私の中のスターター 2
意外と苦労したな、と思い直したのも束の間で、すぐに自分も窓枠に手を掛けて体を押し上げた。そして、流れるような動作で足を跳ね上げ窓枠に引っ掛けて、完全に乗り越える。
向こう側に滑り落ちるように着地しつつ、我ながら脚力はたいしたものだ、と感心する。
過去、自分の培った力が衰えていないことが、今は誇らしい。
すっと立ち上がると、恨めしい顔をした鶴姫と目が合った。
「…なに?」
「かごめの変態。最低…!」
「はぁ?何が」
「お尻触ったじゃん」
「しょうがないでしょ、ああでもしなきゃ、上がれそうになかったんだし」
「最初から、これが目的だったくせに!」
「…目的って、あほくさいなぁ」
「見たでしょぉ!パンツ!」
「そりゃぁ、見えたけど」
「馬鹿!」
「そんなスカート履いてるのが悪いんじゃない、全く…」
鶴姫の小言に眉をひそめながら、思春期とはこんなに面倒だったのか、とかごめがうんざりしていた、そのときだった。
上の階から、何かが勢いよく近づいてくる音が聞こえた。
パラパラと天井から落ちてくる、石のくずと埃…。とても人間の歩く衝撃ではない。
かごめはごくりと息を飲んで、鶴姫と共に姿勢を低くした。
――間違いない、あの化け物が迫っている。
今から逃げても間に合わない。
そう判断したかごめは、速やかに部屋の端のほうへと移動した。
この部屋はどうやら休憩室か何かのようで、大きな机と椅子がいくつも並んでいた。幸運なことにテーブルクロスが引いてあるので、一番端の机の下に鶴姫と滑り込んだ。
「かごめ…っ!」
「しっ、静かに」
不安さに居ても立っても居られない様子の鶴姫を、一言で黙らせる。
数秒、息を潜めて耳を澄ます。予想していた通り、少し離れた場所で鳴っていた足音がこの部屋に飛び込んできた。
興奮したような唸り声に、全身の毛穴が開き、肌が粟立つ。歯の間を抜ける吐息で気付かれないだろうか、と恐ろしくなる。
――…大丈夫だ、このままじっとしていれば、きっと諦めて化け物のほうからどこかに消える。
心の中でガタガタと震えている小さな自分を抑え込むためか、気がつけば鶴姫の手をぎゅっ、と握っていた。いや、どうだろう、彼女のほうから握っていたのかもしれない。
まぁ、どちらでもいい。
布一枚隔てた向こうで跋扈する暴力の化身の前には、本当に些細な問題だ。
じっとしているうちに、怪物の気配が濃くなってきた。足音も近い。
どちらからともなく、強く手を握り合った。
そうでもしなければ、叫びだしそうだった。
いつまでも続くかと思われた緊張だったが、ようやく化け物も興味を失ったらしく、ミシ、ミシと音を立てて、元来た方向へと戻っていった。
ほっ、と安堵の息をこぼしかけた刹那、静寂を打ち破る、高い大きな音が辺りに響いた。
「ひっ!」と鶴姫が悲鳴を漏らす。
おそらくは何かが落ちて割れた音だろう。もしかすると、机の上に皿でも置いてあって、怪物が動いた拍子に当たったのかもしれない。
だが、そんなことはどうでもいい。
本当の問題は、この耳が痛くなるような静寂のほうだ。
化け物の足取りが、止まっていた。
「ご、ごめん…」蚊の鳴くような声で鶴姫が囁いた。
そのか細い声ですら、こちらの場所を知らせてしまうようで恐ろしい。
――頼む、そのままどっかに行ってくれ。
目をつむり、懸命に祈る二人。
しかし、その願いが聞き届けられることはなかった。
ミシッ、ミシッ。
再び、リズムを刻み始める、死神の足音。
ガタガタと震えているのは、私の手か、鶴姫の手か。
それを確認する間もなく、怪物の気配が近くなる。
そして、私たちの隠れているテーブルのそばで、止まった。
死だ。
死という隣人が、すぐ目の前に差し迫っている。
…走るか?
いや、無理だ。この距離では、さっきみたいには上手くいかない。
そもそも、建物の構造も分からないのだから、逃げ回るにも限界がある。それに、直線でもなく、広い通路でもない可能性が高い以上、互いが邪魔になってまともに逃げ回ることなんて出来ないだろう。
ぎゅっと目をつむり、手を握る鶴姫を見やる。
もはや、ここまでか。
せめて、鶴姫が恐ろしい思いをして死なないで済むよう、ナイフで…。
かごめは、一瞬だけ自分の脳裏によぎった考えを即座に否定した。
――駄目だ、諦めるな。
怪奇小説家の夢も、陸上の夢も、父との再会も諦めた私だが、今や妹同然になりつつある鶴姫の命までも諦めるわけにはいかない。
そうだ…。
例え、自分の命を諦めても。
拍動する鼓動の勢いが、回転数が高まりつつあるエンジン音のように感じられて、かごめは得も言われぬ昂揚感に包まれていた。
ゆっくりと、鶴姫と繋いでいた手を離した。
それはまるで、生きることをやめてしまうような…、そんな恐ろしくも、儚い、刹那的な感傷に満ちた一瞬だった。
驚いたふうな鶴姫の頭を、軽く撫でる。
化け物の気配に、耳を澄ます。
位置を把握し、可能な限り離れた地点からスタートを切れるよう、準備する。
呼吸を整える暇もないが、幸か不幸か、スターターを待つ必要もない。
目を閉じて、鳴らない号音を鳴らすためのトリガーに、指をかける。
走者は私だけだ、そう思えばいい。
どこまでも、ただ走る。それだけだ。
かごめはゆっくりと目を見開き、撃鉄を下ろした。
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