微睡みの中の不穏
夕日が東へと傾き、辺りは少しずつだが、暗くなっていた。外に出て周囲を見渡すには十分な光量だったが、木陰や照明のない部屋の隅などは、すでに不気味な夜の予兆がうごめいていた。
化け物に襲われて――この異空に囚われ始めてから、かなりの時間が経過していた。感覚的な推量にはなるが、おそらく、二、三時間は経っていることだろう。
度重なる緊張、恐怖の連続に精神は摩耗し、何度も死線を越えるために体を酷使していたので、睡魔はすぐそばまで忍び寄ってきていた。
倉庫で仮眠を取る者もいたのだが、男女入り乱れているし、そもそも疑心の対象となっている村の人間ばかりなのだ、あそこでは寝られやしない。
休憩室も人でいっぱいになっていそうだったので、他に手ごろな場所がないか、屠殺場の中を歩き回る。
道中すれ違う人々に怪訝な目つきを向けられるも、出来るだけ気にしないようにする。
――それにしても…。
肩越しに後ろを振り返る。
そこには、気まずそうな様子で口を貝のように閉ざしている白雪と、顔に、『やっぱり来るんじゃなかった』と書いてある鶴姫の姿があった。
自分一人でゆっくりしようかと思ったのだが、みんなのそばを離れようとしていたこちらに気付いた白雪が、慌ててついて来たことで、鶴姫もセットでやって来た。
小走りで寄ってくる白雪の表情が、置いて行かないで、とかつて彼女が口癖のように言っていたことを彷彿とさせて、郷愁の念に駆られた。
「無理に着いて来なくても、良かったのに」
「無理なんかしてないよ」と一瞬だけかごめを見て、それから目を逸らした白雪。
その白い頬に、窓から差し込む夕日が当たって幻想的だった。
かごめが白雪の横顔に見とれていると、わざとらしく鶴姫が咳払いをした。
考え事でもしているのか、白雪は気付かないようだったが、鶴姫はじっとりとした目つきで、かごめたちを見据えていた。
早く仲直りしなよ、と口だけ動かして急かしてくるが、問題はそんなに簡単ではないのだ。
血と肉、それから脂の溜まった排水溝の臭いを避けて、出来る限り作業場から離れる。
そうしているうちに、自然と一階の出入り口付近に移動しており、大きな搬入口がやたらと目についた。
屠殺場の受付兼事務所のような部屋に、手頃な就寝スペースを見つけた。念のために鍵をかけて、三人は隅のほうに蹲るようにして腰を下ろした。
なんとなく背中を壁に預けたかごめの右隣に、白雪がちょこんと腰を下ろす。
最初は人が二人ほど入りそうな空間を空けていたのだが、いつの間にか肩が触れ合うぐらいの距離にいた。
彼女に続いて、鶴姫もかごめの隣に座り込んだ。鶴姫の場合は、何の遠慮も含みもなく、初めからぴたりとくっついている。
「…ねぇ、二人とも」
「なに?」とかごめの呟きに二人が返す。
「そんなに寄られると、狭いんだけど」
「別にいいじゃん。減るもんじゃあるまいし」
「まぁ、それはそうなんだけどさぁ…」
こんな状況だ。確かに、誰かがそばにいることを感じられるよう、人の温もりに触れていたいというのも分かる。
ただ、鶴姫がそう答えたのは、正直、意外だった。てっきり、彼女は強がって自分だけ端のほうで眠るかと思っていた。
少しの間、渋っていたかごめだったものの、白雪に、「かごめちゃんがそばにいると、安心出来るから」と独り言のように呟かれたことで、しょうがなく、くっつくことについて許可を下す。
気が付けば、眠りの淵にいた。
両隣の二人が寝息を立てていることからも、刹那のまどろみではないことが予測出来る。
自分で思っていたよりも、疲労困憊だったようだ。ほとんど、気絶するようにして眠りに落ちたのではないか。
こんなにも疲れたことなど、一体、いつぶりだっただろうか。
記憶の底をさらうかごめだったが、それらしいものは何も見つからない。
かごめは、両隣の姫君たちを起こさないよう、細心の注意を払いながら軽く伸びをした。
どれだけ眠っていたのかは分からないものの、色んなことが起きてパンクしかけていた脳味噌は、かなり軽くなっているような気がした。
やはり、睡眠は偉大だ。
かの天才発明家は、人々が寝過ぎだと指摘し、自分は死んでからゆっくりと眠る…と言ってのけたそうだが、凡人である私たちにとっては、眠りこそがクリアーな思考を保つための唯一かつ、最上の手段に違いなかった。
思考に余裕が出来たことで、かごめはやはりもう一度、風見ときちんと話をするべきなのではと考え始めていた。
あまりにも不審な点が多すぎる。記入者不明のメモに引きずられすぎているかもしれないが、それでも村人たちの振る舞いは何かが妙だ。特に、地震の後からは。
不気味な強制力を秘めている、村の古い慣習。
山ノ瀬が言っていた、薬のこと。
かごめ唄に過剰な反応を示しつつ、それを誤魔化した村人たち。
――…何も知らないなんて、もう言わせない。
善は急げ、だ。
とにかく、二人はこのままにしておいて、自分だけでも風見のところで真実を追求しよう、とかごめが考えていた、その矢先だった。
事務所の外で、何かが動いている気配がした。足音、というよりかは、空気が動いているような感覚。まあ、ありていに言えば、勘が働いたのだ。
「…ん?」
出来る限り物音を立てずに、中腰の姿勢になって受付の窓に近寄る。
警戒しすぎだろうか、と自分でも変になっていたかごめの目に、夕日に照らされる何人かの人影が飛び込んできて、思わず反射的に身を屈めた。
ドクン、ドクン、と急速に加速していていく心音と共に、震える吐息がこぼれる。
「…どうかしたの?」
不意に声をかけられて心臓が縮み上がったかごめは、声のしたほうに視線を向けた。
そこにいたのは、眠そうに目をこする白雪だった。慌てて唇の前に指を立て、静かに自分のそばへと来るように手招きする。
「どうしたの」と這い寄るようにして、隣にしゃがんだ白雪が囁く。
「分からないわ。でも…」
言葉の途中で、もう一度かごめは窓の向こうを覗いた。
ほとんど死角に入ってしまっていた。そして、その死角とはこの事務所の扉の前のことだ。
誰かが、それも一人ではない不特定多数の何者かが、今私たちのいる場所に入り込もうとしている。
夕闇の薄暗さと静けさを利用して、狡猾なハイエナみたいに襲撃の準備をしている。
そういうふうにしか考えることが出来なかった。
実際、そうとしか思えない静寂だ。音を立てないように誰かが動いている、というのがありありと伝わってきそうな…、そんな静けさ。
「誰かが入って来ようとしてる」
「え?誰かって、誰?怪物?」
「違う、人間よ。いや、そうね、ある意味で怪物なのかも」
これでは多勢に無勢だ。せめて、何か武器があれば。
かごめの視界に、鈍色の古ぼけた銃が映る。それは、未だに眠りこけている鶴姫の頭のすぐ上にあった。机の上で、彼女と同様に静かに眠っている。
借りるか?しかし、あれは私にはまともに扱えない。だが、そうだ、使える必要はないのだ。あくまで、抑止力となればそれでいい。
相手の目的が、図りようのない今、自分たちの身を守るものは必須だ。




