落伍者の走り
こちらで三章は終わりです。
本日中に四章もアップし始めるので、
よろしくお願いします!
一世一代のレースは、呆気なく始まった。
静かな熱気をたたえ沈黙を保つ観衆もいなければ、神の祝福と思える青天井もここにはない。
それでも、体に血液を巡らせ続けるエンジンだけは、今までにないくらい快調だった。
足も軽い、体も。
なんだ、たった一人でも走れているじゃないか。
私の目の前には誰もいない。それどころか、ゴールテープすらも。
コンクリートの階段を爆速で、二段飛ばしで駆け上がる。
後ろから迫ってきている怪物の荒い息も自分の吐息にかき消されて、意識の遥か向こうに追いやられていた。
二階分階段を駆け上がると、そのまま長く真っ直ぐな廊下に出た。リネンで出来た床を蹴り上げ、直線でさらに加速する。
このまま走り続ければ、怪物どころではなく、何も果たせなかった自分も、悪夢も、過去も、もしかしたら、時間すら置き去りに出来るのではないかと思った。
しかし、現実はやはりそうではなく、真後ろから何かが蹴飛ばされる音が聞こえてきた。脅威はすぐそこまで迫っているらしい。
追いつかれるかもしれない、と考えたかごめの中には、恐怖というよりも、どこか悔しさに近いものが浮かんでいた。
今は、お願いだから止めてくれるな。
あと少しで、昔に戻れる気がする。
そう、白雪が責められないために全速力でグラウンドを駆けた、あの日の自分に。
廊下の突き当り、開け放たれた扉の向こう側に隣の建物が見える。
二つの建物の非常階段が、数メートルの幅を空けて隣り合うように並んでいた。
迷いなく足を回転させ、加速する。
ほとんど崩れていない自分のフォームが、私をさらに強く勇気づける。
際限なく分泌されているアドレナリンの導くままに、廊下を突き抜け、屋外の踊り場に出る。かごめはそれでもまだ止まらず、階段を下りずに直進した。
見えない踏み切り板の前で力強く足を上げ、手すりを踏み台にして高く飛翔した。
空も飛べるような心地になっていたかごめだったが、自分の体が重力に引かれ、想像していたよりも前に進めなかったことで、急速に冷静さを取り戻した。
――落ちる。
向かい側の建物の同じ階に飛び移る予定で地を蹴ったのだが、想像していたよりも距離が離れていたようだ。
三階部分に額を打ち付けそうになりながらも、なんとか二階の踊り場に着地する。いや、着地なんて言葉は格好つけすぎだ。非常口の扉に、ほとんど体からぶつかるようにして突っ込んだのだから。
「うっ…!」
ぶつかった衝撃で呼吸が出来なくなる。
骨でも折れたのではなかろうか、と怖くなったが、思いのほか体はすぐに動いた。もちろん、節々は痛むが。
自分が飛んだ地点を確認するため、振り返る。思いのほか遠くにその場所はあった。
あそこから飛んだのか…?こんなの、奇跡じゃないか。
我ながら無謀すぎる勇気に呆れたが、おかげで化け物は追って来られないようだ。
だが、安心したのも束の間、すぐに白い怪物が反対側の建物の三階に姿を見せた。
ぎょろり、と白濁した大きな瞳がかごめを捉える。
「やばい」
慌てて目の前の扉のノブを回し、手前に力強く引っ張る。しかし、扉はびくともしない。鍵が掛かっているのか。
しょうがない、下の階に下りるほかない。
そう思ったかごめが体の向きを変えたと同時に、反対側にいた怪物が長い手足をダイナミックに動かして、非常階段を下りていくのが見えた。
あの脚力があっても、階段を下りるのか。なるほど、わざわざドアを開けたことといい、意外に紳士的な生き物らしい。
そして、獲物を追い詰めるという意味でも正しい。
下に回られれば、私はもう上に向かうしか選択肢がなくなる。
急いで階段を上る。これが天国への階段にならないことを切に願うばかりだ。
三階に到達し、緊張と恐怖に指先を震わせながらドアノブに手を掛けた。
「あぁ…!くそっ!」
無慈悲にも動かない、鉄の扉。
ここも、鍵が掛かっている。
「どうして開かないのよ!」
無駄だと分かっていながらも、滅茶苦茶な力でドアを前後に揺する。
下から駆け上がって来る怪物の足音に、心臓が縮み上がり、呼吸がさっきとは違う意味でままならなくなる。
脳裏に、怪物によって惨殺されたいくつもの死体たちが蘇った。その凄惨さに、全身がガタガタと震え出す。
あんなふうに、食い殺されるのは嫌だ。
ならば、いっそ飛び降りるか?
頭を手すりの縁から外に出し、地表を確認する。
10mほどの高さだ。大けがは免れない。
だが、ここで待っていても、どのみち死は避けられない。仮に死ぬとしても、食い殺されるよりマシなのではないか。
勇気を振り絞り、片足を手すりの縁に乗せた。だがその瞬間、体が硬直して全く動かなくなってしまった。
――死にたくない。
そう、願ってしまった。
一度願ってしまえば、もう駄目だった。
先ほどまでの自信は霧散し、過去の己の幻影も消えた。残ったのは、臆病で何も果たせなかった落伍者としての自分だけ。
体が痺れて動き出せないまま、気がつくと、もう何段か下のほうにまで化け物が迫ってきていた。
白い体躯が、夕日を浴びて薄い橙色に色づく。
剥き出しの歯の間からは、おどろおどろしい唾液がこぼれ落ちており、怪物がディナーを楽しみにしていることが分かった。
カツン、と怪物の右足が踊り場の鉄の床を踏みつける。
「…い、いや」抑え込んでいた恐怖が、堰を切ったように涙と共にあふれ出す。「来ないでよ!」
雷鳴のような唸り声を上げた怪物が、今まさにかごめの体に飛びかかろうとした、そのとき、何の予兆もなく、閉ざされていた扉が勢いよく開いた。
そして、巣穴から飛び出てきた小動物のような機敏さで、黒い影がかごめと怪物の前に立った。
その長い黒髪が、目の前で揺れたのを視認した直後、何かが噴出される音と同時に、辺りが白い霧に包まれる。
妙な臭いと、目に染みる感覚に、反射的に両目を閉じたかごめだったが、ぐんっと、何かに手を引っ張られ、誰かに先導されるがままに足を動かした。
ガシャン、という音。それから、カチリ、と小さい音。さらにそれから、ドアノブが激しく上下に動かされる音が数秒響き渡った。
一体、何が起こったのだ、いや、それよりも、さっきの後ろ姿は…!
「大丈夫、かごめちゃん?」
懐かしい、誰よりも聞きたかったその声に、かごめは無理矢理に目を見開いて、中腰の姿勢のまま声の主を見上げた。
自分と違って、丁寧にブラッシングされた黒い長髪。
知性に満ちている、黒目がちな瞳。
ただ、見慣れた気弱さはそこに微塵もなかった。
よく知っている人物のはずなのに、まるで知らない、そんな不思議な感覚。
だが…、そんなことはどうでもいい。
「あぁ…!」言葉もないままに、彼女の体を強く抱きしめた。「か、かごめちゃん!?」
「良かった…、本当に、生きていて、良かった…。白雪」
かごめは、気が動転した様子で百面相をしている姫川白雪に気付かないまま、彼女の存在をより近くで感じるために、抱きしめる腕の力を強くするのだった。
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