目無し 2
…澱んでいる空気の中、そこに佇んでいたのは、虚ろそのものだった。
真っ白い肌に、死に装束のような白い着物。
着物には黒い斑点がびっしりとこびりついており、目の周りには着物と同じような白い布が巻かれていた。
女だった。
今にも消えそうなそれは、身動き一つしないまま、こちらを見つめていた。
いや、それはかごめがそう思ったにすぎず、実際のところがどうなのかは分からなかった。
それもそのはずだ。それには、両目がなかった。
目隠しの布の、ちょうど双眸に当たる部分が黒く滲んでいるのを見て、この黒いしみは、衣装のものも含めて血痕なのだと分かった。
この出血量では両目はまともに見えてはいない。そして、とても生きてはいないだろう。
全身の毛が逆立ち、警戒を露わにしていた。先ほどの手長の化け物とはまた違う種類の命の危機を感じる。
一歩、後ずさる。
居間の机に体が当たって、上に乗っていた箸立てが倒れる。ばらばらと散らばる箸には目もくれず、視線は正面にいる目無しの女から逸らさない。
がくり、と女の頭が動いた。
散らばっている箸のほうを向いたようだ。
一体いつから、何の目的でそこに立っていたのか。全くもって理解不能だったが、一刻も早く距離を離したい。
体は女に向けたまま、かごめがゆっくりと出口のほうへ動き出したときだった。
ガタン、と自分とは反対、女の後方から大きな物音がした。
何事かとかごめが視線を投げるのと、女が首をありえない角度で曲げて背後を確認するのは、ほぼ同時だった。
「ひっ…」
物音の主は、目無し女に捉えられ腰を抜かしていた。無理もない、かごめのほうからは後頭部しか見えないが、彼女からすれば、首をほぼ180度ねじった化け物と目が合う形になったのだ。
「きゃああああ!」
彼女は絶叫しながらすぐ足元に伸びた、地下保管室への階段を転がるようにして落ちていく。そして、その後を、目無し女が四肢を滅茶苦茶に振りながら追っていく。
声も出さずに相手を追う様が、かえって気味が悪く、かごめは一拍遅れてその後を追いながら叫んだ。
「鶴姫!」
石の階段を駆け下りる。狭い階段は一歩踏み外せば、落下してしまうことだろう。しかし、今はそれどころではない。
鶴姫が、危ない。
保管庫の床を踏みつけ、ここに逃げ込んだ従姉妹を探す。いや、探す必要なんてなかった。
際限なく、涙混じりの悲鳴を上げ続ける鶴姫の姿が目に飛び込んでくる。お呼びではないが、もちろん目無し女もセットだ。
「や、やめて!離してぇ、誰か!」
二人の姿を目にしたとき、一瞬、かごめは息を飲んで硬直した。そのとき彼女の体を支配したのは、戸惑いと、感電したように体を痺れさせる恐怖だ。
目無し女は、枯れ木のような両手で鶴姫の体を机の上に抑えつけていた。どこにそんな力があるのかは分からないが、ばたばたと体全体で抵抗を試みている鶴姫を、モノともしていない様子だ。
ぐっと、女が顔を近づけた。
――…一体、何をしている。
恐怖に慄き硬直している自分と、冷静に事態を分析しようとしている自分の存在を、かごめははっきりと自分の内側に感じていた。
「もぅ、やめて…お願い」
目をつむり、懸命に顔を背けようとしている鶴姫に顔を寄せた女は、確かに、にやりと笑った。
そのヘドロみたいな微笑が、あまりにも狂気じみていた。
顔をそらした鶴姫がそれを見ずに済んだのは、ある意味で幸運だったといえるだろう。
あれを至近距離で目撃してしまっては、正気ではいられなくなる。
目無し女は鶴姫を抑える手を片手だけに変えると、のろのろとした動作で、もう片方の手を、ちょうど平仮名の『つ』の形にした。
そして、そのまま鶴姫の顔――怯える瞳の真上――にまで持ってくると、ゆるりと降下を開始した。
瞬間、かごめは目無し女が何をしようとしているのかを理解した。
自分で『目無し女』と名付けたじゃないか。だったら、彼女が何を欲するのか明瞭白々だ。ホラーの定番すぎて、逆に考えが及ばなかった。
近場に何かないか探す。棚のそばに置いてある扇風機に目が行く。
短く荒い呼吸を繰り返す、悲鳴すら上げられない恐怖の中で、彼女が失禁したことで鳴った水音が室内に響いた。
女が鶴姫の目を抉る寸前、かごめは女の背後で思い切り扇風機を振りかぶった。
