幕間
コツコツと、苛立たしげに繰り返される足音が、薄いモヤに覆われつつあった白雪の意識を、ゆったりと引き戻した。
目だけを動かして、音のする方向を見やる。
すらりとした長身の女性が、十メートルもない部屋を行ったり来たりしている。
壁にぶつかればくるりと向きを変えて、反対側へ。またぶつかれば、体を反転させる。
同じ動作を繰り返す、壊れた機械のような風見千代に、白雪は哀れみに似た感情を抱いた。
椅子に縛られたままの体勢で風見を観察していた白雪だったが、指だけを動かして、食い込んだ縄の位置を調節しているうちに、背後に立っていた長篠が声をかけてきた。
「あの、痛みますか…?」
縄や指のことではない、とすぐに分かった。長篠の瞳に、強い後悔の念が宿っているのが見えたからだ。そしてそれは、きっと彼女の心に酷く重い枷としてのしかかっていることだろうことも。
長篠の視線が、固定されていない白雪の右足に移動する。そこには、真っ赤に滲んだ包帯が巻かれていた。
「ええ、とても」あえて、淡白に答える。
生憎と、彼女の罪悪感を軽くしてやる義理は自分にはない。
実際に言葉通り、ふくらはぎあたりが酷く痛んだ。
長篠が、風見の命令に忠実に従うような人間であったなら、今頃、包帯の位置はもっと下だったであろうことを考えると、幸運とも言えた。しかし、だからといって感謝するような気持ちにはなれない。
「ご、ごめんなさい。でも、ああするしか…」
「長篠、何を呑気にお喋りしているの」
弱々しい口調で言い訳を並べようとしていた長篠へ、風見がぴしゃりと言い放った。すぐに頭を下げて謝罪した彼女に、白雪は軽蔑の感情を抱いた。
そのまま、人を小馬鹿にしたような顔つきで近付いてくる風見へ、視線を動かす。
「来るかしらね、貴方の王子様は」
挑発としか思えない言葉に対し、白雪は興味なさげに目を閉じた。
するとその直後、白雪の白い頬を風見の冷たい手が平手打ちした。
乾いた音と共にじぃん、と痺れるような感覚が頬に広がったが、やがて何も感じなくなった。思った以上に強い力で叩かれたらしい。
「か、風見さん」
「黙ってなさい、役立たず」
目を開けると、異様な冷徹さを光らせた風見の瞳と目が合った。
言葉にならない憤りを、暴力という方法で解き放ったのは一目瞭然としている。
「自分の立場を考えることね、姫川白雪。それとも爪の一枚でも剥いであげれば、ちゃんと素直になれるのかしら?」
脅しだが、脅しではないと直感する。そんな手間をかけるような女ではないが、それくらいのことは平然とやってのける女であることは、疑いようもない。
白雪を動揺させるために吐いたであろう言葉にも、彼女が何の反応も示さなかったことが気に入らなかったのか、もう一度風見は白雪の頬を平手打ちして、無感情に言った。
「聞かれたことには答えなさい。これ以上、痛い思いはしたくないでしょう?」
にやり、と歪な微笑を浮かべる彼女をほんの少しだけ美しいと思った。歪んだ感情が、風見の中でとぐろを巻いているのが見える。
落ちるところまで落ちた外道――になりきれていない、人間らしい不完全さを持つ姿にちょっとしたシンパシーを覚える。
「ねえ、来ると思う?貴方の王子様」
質問に答えてやるべきか、一瞬だけ逡巡する。
どうせお喋りに付き合っても、付き合わなくても、風見の思い通りにならなければ、最終的には自分は殺されるのだろう。
だが逆に言えば、お喋りしてやったとしても、こちらに何のデメリットもない。そう判断した白雪は、ゆったりと口を開いた。
「不安ですか?」
「…何がかしら」
「かごめちゃんが、来ないかもしれないということが」
きゅっ、と風見の目が細められた。
今度は平手打ちでは済まないかもしれない、と思わせるほどの苛立ちが見て取れた。
だが、白雪の心配をよそに、風見は冷静さを保ったまま口を開いた。
