控えていた。
「へへへ」
随風は読み上げに飽きると、今度は屋敷中の人々に返信を見せて回った。遂には門を出ようとしたので、長兄に止められた。
「何をやっているんだお前は。みっともない」
「兄上にはお解りになりませんよ」
「何を言っているんだ」
呆れ顔の兄に引きずられて、随風は屋内へと戻された。
束の間の休戦が訪れた。和平交渉の申し入れがあったのだ。まだ、罠かもしれないという懸念もある。日程調整の期間に、家族が訪ねてくる兵士たちもいた。彼等は幕屋にではなく、後方の城塞都市、剣吟城に滞在するのであった。
随風も当然、剣吟城にある鎮南将軍府別邸を訪れていた。休戦とは言え、和平交渉の準備中である。婚約者は責任者なので、会えるのは昼食時、それもたったの一日だけだ。
「遠いところを、わざわざお運びいただきありがとうございます」
応接室で待っていた随風に、鎧姿の段燕が挨拶をした。
「とうとうお目にかかることができました。この日を待ち望んでいたんです」
興奮を必死に抑えながら、随風は燕の切れ長の目を真っ直ぐに見つめた。敬慕の情に溢れる視線を直に受けて、女将軍はたじろいだ。戦場では感じたことのない、不思議な胸の高鳴りを覚えた。
「それは、その、光栄です」
しどろもどろになった燕は、もう二十歳だ。巌の国では嫁き遅れの年齢である。対する随風も、婚期を逃したとされる二十二歳になっていた。
(なんて可愛い方なんだろう!颯爽たる段様が、実際にはこんなにも愛らしい乙女だったなんて)
随風はガッカリするどころか、益々燕への想いを募らせた。敬慕に恋情が注がれ、追い風に乗った感情がどこまでも走ってゆく。
婚約から四年。毎月、縁起の良い日を占わせ、最新流行の祝い膳を手配し、招待客リストを更新してきた。四年の間に、随風と段老将軍は親しさを増していた。随風は噂通り、機密文書の写本官になった。しかも、表向きは存在しない皇帝直属の情報機関「無音」に配属されたのだ。家族への手紙すら検閲される身分である。生来の呑気な性格は、その重圧に耐えさせていた。
四年もあれば、都の状況は変化している。女将軍の物語は飽きられ、琴が得意な令嬢と皇太子の悲恋が人気になっていた。舞台は大昔の架空国である。それに不満な随風は、影絵一座に投資して、女将軍の活躍ばかりを上演させていた。彼は、ひたすら女将軍が勇猛果敢に敵を討つ話を希望した。だが、戯作者の助言で、随風を思わせる少年文官も活躍させた。敵のスパイが女将軍に感服して、仄かな想いを寄せる挿話も受け入れた。令嬢と皇太子の悲恋では、敵対する状況でどちらの身内も相手に討たれる展開がある。痛快戦場アクションだけでは、時代に合わなくなっていたのだ。悲恋に対抗するため、随風と影絵一座は日々知恵を絞っていた。
そうして遂に、葉随風は浮き立つ心で辺境までやってきた。寸法を事前に問い合わせ、自ら縫い上げた腕覆いを、黒い絹張りの箱に入れて持参した。黒は段家軍の色である。上質な赤い革で仕立てられた腕覆には、小さな金属板がびっしりと縫い付けてあった。左右それぞれ、一枚には文字が刻まれていた。左は燕、右は随である。
目の前に現れた憧れの女将軍は、称賛にはにかむ生身の女性だった。観た目も絵姿より遥かに美しい。黒い絹張りの箱を受け取ると、毛皮で包まれた小箱を差し出してくれた。この辺りの岩山に棲む、斑狼と呼ばれる野生動物の皮だ。すばしこくて、捕まえるのが難しい猛獣だ。
