ベット・オン・ザ・ライフ
こちらより、最終章となります。
まだお読みくださっている方がいらっしゃれば、
どうか最後までお付き合いください!
回れ右で、フェンス脇にある扉のほうへと突っ込む。眼前に踊る炎が迫るが、かごめは一切の躊躇なく、その炎の中に飛び込んだ。
肌や髪を一瞬だけ炎が舐めるが、水を被っていたこともあって、一秒にも満たない時間ならば、火傷すらもせずに済んだ。
後ろからは、風見が何かしら叫んでいるのが聞こえてきていた。その叫び声が消えていないことから、まだ彼女も粘り強く奮闘しているのが分かる。
だが、それも時間の問題だ。
建物の周りに火を点けている以上、安易に中に入ることは出来ないはずだ。実際に建物まで火の手が伸びるには、しばらく時間がかかるだろうが、怪物に追われながら、そんな冷静な判断は出来まい。
そうなると、一足早く駆け出した自分と同じように、化け物と死の鬼ごっこを強いられることとなる。
あの怪物の脚力だ。人の足では、よっぽど運が良くなければ逃げ切れない。
つまり、九割九分、風見千代は死ぬ。
死ぬ、というよりも、私が殺したと言うべきか。だが、彼女はあまりに多くの人間を『必要な犠牲』と銘打って殺しすぎた。すでに、良心が呵責を起こすこともない。
初めて屠殺場を訪れたときとは、逆のルートで山道を下りる。遠くに軽トラの影が見え始めたあたりから、もう風見の声は聞こえなくなっていた。
代わりに響き出す、異様な足音。およそ人の歩幅や勢いではない。
奴が、もうすぐそこまで来ているのだ。
風見を仕留めたにしては少し早すぎる気もしたが、彼女の遺体を貪り喰うことなく、新たな獲物に狙いを定めたのかもしれない。
この村に来て、もう三回、ヤツとの死の障害物競走をくぐり抜けている。
数値だけ見ると十分勝ち筋の濃い勝負に思えるが、そのうちの二回は誰かの助けがなければ、お陀仏だったに違いない。
そう考えると、分の悪い賭けだ。
しかし、今は…。
足音が近くなってきたのを感じて、かごめは自然と余計なことを考えるのをやめた。
ここで追いつかれでもしようものなら、元も子もない。
今は、ただ走るのだ。
肺をひねり潰すほどに。
足の回転による摩擦で、火花を散らすほどに。
転べば、二度とは立ち上がれないほどの勢いで、地を蹴り進む。
苦しい、という感覚が明瞭になってきた頃、今しがた通り過ぎた軽トラの上に、重々しい何かが激しく着地した音が聞こえた。
もう、5mもない。
死まで、後、5m。
恐ろしい、息が苦しい。
喉の内壁がくっついてしまったのかと思えるほどに、呼吸が苦しい。
背後に感じられる怪物の存在が、私の体の動きを狂わせている。
さっき出来ていたことが、今出来ないのが、どこか不思議だった。
恐怖と息苦しさでトンでいきそうな自分が、足をもつれさせようと画策しているような気がした。
数秒の苦痛にさえ目をつむれば、このまま倒れ込んでしまったほうが楽な気がした。
頭の奥で、私とそっくりの顔と声で誰かが、『楽になろう』と誘惑する。
そうか。やめて、終わりにしてしまえば。
今までと、同じだ。何を躊躇うことがあるだろう。
今まで投げ捨て、諦めてきた夢たちの墓場に、体ごと突っ込むだけだ。
奇妙な諦観が、自然と体の力を奪い去ろうとしていた。
実際、そうなっていたであろう。数日前の、日々を怠惰に過ごしてきた頃のかごめであったならば。
ふと、かごめの脳裏に、あの日の情景がよぎった。
それは、何も見えない暗黒の水中に灯る、夜光虫の輝きを伴って、彼女の前に現れた。
カラッと乾いた運動場の空気。
やや前方で舞い上がる砂煙に、湧き上がる歓声。
後ろを振り向けば、泣きべそをかきながらも、懸命に足を動かす幼い白雪の姿。
