ナイフと弾丸 2
胸糞悪くなる鉄臭さに辟易としながらも、かごめは、どこか心地よい虚脱感に身を任せていた。その一方、体の右半分が血で濡れていて、とても不愉快だった。
隣に倒れた怪物は、もう動かなかった。
確証があるわけではない。しかし、どこか直感的なもので、もう怪物は死んだということが感じられていた。
両親の、多くの人間の仇を討った。
不可能だと、今まで思われていたことを成した。
もうこれで…これ以上の犠牲は生まれない。
終わったのだ。
後は、エンドロールを待つだけ。
それなのに、胸にしこりが残っていた。
指の間接に出来た虫刺されみたいなそれは、どこまでいっても、心の裏側に影を落とした。
何かが、手のひらからこぼれ落ちた…そんな気がした。
それが何なのかを深く考えるよりも先に、倒れ込んだ自分に近付いてくる、何者かの気配を感じた。
このタイミングだ、顔を見ずとも誰だか分かる。
かごめは安堵の息と共に、小さく言葉を呟いた。
「…終わったよ、白雪」
「終わった?」
だが、聞こえてきた声は、予想していたものとは全く違っていた。
「か、風見…?」上体を起こして、確認しようとしたかごめの右肩を、固い靴底が抑えつけた。「ああっ…!」
「馬鹿言わないで、終わってないわよ。ねぇ?貴方がまだ、生きているじゃない」
ぐっ、とさらに力を込められて、情けのない悲鳴が口の端から漏れる。
「い、たい」
「痛い?そう、それは何よりだわ」
「や、やめて!」かごめが発した怒号に、風見の動きが止まる。「そいつを見なさい。もう、私たちが傷付け合う理由はないのよ」
「…理由なんて、もうどうでもいい」
風見は、わずかな沈黙の後にそう言った。
「出来損ないのくせに、貴方は利口過ぎたのよ」
「どういうこと…?」
「だって、そうでしょう?こんな、こんなことをしてしまって、貴方はどういうつもりなの?」
「怪物を倒して、もう、村の人間が犠牲になる必要はない。それなのに何が不満なのよ!」
再度、右肩が強く踏まれる。ついでのようになされたそれには、明らかに彼女の行き場のない苛立ちが込められていた。
「馬鹿ね…」
急かされたような動作で、風見は胸ポケットから拳銃を取り出した。よく見れば、風見の服は泥や木の葉にまみれていて、美しい頬には赤い線が入っていた。
相当に転げ回ったことが分かる。もしかすると、怪物に追われながらこうして生きているのは、上手い具合に斜面を転がり落ちて、気絶でもしていたからなのかもしれない。
黒壇の闇を銃口の奥に飼い慣らした風見は、ゆっくりと撃鉄を引くと、やけに高い声で告げた。
「こんなことが出来てしまったら、今までの犠牲は何になるの?ねえ。無駄死にになるじゃない。あのとき、私があの男の話を聞いてさえいれば、村の人間は今頃幸せに暮らしているって?」
「風見…」
ようやくかごめは、風見の言いたいことが分かった。
彼女は現実を、自らの咎を認められないのだ。いや、認めたくない、というほうが適切か。
しかし、一体、誰が彼女を責めることが出来るだろうか。
村の人間の命を思えば、大を取って小を捨てた風見の選択は効率的ではあった。私だって、同じ立場なら、そうしたかもしれない。
父を殺したのは、風見か山ノ瀬のどちらかだ。とても許すことは出来ない。だが、長い時間の流れが、美しい水となって罪を洗い流すときが来ないと断言することも出来ない。
「そうしていたら…、あの子も私のそばにいたって言うんでしょ…?」
「風見、待って」
震える手で、風見は引き金に指をかけていた。
間違いなく、冷静さを失っている。
「…冗談じゃないっ!」
「かごめちゃん!」
トリガーが引き絞られる前に、今度こそ聞き慣れた声が響いた。白雪だ。少し離れた民家の陰から、私たち二人を見ている。
銃口が、今度は白雪を捉えた。
だが、白雪はそんなもの物ともせずに、諭すように口を開く。
「…やり直すことは、出来ませんか。風見千代さん」
風見は、白雪のそんな冷めた態度が癪に障ったのであろう。今までで一番の大声で叫んだ。
「貴方はいつまでも、ごちゃごちゃとうるさいのよぉ!」
「許されることだって、必要です。もちろん、私は貴方を許しませんし、きっと菩薩みたいなかごめちゃんだって、許しはしないでしょう」
素っ頓狂な発言に、かごめがぼそりと呟く。「…誰が菩薩なのよ」その際に、体が痛んだ。