箱の中には、長方形の玉佩が入っていた。玉佩とは、美しい貴石で作られた提げ飾りである。玉に浮き彫りや透かし彫りが施されているものがほとんどだ。多くは板状で、丸や四角、中には鳥や動物の形に削られた細工品もある。そこに絹で組んだ飾り紐や鎖が付いていて、多くは腰に提げる。首飾りとして使うものもあった。
随風に贈られたのは、透明感のある群青色をしていた。削った文字に金泥が流し込んである。手作りだろうか。文字は、表に「葉随風」、裏に「平安」である。
「わぁ」
感極まった随風は、夢中で婚約者を讃え始めた。
「段燕将軍、貴女は凛々しく、清らかで、逞しく、勇敢で、天女のように美しく、神燕のように気高く、声は柔らかなのに毅然とした響きで」
「ああ、もういい、やめて」
「その上ほんとうに愛らしい」
「お腹空いてらっしゃるでしょう?はやく食卓へ行きましょうよ!」
燕は話題を無理に変える。
「はい!貴女と囲む食卓を、あれこれ想像してきたんです。とうとう」
涙ぐむ随風。剣吟城将軍府を管理する人々の目には、僅かに恐怖が滲んでいた。
段燕の親族はほとんど戦死してしまい、遺族はみな都にいる。婚約者同士水入らずではあるものの、寂しさも感じさせられる食卓だった。
「わあ、翡翠茄子だ」
「お好きでしょう?」
「はい、覚えていて下さったんですね!」
燕は、短信でのやり取りで知った随風の好物を、初顔合わせの献立に載せたのだ。随風がその話を書いたのは、実に三年前のことである。
「この地で生姜は貴重でしょうに」
「胡麻を塗すのが主流だそうですが、生姜を添えるのが良い、とはっきり仰ってらしたので」
「蒸し魚の揚げ浸しはお好きですか?」
「これは、父の好物でしたので、今でも大切な日の食卓には必ず載せるのです」
(大切な日!)
互いにおかずを取ってあげながら、味の好みや家族との想い出を知ってゆく。
「桂花茶はいかがですか?それとも桃花釀でも?母が仕込んだ八年ものがあるんです」
「えっ、もしかして、晩年に仕込まれた貴重なものでは」
八年前といえば、燕十二歳、母が戦死した年である。
「はい、毎年仕込んでおりましたが、それが最後のものです」
「そんな大切な品を、いただく訳には」
「いえ、やっぱり、それにしましょうよ。母にも、婿殿との初顔合わせに立ち会って貰えますから」
「そういうことでしたら」
下女が運んできた小さな壺から、透明な酒が流れ落ちる。脚高の小さな陶杯に溜まる母の酒は、仄かに甘い香りがした。跳ね上げ窓から初夏の陽射しが流れ込む。ふたりはただ黙って、太陽に煌めく桃花釀を眺めていた。
食事が終わると、燕は幕屋へと戻って行った。
「葉殿、某はこれで」
「将軍様。陛下に賜ったご縁ではございますが、こうして顔も合わせたのです。もう少し、呼び方を、その、変えてみても良いのではありませんか?」
呑気な随風に似合わない必死な表情である。燕は吹き出してしまった。
「何も笑わなくても」
「いえ、失礼、まるで一騎打ちにでも臨むかのようなご様子でしたので」
「そうでしょうか?」
随風は決まり悪そうに眉を下げた。
「ははっ、それで、なんとお呼びすれば?」
燕の質問で、随風は途端に元気を出した。
「友達は小葉って呼ぶけど、段様は婚約者だから、違う感じのが良いなぁ。阿随か、小随か、風風、風仔でも!」
勢いに釣られて、燕も笑顔になった。
「そうだなぁ。ならば阿随にするよ。私のことは燕燕でいいよ」
「わかった!燕燕」
その夜、随風は剣吟城の将軍府でぐっすり寝ていた。長年の憧憬が新しい気持ちに育ち、婚約者もそれを受け入れてくれたのだ。なんとも言えない安心感に包まれていた。初顔合わせの興奮と長旅の疲れも手伝って、夜も更ける前に眠っていた。燕は幕屋で簡単な食事を済ませて、袁副将軍と雑談をしていた。