――あぁ、どうしてそんなに泣いているのか。
誰が泣かせたんだ。
青い空に木霊するこの無数の声が、君を悲しませているのであれば。
違うもので塗り潰してやるから。
「見ててよ、白雪…」ぼうっとした思考のまま、かごめは呟いた。
夢と現の間で、彼女は白雪からのバトンを受け取った。
体が一瞬で軽くなる。
宙を雪のように舞う、羽毛みたいな軽さ。
ぞわりとした感覚。
ほとんど無意識のうちに、進行方向を大きく左に曲げる。
今しがた自分がいた空間を、大きな腕が空を切り裂く音を立てながら通過する。
それすらもまともに聞こえないまま、かごめは針葉樹だらけの緑の斜面を駆け下りる。
静かだ、とかごめは思った。
耳を澄ましても、何も聞こえない。
星の間を滑るような、美しい静寂ときらめき。
足が、まるで自分のものではないかのように、どこまでも速く回転する。
蹄でも生えたみたいに、的確に地面を捉え、次の瞬間には違う光景へと自分を連れて行く。
背後に差し迫る怪物のことも忘れ、こんなにも気持ち良く走れたのは生まれて初めてだ、と言いようのない感動に胸を震わせる。
誰も止めるな。
私は、このまま行く。
どこへ?
それは分からない。ただ、瞳の奥に映る、あまりに眩い銀河を目指していた。
後少しで、私は私が望んだ場所に辿り着ける。
この森を抜ければ、そこがある。
刹那、ふわりと自分の体が舞い上がった。
地面を蹴る力が強くて、ついに空へと駆け上がったのだと、かごめは本気で考えた。しかし、すぐに痺れるような痛みが背中全体に拡散したことで、かごめはようやく何が起きているのか気が付いた。
――追いつかれたんだ。
遠くに見えていた、集落の乾いた地面が急に近付いてくる。
ほとんど反射的に体を丸め、衝撃に備える。すぐに、予測していたものの数倍大きな傷みが体に走った。
痛みを誤魔化すように、あるいは衝撃を逃がすために、かごめは体をぐるぐると回して、地面の上を転がった。
ようやく勢いが止まったかと思えば、今度は落下の衝撃よりも、背中に受けた衝撃のほうが凄まじく痛んだ。
「あ、あぁ…っ!」
我慢できない鋭い苦痛。まるで、背中全体の傷に塩か何か塗られているような気分だった。
ぜいぜい、と酸素を取り込むために激しく肺を膨らませるが、その度に痛みが鮮明になって、また息が詰まる。
とにかく、なんとか立ち上がらなければ、と体に力を込めるが、右肩が動かないことに気付いた。
脱臼か、骨折かは定かではない。ただ、尋常ではない背中の痛みに比べればマシではあった。
ふらつく足取りでも、かごめは立ち上がった。そして、自分が転がり落ちてきた(正確には、叩き落された)、小高い岩を見上げる。
白く、大きな岩だ。あそこから落ちて、よくまあこの程度で済んだものだ、と我ながらおかしくなる。
だが、すぐに岩の上から見下ろす異様に大きい瞳と視線が交差して、ぐっと歯を食いしばる。
――まだか、まだなのか。
空を見上げる。そこにあるのは、依然として禍々しい茜色の空だ。
まだゴールテープは切っていないのだから、仕方がない。
自分を見下ろす怪物に、再び視線を戻す。怪物は未だにじっとこちらを見下ろしている。
「いつまでそうしてんのよ」口元を歪め、不敵に笑う。自分を鼓舞するときの癖だ、と冷静に分析する。
呼び声に呼応したかのように、怪物が高く跳躍した。
赤い空を背景に、死と破滅の使徒が天上より降り立とうとしているようだ。
近くの塀を粉々に踏み崩しながら着地する怪物を見つめて、かごめはまた微笑む。
――そうだ、分が悪い賭けだとは知っていたじゃないか。
元よりこの勝負に、『降りる』という選択肢はないんだ。
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