でも、と白雪は続けた。すると、白雪の背後から、ふらりと人影が姿を現した。
その姿には、確かに見覚えがあった。しかし、彼女の右目に巻かれた痛々しい、赤黒ずんだ包帯を目にしたとき、一瞬、自分の知らない誰かであるような気がした。
「つ、鶴姫…?」風見は信じられないものを目撃したかのように、絶望の吐息を漏らした。「あ、あぁ…あああっ…!」
かごめも、十分な衝撃を受けていた。
ただの怪我ではないことは、憔悴しきった鶴姫の表情から察せられる。
目を、えぐられたのだ。
私のせいだ…私の。
「風見さん、銃を下ろしてください」そう言う彼女は、逆に散弾銃を持ち上げた。「もう、やめにしませんか?」
白雪とは違う意味で顔が白くなっている鶴姫は、ふらつく足取りを白雪に後ろから支えられながら、じっと、恩師である風見を見つめていた。
足取りと反比例するように、その眼差しは一点に注がれている。
鶴姫のそんな姿を目の当たりにした風見は、数秒、声にならない呻きを漏らしていたかと思うと、がっくりと項垂れながら膝を血溜まりにつき、拳銃を下ろした。
彼女の中で、何かがへし折れたのが分かった。
それはきっとプライドだとか、使命感だとか、ややもすれば、つまらないものと称されかねない形なき王冠だ。
これで、本当に全部、終わった。
一歩、一歩、鶴姫は風見に近付いた。
もう、二連装の猟銃は地面にかなぐり捨てられている。
鶴姫の後ろ姿を横目にしながらも、白雪が慌てて駆け寄ってくる。その瞳には、大粒の涙が輝いている。
「かごめちゃん!」血溜まりを跳ね上げながら、上体を起こしかけていたかごめに白雪が近寄る。「もう、また無茶して!」
「いっ、たあぁぁい!」
ぐっ、と体を起こされた際に、鈍い痛みが走って高い悲鳴を上げる。
「あ、ごめんね…?つい…」
「つい…じゃないわよぉ」
「うん。ごめんね」全く話を聞いていないのか、ぎゅっと力強く、体を抱きしめられる。
「い、いだだだっ!馬鹿っ!」
胸に顔を埋めてすすり泣いている白雪の後頭部を、軽く撫でる。そうしながら、かごめは風見と鶴姫のほうを見やった。
肩を揺らす鶴姫に抱きつかれていた風見は、悄然とした顔つきのまま遠くのほうを眺めていた。
だらりと垂れ下がった両腕。
右手には、拳銃。
私は、ほんの少しだけだが、風見の気持ちが理解できた気がした。
全てが、水泡に帰した。それどころか、大きく後退したような感覚。
その感覚が邪魔をして、彼女の両手は大事な人を抱きしめることが出来ずにいる。
自業自得だ、と吐き捨てられない自分がいた。それは何も不思議ではない。
ただ、余計な一言を呟いてしまった自分には驚きを禁じ得なかった。
「…抱きしめてやりなよ」
小さな呟きだったので、胸の中で鼻水をすすり、嗚咽を漏らしている白雪には聞こえなかったようだが、虚ろな瞳になっていた風見の耳には、しっかりと届いたようだ。
彼女は一瞬で不愉快そうな顔を作ると、いつまでも手放さずにいた拳銃を、緩慢な動作で持ち上げた。
まさか、と思いながら風見の動向を観察する。
銃口は、風見のこめかみに添えられていた。
決して冗談などではないと、その忌々しそうに歪められた口元から伝わってくる。
彼女の決意を知る者は、今この場に、私しかいない。
かごめは、一瞬だけ口を開きかけたものの、すぐにやめた。
この選択は、風見に委ねるべきだ。彼女の人生なのだから、彼女次第。
ただ…。
眩しいものを見るように、かごめは目を細め思う。
――…私が見届けてやる。アンタが何を選ぼうと、私が。
ずっと黙っているかごめを、不審がるように白雪が見上げた。
そのとき、かごめはちょうど、今にも消えそうな笑みを浮かべているところだった。
「どうしたの…?」
「別に。何でもないよ」
すっと、白雪のほうへと視線を移す。それから、かごめは触れるだけのキスを白雪のおでこに落とした。
「か、かごめちゃん…!?」
どうして自分がそんなことをしたのかは、分からない。
もしかすると、風見の頬をつたった流星が美しかったからかもしれないし、
もしかすると、白雪の顔があまりにも愛らしかったからかもしれないし、
…もしかすると、胸に残ったしこりの意味に、ぼんやりと気付き始めていたからかもしれない。
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