地獄の底で、彼女は微笑む 2
ドン、と誰かが後ろから体ごとぶつかってきた。
「きゃっ」
「ごめん、かごめ!」
鶴姫だ。
か弱い力であっても、綺麗に羽交い締めの形を取られて、身動きが取れない。
「かごめちゃん!」視線を横に向けると、白雪も長篠を含めた村人たちに拘束されていた。
ふふ、と笑う風見と目が合う。
はめられた。
自分を心酔している鶴姫を、上手く利用したんだ。
悔しさに、全身に力が入る。だが、気が付けば鶴姫以外にも押さえつけられていて、本当に打つ手がなくなる。
――あぁ、くそっ!
頭の中でそう叫んだとき、指先に力が入ったのだろう、二連装散弾銃が閃光と轟音を発した。
弾みでトリガーを引いたことによって、鈍色の銃口から小さな鉛玉の群れが勢いよく空中に解き放たれた。
飛び立つ鳥の群れさながらのそれは、事務所の天井と壁に牙を突き立て、跳ね返りながら四方に拡散した。
幸か不幸か、銃弾が直撃するものはいなかったが、跳ね返った鉛玉がかすめ、苦痛に喘ぐ者や、皮膚の上にミミズのような赤い筋を浮かべる者はいた。
「離せ、離せよ!」
かごめはじたばたと、四肢を滅茶苦茶に動かして束縛から逃れようとした。しかし、数人がかりで抑えられてはどうしようもない。
「かごめ、落ち着いて。お願いだから、じっとしてて!」
「ふざけんなぁ!」鶴姫の声を聞いて、いっそう激しくかごめは暴れる。「鶴姫!アンタ、一体どっちの味方なのよ!」
「そんなの、私たちに決まってるでしょう?」
もはや、嘲笑を隠そうともしない風見が、顎だけで村人たちに指示を出し、かごめと白雪を事務所から引きずり出した。
白雪は、長篠ともう一人に連れられて引っ張り出され、かごめに関してはほとんど足が地面から離れており、餌が蟻に運ばれているかのようだった。
猟銃は取り上げられてしまい、せめてものとして連中の顔を殴りつけたくとも、体の自由を奪われていてそれすら叶わない。
甘かった。あのメモ書きのことをもっと信頼して警戒していれば、こんなことにはならなかったのに。
かごめの中に、憤りと後悔、焦り、不安…それらを混ぜ合わせて練り上げられた激情が湧き立つが、せいぜい怒鳴り散らすことぐらいにしか使えなかった。
「鶴姫、貴方はもういいわ。こっちに来なさい」と風見が呼びつけ、鶴姫がおずおずと離れていく。「貴方が怪我でもさせられたら、どうするの」
離れていく際にこちらを見つめていた鶴姫の瞳には、恐怖の色がはっきりと表れていた。
それはかごめに対しての感情ではない。
自分がやったことに対する不安から来る恐れだ。
「鶴姫ぇ!この、薄情者が!」
「ち、違うの、かごめ、だって、私…」
名指しで罵られ、鶴姫の顔色はいっそう青白くなった。すぐさま、風見が彼女を保護するように口を開く。
「あんな月野瀬の出来損ないの話、聞いては駄目よ、鶴姫。貴方は正しいことをしたの」
「風見さん…」
月野瀬の出来損ない…?
