失意を越えて
最初は聞き間違いかと思った。それくらい、小さな音だったし、すでに頭上に位置する窓の向こうから、白雪の痛みに喘ぐ悲鳴が何もかもをかき消したからだ。
「長篠!そいつを抑えておきなさい!」
「は、はい」焦ったような長篠の声が遠く聞こえる。「は、離して」
「暴れるなら、足の健でも切ってしまいなさい。人質として使えれば、後はどうでもいい」
ぞっとする言葉を耳にして、窓枠に手を伸ばそうとするも、駆け出した鶴姫に手を掴まれて、それも叶わない。
白雪を置いていくことなど、出来ない。
頭では、そう分かっていた。道徳上の観念としても、自分の気持ちとしても、そうすることが正しいことが分かっている。それなのに、窓の向こう側から顔を出した風見を目の当たりにすると、反射的に逃げなければと思ってしまった。
鶴姫に手を引かれ正門とは反対方向に駆け出す。いつの間にか掴んでいたICレコーダーを、壊れそうなほどに握りしめる。
背後から白雪の苦悶の声に続いて、乾いた銃声が一つ、二つ鳴った。
斜め前の地面が土煙を一つ上げたと思ったら、鶴姫の動きが大きく、ぐらりと揺れた。銃弾がどこかに当たったのだと、すぐに分かった。
短いうめき声を上げた彼女だったが、そのまま倒れ込むことはなく、バランスの悪い姿勢のまま走り続ける。
自分の手を引く鶴姫の力が、明らかに弱まっているのを感じたかごめは、彼女を追い越し、逆に先導するように相手の手を引いた。
門をくぐり、適当な民家に駆け込んでいるとき、もうかごめの頭の中には、後悔の念など消えていた。
生に縋り付き、最上の友を見捨てたことに改めて気が付いたのは、鶴姫が肩に受けた傷を応急手当するための道具を探しに、かごめのそばを離れていたときのことだった。
かごめは部屋の隅で、震える息を吐き出しながら自分の体を抱きしめた。
異様な寒さだった。
白雪を犠牲にし、自分が助かることを優先した後の静寂は。
どうしようもなかったのではないか、と利己的な自分が囁く声が聞こえて、強烈な吐き気を催し、かごめはそばにあったゴミ箱に一切合切を吐き出した。
この数時間ほとんど何も食べていないため、出てくるのは胃液と自己嫌悪だけだ。
それだけの命か?私の命は。
白いワンピースを揺らす、白雪の姿が思い出される。
あの献身的な微笑を受ける価値が、自分にあったとは思えない。
逆の立場なら、きっと喜んで白雪は死を選んだであろう。彼女には、痛みも恐怖を越える、圧倒的な精神――宗教心に近いものがあった。
自分はどうだ…?
口ではどれだけ言っても、結局はこのザマだ。
私がやったことは、選んだことは、この村の連中と変わらない。
しょうがないから、どうしようもないから、あのままでは全滅したから…。
自分を納得させるための御託を並べて、自分と向き合うことをやめたのだ。
「…ごめんね、白雪」
彼女の最後の悲鳴が脳裏に鮮明に蘇る。直前で風見が口にしていた、足の健を切れ、という指示も。
「かごめ、どうするの…?」
いつの間にかそばに立っていた鶴姫が、不安そうに問いかけた。
無力感から、しばらくかごめが何も答えずにいると、とうとう鶴姫は苛立った様子で、座り込んだかごめの胸ぐらを掴み上げた。
「私は!どうするのって、聞いてるの!」
前後に揺さぶられて、脳味噌が頭蓋のあちこちにぶつかっているみたいだった。小さな脳味噌だ、隙間も多いのだろう。
「…もう、どうしようもないでしょ」
「はあ…?」
じろりと見上げた鶴姫は、着ていたパーカーを脱いでおり、タンクトップだけになっていた。その左肩には、痛々しい赤に染まった包帯が結ばれている。
自分を掴み上げている手も、右手だけだ。弾丸の命中した左手には、ろくに力も入らないのではないか。
「アンタはそのザマ、白雪もいない、外は化け物。そのうえ、イカれたカルト集団みたいな連中は拳銃を持ってる上に、人を撃つことに躊躇いがない。どっかの誰かと違ってね」
「風見さんを撃てなかった、私が悪いって言うの…?」
鶴姫の瞳から、悔悟の念が感じられる。
こんな状況下でも、自分のように責任転嫁もせず、絶望もせず、次を考えられる彼女が無性に腹立たしかった。
「ああもう、違うでしょ!私が!逃げ出した私が悪いに決まってるじゃない!」
一度口にすれば、すんなりと受け止められた。ただし、今度は自分を卑下することに意識が向いてしまう。
「私が白雪をこんなところに連れて来なければ、私がもっとしっかりと生活して、白雪に心配かけていなければ、こんなことにはならなかったのよ!