「いや、驚いたよ」
「末将も居合わせたかったものです」
「てっきり聖人君子の心配りだとばかり思ってたからね」
「ええ。堅物写本官が礼儀正しい対応をしているだけかと」
「まさか毎月、最新の婚礼準備をしていたなんて思わなかった」
「はい。それも四年間」
「私を讃える影絵芝居まで上演し続けていたんだって」
「もはや崇拝者と呼んでも差し支えございますまい」
「あの上気した様子ときたら」
燕は心底おかしそうに笑った。そこへ、伝令が飛び込んできた。
「報!」
「何事だ」
緩んだ空気が一瞬で引き締まる。
「敵軍来襲!南山国が奇襲を仕掛けて来ました!」
「やはり和平は油断させる為の方便であったか!」
「はい!」
「状況は?」
随風は叩き起こされた。
「婿殿!すぐにお逃げください!」
「えっ、何事?」
「城門から鷹伝書が参りました!幕屋への奇襲があり、でも陽動で、本命は剣吟城のようです!」
「幕屋への奇襲?燕燕!燕燕は無事なの?」
「きっとご無事です!さあ、手遅れになるまえに逃げましょう!」
剣吟城将軍府の人々は隠し通路を抜けて、無事都春陽の将軍府まで逃げ延びた。別邸に居た人々は、元々滞在者の護衛専業である。軍に合流はしない約束になっていた。剣吟城の防衛戦への参加は義務付けられていない。
二日後、巌国は南山国に戦線布告を行った。再び二国は正式な戦争状態に陥ってしまった。それから一年。増援も功を奏して、巌国は勝利を得た。
「燕燕が帰って来る!」
刑部尚書葉淵の屋敷では、五男が文字通り飛び跳ねていた。のほほんと暮らしている随風にしては珍しい。
「五弟、今日じゃないだろ。なんで何回も着替えてるんだ?」
「今日かもしれないじゃないですか!知らせはもう届いたことですし。先駆けに同行して都に着いているのではないでしょうか」
「いや、将軍が凱旋で一人だけ帰るなんてないだろ」
「兄上にはお解りになりませんよ」
あたふたとしているところへ、段将軍府からの使いがやってきた。
「あっ!あまりに嬉しくて忘れてた!今日は吉日じゃないか!冬川!式服を!はやく!」
「落ち着きなさいよ。今日帰ってくるとは限らないんだから」
「老将軍も、万が一の為に準備しておくようにって、お手紙を下さったのですよ?」
随風はこれ見よがしに、長兄葉辰の鼻先へと手紙を突き出した。
「老将軍まで」
辰は辟易して、父親を探しに行った。随風は立派な刺繍を施された赤い式服を身に纏い、鎮南将軍府にやってきた。そして、そのまま婚礼準備の人員に紛れて作業を始めてしまった。
「随風くん、もう帰って大人しく待ってなさいよ」
老将軍が何度目かの促しを行った時である。
「段燕将軍が、城門を通過したそうです!」
「ほら!やっぱり!今日帰還すると思ったんだ!」
凱旋の一団は、予定より二日も早く都に到着した。援軍はそれよりも更に早く帰っていた。後始末の手伝いはしなかったようである。
随風が花婿行列に備えようと、急いで自宅に走ってゆく。道すがら、顔見知りは祝辞を投げてくれた。町の人は城門へと急ぐ。花屋は、凱旋祝いに撒く花を詰めた籠を量産していた。
随風は部屋に戻らず、門の近くをうろうろしていた。しばらく待っていると、葉府の正門が叩かれた。取り次ぎ係の知らせも待たずに、随風は飛び出す。
「え?」
目の前には、汚れた鎧に白鉢巻の使者が立っていた。
手には細長い箱を捧げ持っている。




