私の中のスターター 1
高いフェンスに囲まれてはいるのは、中で行われる血生臭い行為を、間違っても子どもたちが目の当たりにしないで済むようにだろうか。
ここから見える二階のドアや、ベランダの手すり、フェンスの金網の一本一本に、埃のような錆が蔓延している。
赤黒いそれは、祖母の家で初めて見た乾いた血溜まりを彷彿とさせる。
「鶴姫、どうやって入るの?ここ」
嫌な記憶を完全に掘り返される前に意識を逸らす。鶴姫がいてくれて本当に良かったと思う。
「分からないよ、私だって、入ったことなんてないし…。とりあえず、ぐるっと回る?」
鶴姫の提案に従い、フェンスに沿って屠殺場の周囲を探った。幸い、半周ほどした地点に通用口を見つけることが出来た。一先ず、フェンスの内側には入り込めそうだ。
ただし、通用口といってもドアはない。ドア枠はあったが、老朽化したためか、近くに打ち捨てられるようにして放ってあった。
「簡単に入れちゃうね、ここ」と鶴姫が不安そうに呟いた。
「ええ、そうね」
「お母さんたち、大丈夫かなぁ…」
両親を案ずる言葉に、かごめの胸がチクリと痛む。
こんな嘘、吐くんじゃなかった。
もちろん、今更後悔しても遅い。
こうなれば、鶴姫が真実を知ることになるまで、役者として踊り切るしかない。
「きっと、大丈夫よ」
心にもない言葉を吐く。こうして地層のように重なる嘘を、苦々しい気持ちで送り出すのは本当に嫌気が差す。
「ありがと」鶴姫が今までにないぐらい、素直で眩しい表情を向けてくるものだから、なおのことだ。「かごめのお母さんも、無事だといいね」
軽く頷く。今度はまざまざと母の死に顔が思い出されて、言葉を口にする余裕もなかった。
辺りの様子を窺いながら中に入れる場所を探す。窓を叩き割れば苦労せず入れそうだが、大きな音を立てることになるのは、極力避けたい。
人一人通れるくらいの非常口らしき扉は施錠されており、搬入口らしい鋼鉄の巨大な扉はとてもではないが動かせそうにない。
参ったなぁ、とかごめが扉を見上げていると、少し離れたところから、鶴姫がかごめの名前を呼んだ。
「かごめ、こっち」彼女に呼ばれるままに大きな窓に近づく。「ここ、開いてるみたい」
軽く手で引くと、確かに動いた。「本当だ、やるじゃん」
「ふふん。で?サボりは何か見つけた?」
「サボりって、私だって、別に…」
「嘘、扉見上げて呆けてたじゃん。困るなぁ、本当」
ニヤニヤと勝ち誇った笑みを向けてくる鶴姫に、眼尻が吊り上がる。
この辺りで釘を差しておかなければ、ますます助長しそうだ。
さっき考えた通り、短いスカートをまくり上げて恥をかかせてやろうかと思ったものの、さすがに実行には移せそうになかった。
もしかすると、中には人がいるかもしれないのだ。こんな袋小路で大声を上げて、化け物に一網打尽にされては、死んでも死にきれない。
「生意気言ってないで、さっさと中に入るわよ」
かごめはある程度の隙間を空けてから、窓枠に手をかけた。しかし、そうして中に入ろうとしていたとき、ぐっと体を引っ張られてしまった。
「なに、どうしたの」不服さを隠さずに、自分を掴んだままの鶴姫に尋ねる。
「や、あのさ、これ…上がれる自信ないかも…」
「えぇ?」
そう言われて窓のほうを見ると、言われてみれば地面から随分と高い位置にある。ただ、絶対に無理かというと、そうではない。おそらく苦労はするだろうが私は可能だ。
鶴姫に、とりあえずやってみるように伝えようと顔を向けたところで、あぁ、と合点がいった。
「…小さいものね」
「ち、小さくないし!」
「鶴姫、貴方身長いくつ?」
「…155cm」
「嘘」ぴしっ、と顔を背けた鶴姫のおでこを指で弾く。「150cmあるかないかでしょ」
ぷくりと頬を膨らませた鶴姫を無視して、窓枠を再度確認する。
確かに、170cm近くある自分でも大変そうなのだ。鶴姫には無理だ。
「しょうがないなぁ」と呟きながら、窓枠のそばに手を付くよう鶴姫に伝える。「な、何するつもり?」
「何って…、肩車でしょ」
「嫌」凄まじい速度で返される。すでに予想していたのだろう。「絶対、嫌」
「あのねぇ、嫌って言っても、しょうがないじゃない。チビなんだから」
「だからぁ!チビじゃないって。かごめがデカすぎるのよ!」
…それはそれで傷付く。
「…はぁ、じゃあ、どうするのよ」
「上から引っ張り上げれば」
引っ張り上げてもらう側とは思えないほど、傲慢な口調だ。
「無理よ。人一人引っ張り上げるのって、想像しているよりも腕力がないと出来ないのよ?」
「じゃあ、踏み台になってよ!」
「そんなの、私が嫌です。わざわざ踏みつけにされたくありません」
しばらくそのやり取りを続けていたのだが、かごめが不貞腐れたように、「じゃあ、私は先に行くから」と告げたことで、ようやく鶴姫のほうが折れた。
壁に手を付かせて、後ろに回り込む。
小さくお尻を突き出して、顔を赤くしているのを見ると、少しだけ悪いことをしている気持ちになるものの、緊張してガチガチになっている鶴姫を見ていると、つい笑いがこぼれた。
「変なことしないでよね!」
「変なことって…」
子どもじゃないんだから、という言葉は飲み込んで、鶴姫の両足の間に頭を突っ込み、太ももを強く握る。
「きゃっ」短い悲鳴と同時に、鶴姫の体が持ち上がる。
思っていたよりもずっと軽い。ちゃんと食べているのか、不安になってしまう軽さだ。
――それにしても…。
「…うぅん」
肌の滑らかさといい、弾力といい、さすが十代は違う。二十代も後半に差し掛かりつつある自分とは、雲泥の差があることを感じてしまい、内心一人落ち込む。
「え、え?なに、何なの?や、やっぱり、重いんでしょ!そうでしょ!」
「いやいや、軽いって」
「じゃあ、何なの、今の変な声は!」
「…それは、まぁ…。聞かないで」
「もぅ!だから嫌だったんじゃん!」
「あぁもう、ほら、さっさと上がって!軽いとは言ったけど、キツくないとは言ってないんだから」
延々と騒ぎ立てる鶴姫を急かし、窓枠に乗り上げさせる。力が足りていないのか、体を向こう側に移動させるのに苦戦していた。
仕方ないので、肩に鶴姫の足を乗せたままで体を少しだけ離し、片手を自由にしてから丸みに乏しい鶴姫の尻を押して、建物の中に叩き込む。
彼女の短いスカートでは守りきれなかった白い下着が一瞬だけ見えたのとほぼ同時に、向こう側からカエルみたいな呻き声が聞こえた。
なんとか無事、鶴姫を建物の中に送り込むことが出来たようだ、とかごめは深いため息を吐いた。
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