こうならない手段なんて、いくらでもあった。ただ、そうしなかっただけ。
目を逸らして、考えることもやめて、そうよ、村の様子や風見にだって、もっと私が気を配っていたら、こんなことにはならなかったのよ!」
堰を切ったように言葉を並べたかごめを、鶴姫は得も言われぬ表情で見つめていた。
「かごめのせいじゃ、ないよ」
慰めの言葉をかけられることは、容易に想像出来ていた。だからこそ、少女にまで甘えている潜在的な自分が認識されて、いっそう情けなくて仕方がなくなった。
「そんな慰めいらない…!」
「慰めじゃないよ。かごめは、ここまで頑張ってきたじゃん。ねえ、フリーターのくせに、命を張って私を助けてくれたよね」
いつの間にか、鶴姫はその小さな体でかごめを抱きしめていた。
少女特有の花の蜜のような甘い香りが鼻孔をくすぐり、こんな状況にも関わらず、通勤途中の道にある小さな花屋のことを思い出した。
「ね、後少し、一緒に頑張ろうよ、かごめ。白雪さんをあのままにしておけるの?それでいいの?」
「…良いはず、ないじゃない」
そんなことは、分かっている。
だが…。
「でも、どうしようもないのよ!鶴姫、アンタ、ちゃんと話を聞いてたの?このクソみたいな状況から脱出するには、私かアンタのどちらかが人柱にならなきゃいけないの。
ハッピーエンドは存在しない。どう転がっても、後悔しか待ってないのよ!」
無知さから、鶴姫はあんな楽観的な言葉を紡いだのだと、かごめは思っていた。だが、怒鳴りつけられた彼女の表情が、痛々しくも、やはり何か決然としたものに満ちているのを目の当たりにして、そうではないことに気付かされた。
「やってみなくちゃ、分からないじゃん」
「やってみなくちゃって…」
ここにきて何の保証もない、現実の見えていない発言を繰り返す鶴姫から目を逸らしたくて、かごめは両膝を立てて、その間に首を突っ込んだ。
ああ、やはりこれが自分の失った強さだ。
未来なんてものに怯えず、ただ、やれば出来るという謎の自信を武器にして生きていた頃の自分にあった強さ。
「そもそも、やるにしても、何をするのよ」
「それはぁ、ほら、かごめが考えるんじゃん?」
とぼけたように視線を天井に向ける鶴姫に、呆気に取られる。
「鶴姫、あれだけ偉そうなこと言っておいて、自分じゃ何も考えないつもりなの?」
「し、しょうがないじゃん。私、頭良くないし。ほら、適材適所ってやつ」
「はぁ、呆れた…」
なによぅ、といじけたような呟きを漏らす彼女を見ているうちに、ふと、自分の口角が上がっていることに気が付く。
なんだ、まだ笑う余裕があるじゃないか。
…分かっている。これは空元気だ。
失意の限界を越えて、もう笑うしかなくなった、自棄糞じみたエネルギー。
「アンタに考えるのは無理ね」
「だから、そう言ってるじゃんか」
唇を尖らせた鶴姫に、出来るだけニヒルに見える不敵な笑みを浮かべて、かごめは告げる。
「しょうがないから、私が考えてあげる」
「かごめ…!」
これ以上は照れ臭かったので、かごめは目を閉じて考える姿勢を取った。
…考えろ。
まだ、探っていない何かを。
しんとした静寂の中で、自分の呼吸音だけが聞こえていた。
鶴姫は邪魔にならないよう気を遣ったのか、民家から何か使える物を探しに行ったようだった。
ふと、かごめは握りしめていたICレコーダーのことを思い出した。
そうだ、これ、さっき動いていたような…。
案の定、ICレコーダーのランプは緑に点灯しており、電源が入っていることが確認出来た。
これの持ち主は、この村の秘密を探っていたはずだ。しかも、『籠目村祭儀禄』の記載から見るに、彼はある程度の深奥まで至っていたようである。
何か、起死回生の情報が込められていないか、とかごめが藁にも縋る想いで再生ボタンを押した。
数秒後、彼女の表情は千変万化の様相を呈する。
怪訝、そして驚愕、それから悲壮と怒り、最後には、涙と嗚咽混じりの覚悟を…。
ふと脳裏に、災厄に巻き込まれた夜、自分を外に連れ出した男の影が蘇る。
思えば、私は彼のおかげで薬を飲まずに済んだのだ。
すでに、助けられていた。
――あぁ、そうか。
ずっと、見守ってくれていたのかな。




