あの日の約束 2
感無量なのか、言葉もなく白雪が小走りで寄って来る。走るには距離が近すぎる気もしたが、それを指摘するほど無粋な人間ではない。
胸に飛び込んで来た白雪を優しく受け止める。
資格だなんだと言い訳することをやめたかごめは、柔らかな手付きで白雪の腰と背に手を回すと、ゆっくり目を閉じた。熱を帯び始めた目頭を、大人しくさせるために。
白雪の諦めの悪さが、自分をここまで引き戻してくれた。
確かに、ここは地獄の底だ。しかし、終焉の地ではない。
まだ、やりなおせる。
歳を取れば、誰もが終わったと妄信してしまう青春の輝きを、再び手にしようと藻掻くことが、その続きが出来る。
そのためには…。
かごめは白雪の肩に手を置いたままで、優しく体を剥がした。そして、自分を上目遣いに見上げてくる彼女にはっきりとした口調で言った。
「生きてここから抜け出そう、白雪」
現世の恩を地獄で返すわけにはいかない。なんとしてでも、ここから抜け出さなくては。
「うん」と鼻の詰まった声で返した白雪に、さらに問う。
「村の出入り口からは出られないって、本当だと思う?」
「多分、それは本当だよ。実際に試しに行って戻って来た人たちの様子からして、とても演技だったとは思えない」
「…そう」
話を聞いてみると、村の出入り口だけではなく、森林を抜けようとしても同じことになるそうだ。摩訶不思議な話だが、今さら驚きはしない。
「どうしたらいいのかな…」
不安げに呟く白雪に、かごめが淡々と答える。
「何か、方法があるはず」
「方法?」
小首を傾げる白雪の言葉の後に、声になっていない、『どんな?』という問いがあった。
「この村から出られない、っていうことにも、何か仕組みがあるはず。だったら、その仕組みを理解して、壊すか、利用するかすればいい」
「どこか隙がないか、探すの?」
「そうじゃなくて…、何がこの村を特別にしているのかを考えるの」
未だに釈然としていない様子の白雪の鼻先に、人差し指を立ててから、説明を続ける。
「この世の全部には理由がある。例えば、大昔の人から見たら、火が燃えるのって奇跡や魔法みたいなもので、コントロール不可能だったわけでしょう?でも、今では酸素が必要だとか、可燃物だとか、科学的な解明がなされて、かなりコントロールすることが出来るようになっている。仕組みを知ることが大事なのよ」
暗唱していたように一気に語ったかごめを見て、白雪は驚いたように目を丸くしていた。赤くなった目がウサギみたいだ、と何となく思う。
やがて彼女は口元を緩めると、淑やかながらも、いたずらっぽく言った。
「じゃあ、私たちは大昔の人?」
「そうなるね」と肩を竦めてみせる。「さっさと現代人に戻るわよ」
そう口にしたかごめは、白雪の肩から手を離し、くるりと進行方向へと向き直った。そのほんの少し後ろ(ほとんど隣と言ってもいい)から、同じ速度で歩いてついてくる白雪がさらに問いかけた。
「でも、心当たりはあるの?」
「心当たりしかないでしょ?人がまともに通れなくなる、結界みたいな非常識的なものよ?それなら、同じように、私たちの知識の範疇からはみ出たものが関わっているに違いないわ」
「それって、あの怪物?」ハッとした顔つきで、白雪が言う。
「そう。白い巨人に、目無し女。あれが一体何なのか考えれば――」
「待って、かごめちゃん。目無し女って、何のこと?」
言葉を遮られて一瞬だけ思考が止まったが、即座に再起動させ、白雪に事情を話した。
自分と鶴姫が襲われたこと。
枯れ木みたいに細い体なのに、尋常ではない力の持ち主であること。
首が反転しても、動き続けること。
…鶴姫の目をくり抜こうとしていたこと。
我ながら、口にしていて寒気のする話だった。白雪にとってもそうだったようで、ただでさえ白い顔が、月の光を浴びたように青白くなっている。
しかしながら、目無し女は地下に閉じ込めたということを伝えると、安心したように小さな笑みを漏らした。
「一度も見かけてないの?」
「うん」
「村の連中に、話も聞かなかった?」
「うん。みんな、あの怪物の話しかしてなかったよ」
妙な話だ。自分と鶴姫だけが襲われたのか?
不運だったのか、それとも、そこにも何らかの理由があるのか…。
あの女の姿を思い出す。
四肢はミイラみたいに細くて、白装束の襟元から見える鎖骨は異様に浮き出ていた。死体がそのまま動いているみたいだった。
「とにかく、あれが何なのか調べてみなきゃ。村長の家に、蔵書室があったから、そこで調べてみるしかないかもね」
「あ、あのね、かごめちゃん…」
「ん、何?」
何か言いづらそうにしている白雪の顔を覗くと、バッと、反射的に逸らされた。少し前なら苛つく動作だったが、今では愛らしささえ覚えてしまうのが、我ながら滑稽だ。
白雪はしばらくもじもじとしていたかと思うと、ややあって、頬を赤らめながら告げた。
「お祖母様の家に寄ってもいい、かな?」
「…言ったと思うけど、あそこは死体だらけだよ」
顔をしかめて返すかごめに、慌てたように早口で続ける。
「あのね、その、私、着替えたいの…」
「は?」目を丸くするかごめ。「き、着替える?」
何も今わざわざ着替えなくとも、とかごめが不思議に思っていると、白雪は頬に手を当てて恥ずかしそうに俯いた。
「だって、私、こんな格好だし、それに汚れちゃってるし」
「え、ああ…、まあ?」
確かに彼女は寝間着のままだったし、方々を駆け回って泥や土、埃やらなんやらで汚れていて、なんなら、返り血までついている。
「いや、でもさぁ…」
わざわざ危険を冒してまですることではないのでは、と口にしかけたところで、白雪が不意に表情を暗くして唾棄するように告げた。
「折角のデートなのに、汚らしい血がついてるなんて…嫌なの」
デート、汚らしい…。
二つの単語が鼓膜に引っかかったところで、つい先刻、大立ち回りを演じた白雪のことを思い出した。
カッターを躊躇なく振りかざし、相手の頬に風穴を空け、崩れ落ちた男の横腹に蹴りを入れた白雪。
もしや、彼女はとんでもない狂人なのでは…。
ぞくりとした感覚と共に覗き込んだ白雪の顔には、少女がするような、青い羞恥心が宿っていた。




