開かれた扉
これより六章の始まりです。
残り二章構成となっておりますでの、お付き合い頂いている慈悲深いみなさまは、
どうか、最後までご覧になって頂けると幸いです。
しんとした山ノ瀬の私室で、指先の皮膚と乾いた紙がこすれ合う、カサカサという音が鳴っていた。
「何なのよ、これ」言葉が声に出せていたことが、どこか不思議だった。
伝承、厄災、人柱…。
人柱?
馬鹿な、そんな馬鹿なことがあるか。
このご時世に、悠久に等しい時の流れの中で絶滅させられた、『生贄』と呼ばれる骨董品のシステムを、未だに信じ込んで使っている人々がいるのか?
一部の人間に不条理を押し付ける。
そんなことが、正当性がある行いとして認められているだって?
…しかも、しかもだ。
かごめは、書き込まれた文字を指で押し潰すようになぞった。元々消えかかっている印字とはいえど、それだけで綺麗サッパリなくなったりはしない。
彼女の指は、四家の名が連ねられた箇所の、月野瀬、という部分に当てられていた。
「…人柱役は、村の外に送り出される」
疎遠の限りを尽くす父方を除けば、私の親戚はこの片田舎に住んでいる連中以外、誰もいない。
もしも、ここに書かれている荒唐無稽な伝承通りに一切が行われてきたのだとすれば…。
嫌な予感が消えなかった。
払っても、払っても積もる埃のように、私の心の四隅から中央に向けて侵食を続けている予感。
母は、人柱役として村の外に出されたのだ。
そこで、父と出会い、嫁入りし、子を授かった。
父が死んだとされても、そちらの名字を名乗り、月野瀬という名前から離れて生きていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
不意に、目に異物が入り込み、とっさに目蓋を閉じる。
汗だ。
気が付けば、額には波打ち際の泡のような細かい汗が浮かび、豊かな谷間にはじっとりとシャツが黒く濡れるほどの汗が溜まっていた。
ただ、気が付いたところで、それを拭う余裕はない。
ぽたり、ぽたり、と強く握った本のページに雫が落ちる。
じわりと滲んだ黒い痕を、苦々しい目つきで睨みつけながら、かごめは震える息を吐いた。
「次は…私じゃないっ…!」
書物に書かれたことが真実なのであれば。
次の人柱は、私。
さらに、今の葬儀役が風見であり、その彼女から、次の人柱である私が理由も明かされず、執拗に追いかけ回されていることを考えれば、一体何が起きているかぐらいは容易に推測出来た。
つまり、今回の一件は、『人柱の期限切れ』が原因で起こってしまった悲劇だ。
そして、私を人柱にするために、祖母の死にかこつけて私をここへ呼びつけた。
妙だと思ったのだ。祖母の遺体を見るどころか、棺にすら近づけないなんて。
おおかた、とっくの昔に祖母は死んでいて、あの家はゲストハウス程度に使われていたに違いない。
祖母の葬儀なんて、一つの合図に過ぎないのだ。
乱れる呼吸を整えるため本棚に手をつこうとしたが、思ったよりも足元がふらつき、倒れかけた拍子に、すっかり硬直してしまっていた山ノ瀬の肩に触れてしまう。
気持ち悪い、などとは思わなかった。死体への嫌悪感も、明らかにここへ来るよりも弱くなっている。
だが…。
かごめは一瞬のうちに顔を怒りで紅潮させ、彼の体を椅子から突き飛ばした。
無残に倒れる彼の土色の顔が、冒涜的行為に抗議するかのように、かごめのほうをごろりと見返した。
「はぁ、はぁ…くそっ!」
私は、殺されるために呼ばれたのか。
違う、それ以前の問題だ。
殺されるために、生まれたのだ。
そして、仮に今後子どもを産んでいたとしたら、それも殺されるための命。
「私は、私たちは、取るに足らない些末な犠牲ってわけ!?」
許せない。
そんなことで母は殺されてしまったのだ。
そして、このままでは私も、あのミイラと同じ末路を辿る。
しかも、それに巻き込まれて白雪は死ぬかもしれない。
こんなことが、許されていいはずがない。
誰かを犠牲にし続けることで成り立つ平穏など、偽りのものだ。
数多の骸を下敷きに、呑気に茶を飲み、家畜や作物の世話が出来るというなら、それこそ、怪物に違いない。
止めなければ――いや、単に止めるだけでは駄目だ。それでは、また今と同じ悲劇が何十年後かに繰り返される。
終わらせなければ。
…しかし、どうやって?
怪物を殺す?いやいや、銃弾を通さない相手にあまりに無謀だ。この村にある急ごしらえの武器だけでやれるとは、とても思えない。
村人全員で避難することも不可能。
村の境界に謎の結界があって、その結界を消すことの出来る方法が、今のところ、新たな人柱を立てるしかない現段階では…。
かごめは、ありとあらゆる可能性を模索した。
谷底に突き落とす、焼き払う、どこかに閉じ込めるなど…。とにかく、考え得る全てを。
しかし、それらの尽くが、あの怪物の常軌を逸した強靭性と、不可思議な結界によって阻まれる。
――…無理なのか?やはり、私が犠牲になるほかないのだろうか…。
不意に、書物に書かれていた一文が、かごめの脳裏に稲妻のように現れた。
――子どもが出来なかったり、本人が雲隠れしたり、死去したりすれば、同じ家の者が代替えとして人柱となるのだ。
自分が瞬時に考えた発想で、かごめの背中には鳥肌が立ってしまっていた。
駄目だ。それだけは駄目なのだ。
かごめは、自分と白雪のことだけを優先しそうになった醜い自分を叱咤していたのだが、その中で、どうして風見があれだけ鶴姫を大事に扱っているかが理解出来た。
鶴姫は、次期葬儀役でありながら、同時にスペアでもあるのだ。
私という、死ぬために生まれた、生命としては出来損ないと呼んでも差し支えのない人間が逃げ出したときの。
おそらく、この村の影の部分については、ある程度の年齢になってから教わるのだろう。だから、鶴姫は何も知らない、知らされていない。
今にして思えば、村人たちが私から子どもを遠ざけていたのも、余計な詮索や接触を避けるためだったのだ。
…ああ、そうだ。白雪が言っていた、家畜がいなくなっていたという話も、書物に書かれていた儀式のプロセスの一つか。
気づきようもなかったとはいえ、畜生、全く警戒していなかった自分が情けなくて仕方ない。
しばらく、かごめはその場に立ち尽くして、脳味噌に搭載されたエンジンをフル回転させていた。
しかし、五分もしないうちに、彼女は山ノ瀬の血が固まりつつあるデスクを両手の拳で叩きつけて唸った。
「あぁ、くそっ!」
次の一手が浮かばない。
じわじわ、と神経性の毒みたいな絶望が、かごめの影の底から手を伸ばし、その散り散りになりそうな希望を奪い去ろうとしていた。
俗に言う、戦う気力が弱々しく震えそうになっていたところで、部屋の扉が大きな音を立てて開かれた。
入り込んで来た女性の顔を見て、かごめはほぼ反射的に怒鳴りつけていた。
「風見!」
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