かごめは、風見の口から発せられた単語に、ささくれのような違和感を覚えた。
言葉にはしがたい感覚だったが、少なくとも、看過していいものとも思えない。
「なによ、出来損ないって」息を荒げながら、かごめが問う。
「言葉通りよ」
お前に教えることなど何もない、とでも言わんばかりに風見は冷たく返すと、かごめを抑えている村人たちに、彼女を奥まで連れて行くように命じた。
命令に従う人々の顔にも、恐怖の色が滲んでいる。しかし、鶴姫とは違い、それは風見に対するもののように思えた。
「くそっ!このサイコ野郎ども…!」引きずられながら、かごめが悪態を吐く。「かごめちゃん!」
血相を変えてかごめに手を伸ばす白雪の顔が、どんどん離れていく。
だから言ったんだ。私にはそんな資格はないって。
かごめは心のどこかで、すでに抵抗することを諦めていた。
諦めることに慣れてしまった自分は、もう、白雪の望むヒーローにはなれない。
かごめの口元に自嘲気味な笑みが浮かびかけたそのとき、夕闇をつんざく悲鳴が響き渡った。
その場にいた一同が驚き、声のしたほうを即座に振り向く。
輝きの弱い銀の刃から滴る、赤い液体。
頬を抑えながら、酸素を求めるように喘ぐ、男の姿。
唖然とした表情で、彼女から離れていく女。
ひゅん、と再び刃が弧を描いた。それを慌てて身を引きかわしたのは、長篠だ。
「ひ、姫川さん…?」長篠は信じられないものを見るような目つきで、鬼気迫る表情をした白雪を見つめた。
首でも絞められていたのかのような息遣いで、赤く染まったカッターを両手に握っていた白雪は、足元に蹲る男を一度足蹴にすると、辺りを見回し、それから何か見つけた様子で駆け出した。
かごめは、白雪の手首についた血から目が離せなかった。というよりも、彼女が人を傷付けたということが信じられずにいた。
虫も殺せないような、幼少時代の姫川白雪が脳裏に蘇る。
必ず郷愁と共にやって来るその影は、いつも泣いていた。
その思い出が呼び覚ました、いくつかの言葉と、約束。
それらは、眠っていたかごめの不屈の意思の竈に、再び火をくべるものとしては十分すぎるほど鮮烈な記憶だった。
「や、やめなさい!」
風見たち、村人の制止する声で再び我に返る。
白雪は今、外へと通じる扉を開けようとしている寸前だった。
初めかごめには、一体、何をそんなに必死に呼びかけているのか分からなかった。だが、ごうごうと燃え上がる炎が、長年鈍っていた彼女の脳味噌をフル回転させ始めたことで、ピンときた。
そうか、あの怪物は、扉をくぐる習性があるのか。人間に近い、といったほうがいいか。
わざわざ階段を下りたり、ドアノブを回転させたり、まるで人間みたいに動くのだ。
本来、あれだけ並外れた筋力があれば、ドアを壊すことも、建物と建物の間を飛び越えることも容易いはずなのに…。
これだけたくさんの窓があっても、破られずにいたことは、あの怪物の習性を利用した防衛手段によるものだったのか。
だが、だとすれば、白雪は…。
「かごめちゃん!」
建物中に響き渡るのではと思えるほどの大声で、白雪がかごめの名を呼ぶ。
咄嗟に注視した白雪の白い顔は、嵐の中にあっても天を仰ぐような、そういう狂気じみた信仰心みたいなものがたたえられていた。
綺麗だ、と場違いな感想が浮かぶ。
「私、言ったよね?かごめちゃんと一緒なら、どこだっていいって」
ガチャリ、と鍵が開錠される。
「誰か、早く止めなさい!」
風見の命令に何人かの村人が白雪へと走り寄るが、血の滴るカッターの刃先を向けられて動けなくなる。
再び、白雪の眼差しがかごめへと向けられた。
その瞳の奥に宿る光に、彼女が自分の命を投げ出しているということに気付く。
「し、しらゆ――」
「私は」と言葉を遮った白雪の後方で、ゆっくりと扉が開き始める。
鈍く、蝶番が軋む音。
ドアの隙間から差し込む夕焼けが引き連れてきたかのように、白い手がぬっと、ドア枠にかかった。
「地獄の底だって、この世の果てだって、かごめちゃんと一緒だから」
彼女の頬に伝う涙を見て、かごめは際限ない後悔に苛まれた。
どうしてあのとき、彼女にたった一言、彼女の望む言葉を言ってやれなかったのか。
どうして、今まで私を見放さずに、そばにい続けようとしくれていた彼女に、素直な『ありがとう』も言えなかったのか。
あぁ、後悔ばかりだ。
私を構築する分子の全てに、それがまとわりついているみたいに。
あるいは、いつだって私の背後にぴったりとくっついている、影法師みたいに。
扉を開け、身を屈めて入って来た白い巨体に圧倒され、白雪の体が数歩、下がる。
破壊の権化が、鎖を引きちぎり、解き放たれた獣のように身震いしていた。




