明ける夕暮れ
かごめは、再び息を切らしながら、集落を駆け回っていた。
ありとあらゆるものの隙間を縫い、窓枠を飛び越え、床下に潜り込み、屋根から飛び降り、とにかく逃げ続け、時間を稼ぐことに必死になった。
足だけは捻ったりしないように、細心の注意を払った。そうなれば、一巻の終わりだからだ。
叔母の家の台所を通り抜けて、パントリールームに向かったとき、すぐ後ろでテーブルが弾き飛ばされた音が聞こえた。飛んできた木片が危うく刺さりそうになったが、運良くギリギリで当たらなかった。
怪物の唸り声が少しだけ離れる。仕留めきれない苛立ちが感じられるようだ。
隠れる、という選択肢はない。何故なら、残った二人に危険が及ぶからだ。
真っ直ぐ山ノ瀬の家にまで向かう。あそこは多少複雑な構造になっているので、逃げるには最適だ。
…あそこまで、無事逃げられればの話だが。
離れた距離が再び縮まり始めたのが、ひりつく殺意で分かる。あの怪物が時折見せていた知性は、もはや微塵も感じられない。
喉がカラカラに乾いていた。よくよく考えたら、屠殺場を出てから一切何も口にしていない。
山ノ瀬家のゲートを潜った。今回は閉める余裕もない。案の定、半開きになった鉄のゲートが跳ね開けられる音が聞こえた。
想像していたよりもずっと近くにいるようで、かごめは足の回転をさらに速くしようと力を込めた。だが、それが逆に良くなかったようで、ついにかごめは足がもつれて転倒してしまった。
「や、ばい…!」
素早く立ち上がろうとするも、全力疾走を続けていたためか、麻痺したような感覚が今度は足を襲って、まともに起き上がれない。
少しでも姿勢を立て直そうと、体をよじり、怪物のほうを向く。すると、その白い凶暴はすでにかごめのすぐそばまでやって来ており、異様に大きい目と口を開いて、じっと相手を見下ろしていた。
これまでか、と諦めることはなかった。かごめはそれよりも、いかにして時間を稼ぐかばかりをまだ考えていた。
せめて、ここに銃があれば、わずかばかりの足止めが出来たのかもしれないのに。
あの銃は、作戦の最後の締めに使うため、鶴姫と逃げ込んでいた民家に隠してある。持って走り回ることは、不可能だと思っていたからだ。
他に打つ手はないか、と懸命に策を練っていた矢先、ついに怪物の白くしなやかで強靭な腕がかごめの胴体を捉えた。
ふわり、と浮き上がった体が尋常ならざる力で締め付けられて、かごめは声にならない悲鳴を上げた。
「ゔっ、こ、のぉ…!」
呼吸が出来なくなるほどの痛み。
圧縮機に押し込まれるような、目が破裂するような圧力。
どうにか、起死回生の一撃はないか。
必死で頭の中の模索を続ける。
ハッと、ボディバックに入れていたナイフのことを思い出し、慌てて手探りでそれを見つけ、左手で握りしめる。
渾身の一撃を病的に白い腕に突き立てるべく、左手を掲げた。
「うっ、あぁ!」
しかし、直後、体を締め付ける力が強まり、握っていた銀の刃を下に落としてしまった。
地面目掛けて無造作に突き刺さった銀の短剣の刃が、夕焼けの赤い光を反射して輝いている。
本格的に呼吸がままならなくなり、生命の危険を知らせるかのごとく、視界が極彩色に明滅した。
――不味い。
怪物の顔が、大きなアギトを開いて迫り来る。
いつかどこかでしていたように、頭蓋を砕き、心臓を胴体ごと貪るつもりなのだろう。
反射的に顔を逸らしていた。目をつむらなかったことだけは、その最期の勇猛さを讃えてほしいと思った。
視界の中央に、銀の刃が映った。すると、赤い光を反射していた刀身から、次第に鮮やかな色が失われていった。
漆黒に蝕まれていく赤に、かごめは弾かれたような勢いで空を仰いだ。
空の端では、紅蓮の炎のような赤が未だに残っていたが、それも徐々に黒一色に覆われていった。やがて、その黒の絨毯に、白い光の粒が現れ始める。
――星だ。
あれは、星の光だ。そして、黒のキャンパスは夜空。
すると、自分を掴んでいた怪物の様子に変化が生じ始めた。
しきりに瞬きを繰り返し、何がなんだか分からないといった様相だ。
間違いない、何かが怪物の中で変わった。
どうしてかは分からないが、命が宿った、という表現が的確のように思えた。
あぁ、よくやった、鶴姫。
一人でなんて行かせてごめんね、でも、やり遂げるって信じてた。
かごめは、もう一本、ボディバックにナイフが入っていたのを思い出した。鶴姫から渡されたナイフだ。
怪物の力が弱まっている今が、脱出のチャンスだ。
渾身の力を込めて、ナイフを振りかぶり腕に突き刺す。
怪物のやけに高い悲鳴が、地を揺らす。
ぼとりと、地面に体が落ちる。無事、というには些か満身創痍だが、死んでいないことだけは確かだ。
見慣れた夜空が広がり始める。普段なら、今の時間からコンビニへ出勤だ。
つまり、時の流れが正常になったということ。それに伴い、おそらくは結界も解かれている。
かごめは、大きく息を吐いた。杭を打たれるような鈍い痛みは、相変わらず彼女の体を苛んではいたものの、胸の内には、絶体絶命の状況でも消えずにいた強い炎がたぎっていた。
銃を取りに行く余裕はない。今の体では、それまでに追いつかれる。
これで、戦うしかない。
かごめは、怪物の体に突き刺さった錆びたナイフを見つめながら、地に牙を立てる銀のナイフを拾った。
あの痛がりよう…、おそらく、儀式が成功している今、怪物も普通の生物に近い存在となっているはずだ。
急所を穿てば、殺せる。
結界が消えている今、あの化け物も下界に下りられるはずだ。そのままにしておいては、一体どのような悲劇を生むか、分かったものではないのだ。
どんなにわずかな可能性であったとしても、やりきってみせる。
月野瀬の出来損ないの宿命も。
この村の悪しき風習も。
何もかも諦めてきた、今までの自分も。
その全部に蹴りを入れて、終わりにしてやる。
これは、月野瀬かごめの新たな人生、その前哨戦だ。
――大丈夫、ここからは自分でやれるから、パパ。