こんなに軽かったけ、と考えるショートした思考の中でも、彼女は本能的に声を上げていた。
「あああああぁッ!」
バキッ、という嫌な音と共に、女の首がまた妙な方向にねじ曲がり、殴られた衝撃で寝台のほうに吹き飛んだ。
埃を巻き上げながら横倒しになった目無し女を脇目に、机の上で目を大きく見開いたまま、カエルみたいにひっくり返っている鶴姫を無理やり起こす。
だが、恐怖のあまりに脱力し、まともに立ってくれない。
女がぴくりと、動いた。これぐらいで仕留められるとは思っていないが、首がねじ曲がったまま立つのはルール違反だ。
「鶴姫!立って!」懸命に呼びかけるかごめ。「あ、あ…」
「くそっ!」
埒が明かない、とかごめは、ほとんど引きずるような形で鶴姫を階段のほうまで引っ張り、ガタガタいわせながら、上の階に戻ろうとした。
「怪我しても、後で文句言わないでよ!」
自分を鼓舞するつもりで、大声で嫌味を言う。
ちらりと確認すると、すでに目無し女は部屋の隅で立ち上がっていた。
もう、そちらのほうは考えないように、とにかく鶴姫を引き上げることだけに全力を注ぐ。
脱力しきった人間の体がこんなに重いだなんて、思いもよらなかった。もしも、これが細身で小柄な鶴姫でなければ、一段も上がれなかったかもしれない。
全身全霊を注いだだけあって、何とか上階に戻って来られた。
ほっと安堵の息を吐きかけたとき、階段のほうから伸びてきた手が、鶴姫のか細い足首をがっしりと掴んだ。
「わああっ!」思わず、大きな声が漏れる。さらに、すごい力で鶴姫の体が下方向に引っ張り返された。
まずい、ここで彼女を離したら、絶対に戻っては来られない。
冷たい保管室の床に抑えつけられて、その先には永遠の暗闇が待っている。
目玉を抉られた後、どうなるのかも分からない。ただ、命はないだろう、ということだけは分かる。
渾身の力を込めて引っ張り返す。何とか拮抗することが信じられないくらいだ。
「痛い、痛い!」
痛みで、鶴姫が正気を取り戻した。
「鶴姫、何かに掴まって!」
そうかごめが言うと、ぎゅっと彼女はかごめに掴まった。
危うく体勢が崩れかける。このまま二人で落ちたら、目も当てられない。
「違うって、私じゃなくて、柱とか、扉ぁ!」
「いや、いやいや!見捨てないで、かごめ!」
「馬鹿ッ!見捨てるわけがないでしょうが!」
ぴしゃりと言い放ったためか、恐怖に染まっていた鶴姫の瞳にも、かすかではあったが、希望や、立ち向かおうとする毅然とした意思が息を吹き返していた。
鶴姫は、ガッシリとかごめの体を掴んでいた両手を外し、居間へと続くドアにしがみついた。
一瞬だけ、相手の引く力より、こちらの力のほうが強まる。
今だ。
「しっかり掴んでてね、鶴姫!」立ち上がりながら、そう告げる。
「もう掴んでるってばぁ!」
保管庫への蓋式の扉に足をかける。それから、渾身の力を込めて蓋を閉じた。
再び、鈍い音。目無し女の腕が歪に曲がった。
だが、まだ鶴姫を掴む手を離す気配はない。
ならば…!
かごめは何度も何度も、蓋を上から踏みつけた。その度に鳴るおぞましい音には気を留めず、ただ、執拗に繰り返す。
やがて、自分を掴む手の力が弱まったことに気付いたのか、鶴姫が一発蹴りを入れたことで、目無し女はようやく蓋の下に消えた。
危うく鶴姫の足ごと踏み抜くとこだった、と肝を冷やしていると、蓋が下から叩かれる音が聞こえた。急いでパントリールームの棚を倒し、上から米やらなにやら、重そうなものを乗せる。
蓋を叩かれても、びくともしなくなったところで、かごめは息を吐いた。
「くそ女、二度と出てこないでよ…!」
煽るように言葉を吐き捨てたかごめの背中に、どんっ、と衝撃が走り、思わずよろめいた。何事かと不思議に思う間もなく、泣きじゃくる鶴姫が視界に映った。
「かごめぇ、怖かったよ。かごめぇ」
生意気だった彼女の年相応な振る舞いを見て、場違いにもかごめは頬をほころばせながら答える。
「うん、よく頑張ったね…。鶴姫」
じっとりと、ジーパンの太腿辺りが湿り始める。
――…そういえば、鶴姫漏らしたんだった。
何と伝えればいいのか分からず、かごめは小さく息を吐き、肩を上下させたのだった。
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