「どうして、私がそんなことを心配しなければならないの?出来損ないが来なければ、困るのは貴方なのに」
「かごめちゃんが来ないということは、鶴姫さんを人柱にしようとしている可能性がある…」
独り言のように呟いた言葉に、ぴくり、と風見が眉をひそめる。
「貴方も、そういうふうに考えられているんじゃないですか?」
「…まさか。あの口だけの女に、そんなことが出来るはずがない」
「では、そんな質問をしなくてもいいと思います」
話はもう終わりだ、と言わんばかりに白雪は口をつぐみ、目を閉じた。そんな彼女を風見は感心したような、面白がるような表情で見つめた。
「あら、助けに来てほしいと思わないのね」
「私は…」
反射的に口を開いてしまい、どうにもバツの悪い気持ちになる。このタイミングの返答は、慌てて言い訳しようとしたみたいだと、自分でも思ったからだ。
「私は?」
そんな白雪の心情を察したかのように、風見が片手を出して先を促す。
先ほども言ったとおり、会話をすること自体にデメリットはないため、仕方がなく相手をする。
「私は、かごめちゃんが選んだことなら、なんだって受け入れるつもりです」
ふん、と鼻を鳴らした風見が答える。
「貴方には自分というものがないの?何でもあの娘の言いなりになるつもり?」
相手の言っていることがよく分からず、白雪は小首を傾げる。
「私は、かごめちゃんが一番大事なんです。それだけなんです」
「それを世間一般では、言いなりだとか、洗脳だとか言うのよ」
違う。言いなりというのは、相手の言葉通りに動くことだ。
操り人形のように、ただ従うこと。
自らの保身や、利益のために媚びへつらうこと。
その人のために、粉骨砕身することも厭わず、全ての不利益を己の選択の結果と受け入れ、共に歩くこととは、大きく異なる。
白雪はそうしてしばらくの間、風見の顔を不思議そうに見つめ続けていたのだが、やがて、一つの結論に達し、「あぁ…」と短い相槌を打った。
風見は、間違いなく鶴姫に対して捨てきれない情を抱いている。
それが『情愛』なのかどうかは分からない。だが、少なくとも、目的のためにその感情から目を逸らしていることだけは確かだ。あるいは、逃げている、と言ってもいいのかもしれない。
「自分に嘘を吐き続けている貴方には、私がかごめちゃんに抱く気持ちを、一生かけても理解出来ないのでしょうね…」
じろり、と風見の射抜くような視線がこちらを捉えた。そうした躍起になった眼差しこそが、自分に嘘を吐いていることの表れだ。
彼女はどこか自分に似ている、と白雪は思った。
自分の気持ちに素直になれたかどうかという一点を除いて。
それが出来ずにいたのは、きっと、かごめが語ったこの村の特異性と、葬儀役という歪んだ権力のせいだ。
そうしたものに気付いてしまった以上、白雪はこう呟かずにはいられなくなっていた。
「…かわいそうな人」
直後、自分の体が椅子ごと倒される衝撃に、目がくらりとした。風見の長い足に蹴り倒されたのだ。
「風見さん――」
「黙ってなさいと言ったでしょう!」制止しようとした長篠の顔も見ずに怒鳴りつける。
風見は顔を歪め、口から血を流す白雪を見下ろした。
椅子の次は、白雪の体をつま先でえぐり上げようと構えられた足を見て、白雪は無意識に瞳を強く閉じた。
しかし、いくら待っても、その瞬間は訪れなかった。
さすがに痛い思いは出来るだけしたくないな、と恐る恐る目を開いた白雪の前で、風見は急に静かになって辺りを見回していた。
どうしたのだろう、とその異変の原因を知ろうとした白雪の鼻先に、嫌な臭いが漂ってきた。
数秒嗅いでいるだけで、ツンとした感覚に襲われるこの臭いに、白雪は覚えがあった。
――これは、煙とガソリンの臭いだ。
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