最初の疾走
「鶴姫ッ!」びくり、と隣の少女が反応する。そして、かごめの視線の先から振り向くことなく何が起きているのか判断して、床下をものすごい勢いで這って進んだ。
大通りに出て、土の付いた膝を立て、転びそうになりながらも全速力で走る。自分が先頭に立っても道が分からないので、鶴姫の背中を押して先に行かせる。
途中、後ろを振り返りかけた鶴姫に前だけ見るよう怒鳴りつけ、地面を蹴り上げることに集中する。
振り向かずとも、死の気配はまざまざと感じられた。
奴は、私たちを追ってきている、とかごめは確信していた。
丘を駆け下り、一瞬で祖母の家に辿り着いたあの怪物の脚力を思い出し、身震いするような思いに駆られ、悲鳴が喉を裂いて飛び出しそうだった。
だが、鶴姫がそれをこらえているのだ。自分が情けなく泣き叫ぶわけには絶対にいかない。
遥か遠くに感じられていた村長の家の大きな門が、数十メートル先まで迫っていた。太い丸太と鉄で作り上げられた重厚な門は、ちょっとやそっとの衝撃では壊れそうにない。
息を切らしながら全速力を続ける。苦しいという気持ちは、際限なく体の底から湧いて来る恐怖と焦りに消され、忘れ去られていた。
先を行く鶴姫の、小柄だが綺麗なフォームで走る背中が目に入る。
ずっと昔は、こうして自分より速い走者の後を追ったものだ。
本当に小さい頃は、自分の前を行く者なんて誰もいなかったのに。
ふと、かごめはそんなことを考えた。
地を蹴り、風を切ることも。
文字を綴り、物語を編むことも。
何もかも半端で終わらせた自分だったけれど、
全てが無駄ではなかったのだと、何となく、頭の片隅で自分が呟くのが聞こえた。
あの日々がなければ、私はとっくにあの怪物の腹の中か、目を抉り出されているところだ。
先を行く鶴姫が門をくぐり抜けた。
それから素早く、門の施錠準備に取り掛かっている。
よもや、自分を締め出さないだろうな、と嫌な疑念が浮かんだが、彼女はちゃんとかごめのことを待っていてくれた。
「かごめ、速く!」
――…分かってるわよ、だいたい、誰がどう見たって全速力でしょうが。
鶴姫の目が、不安と焦燥の鈍い光に照らされ、輝いていた。
その中に、薄っすらと死の影が見える。
もしかすると、怪物は自分のすぐ後ろにいて、今にも薙ぎ倒される寸前なのかもしれない。
だが、それらの全ては杞憂で、何とか無事にかごめの体は門の向こう側へと滑り込めた。
間髪空けずに、背後で鉄の門が閉まる音が聞こえる。留め金が下ろされる音も、しっかりと聞こえた。
くるりと振り向くと、思いのほか白い怪物は遠くのほうにいた。
どうやら、奴も床下を潜り抜けてきたらしい。あの長い手足で、ご苦労なことである。
あの脚力をもってしても、さすがに仕留めきれないと判断したらしい。怪物は、大儀そうな歩調で近づいてくると、門の前で止まった。
二人は、初めてすぐそばで白亜の巨人を見上げることとなった。
やはり、大きい。
不気味なほどに筋肉質な肉体は、暴力のためにその生を受けたことを象徴するかのようだ。
じっと、彼女らを見ていた。
なぜか、かごめもその場を動けなかった。
「行こうよ、かごめ」軽く、鶴姫が手を引く。「下手に刺激して、壁を壊されたら不味いって」
確かに、この家は正面こそ大きな門に守られてはいるが、それ以外の部分は、あくまでも木の壁に囲まれているにすぎない。
この怪物がその気になれば、中に入ることなどは容易く思われた。
鶴姫は、おぞましいものから目を背けるように、素早くかごめの手を引いて、家の玄関先へと移動していった。
だが、どこか後ろ髪引かれる思いだったかごめは、いつまでも怪物のほうを見つめていた。
そしてまた、怪物も同様にかごめただ一人を見つめていた。
鉄の門を破ろうと、滅茶苦茶に力を振るうこともなく、
歯を剥き出しにして、仕留め損なった獲物を脅かすでもなく、
どこか違うところから入れないかと、知能を働かせるでもなく、
ただ、じっと、何かを確かめるようにこちらを見ていた。
「私を見てる…」ぼそっ、と鶴姫に手を引かれながら呟く。
――何だろうか。この既視感は。
何かが、私の心に棘を残した。
集会所としても使われているというだけあって、入ってすぐ玄関を越えれば大広間だった。
村人全員、というのはさすがに誇張しすぎだが、半分は余裕で集まれるだろう広さは、都会では豪邸でもない限り見ることの出来ないものだ。
怪物がいたせいでろくに外から観察できなかった村長の家は、想像していた以上に大きい。この大広間から続く扉だけで、二階も含めれば九つはある。
吹き抜けになっている広間は、部屋の端のほうにある階段を上がれば、二階に辿り着けそうだ。
人がいる気配はない。しかし、どこかに隠れているという可能性も高いだろう。
まずはどこから探すか…。
そう考えていたかごめの隣で、急に鶴姫がへなへなと腰から崩れ落ちた。何事かとぎょっとして振り向くと、彼女は唇を青紫にして、両腕で体を抱くように震えていた。
そばに寄り、肩に触れながら声をかける。
「鶴姫、どうしたの?怪我でもした?」
おずおずと顔を上げた鶴姫は、信じられないものでも見ているふうな目つきで、かごめを見つめた。
「どうしたのって…。何でかごめは平気なの?」
正気を疑うような発言と眼差しに、困惑しながら言葉を探すも、何も浮かばない。
呆れたように口の端を上げた鶴姫は、「神経が図太すぎる」と皮肉めいた言葉を残して俯いた。
どうやら、心身共にかなり疲弊しているようだ。彼女は少しここで休ませて、自分だけで屋内を探索しよう。
幸い、ここは安全そうだ。自分も少しばかり休むことを考えたが、白雪が見つかっていない以上、のんびりはしていられない。
誰か生き残りがいるかもしれないし、この異常事態を解き明かすヒントがあるかも――いや、さすがにそれはホラーゲームのしすぎか。
白雪を見つけるまでは、村から出るつもりはない。
そもそも彼女は、この村とは何の縁もゆかりもない。
鶴姫のようにここに住んでいるわけでもなければ、自分のように、親戚がいるわけでもない。
完全に、巻き込まれてしまっただけなのだ。
何としても、見つけなければ。
例え、それが生きていようと、なかろうと。
読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!
ご意見・ご感想、ブックマーク、評価が私の力になりますので、
応援よろしくお願いします!




