09 Unchained Melody
水晶の間。
町を一望する側に窓を複数持つこの部屋は、一見すると色とりどりの水晶に飾られた幻想的な空間でもある。
アンティーク、窓枠にまでこだわった曲線、それらを束ねる半月の格子窓。
照明は電気の通らないタイプ、ガラスと金物を重ね合わせた美しいシャンデリア。
昼間見れば、七色の水晶の反射を受けて夢色を咲かせているが、夜は四方に置かれたトーチに輝く火に照らされ、より幻想的で荘厳な輝きを見せる。
自らを輝かせろと揺れる、ガラスの結晶は逆さに立つ城のようで美しい。
夕刻を過ぎ、少ない雨が窓を叩くこの部屋にニギラは座っていた。
七色の水晶、それぞれから繋がる氷の糸は、部屋の真ん中を陣取る長テーブルの上に繋がっている。
まさに中心になる巨大な円は、そこに浮かび上がっている。
水晶とは違い、3Dビジョンのように浮かぶ球体は水晶達の光と、トーチの火に照らされ中に繁る枝から生み出されたブラックハートを迎えていた。
「重いな……やはりこり愛は重いものらしい……」
ボタン目のウサギは、目の前に出た灰色の光を浮かぶ円の下に並べた小さめの器に移す。
円形の中に横一線の棒を見せる瞳孔が、方寄る方向に物質は動き、置かれた皿に収まる。
「アルン、まだ休んだほうがいい」
長く下がった耳が微かな音に反応する。自分の後ろにある扉を小さく開いたアルンの顔は、まだ灰色に近く赤い眼も曇ったままだ。
エルルの一撃は体の芯に十分過ぎるダメージを与えていた。
「すまない、回収の手間を……」
自分の手でブラックハートの回収が出来ない事を侘びながら、体を部屋に滑り込ませる。
黒のレース、雪の結晶が作る花をモチーフに細かく編み上げたワンピースに裸の足、壁に手を付いて前に進む。
申し訳無いという気持ちを持ちながらも、アルンは一番の心配を自分の目で確認しようと必死だった。
闇王復活のためのエネルギー採取は自分の使命。
そんな相方の心を見透かす、丸い瞳でニギラはクルリと体を回した。
ウサギの長めの後ろ足、人形故に垂れた耳を引きずってアルンの前に飛ぶと
「問題ない、なにも心配いらない」
鼻をヒクヒクと動かして言った。
本当に生きているウサギがする仕草を真似るのは、ビデオで見た時に感情を現しにくい人形に肉付けをした結果だが。
言われた言葉にアルンは中央のビジョンを見つめる。
「数は少なくてもこの愛はいつも重い、不思議だ」
「そうだね、人間はこの愛を内に込めて自ら大きくする癖がある。しかも暗転した後に取り返そうともあまりしない。だからちょうどいいよ、僕には取りやすい」
自らが出かけ、魔獣を形成してブラックハートを採取出来ないニギラの方法は、行動力を持つアルンから見るとまどろっこしい。
だが強敵がそろい始めた今となれば、直接手を下さなくても安全に収穫を得るという意味では優れている。
ブラックハートだけを感知するように作られた特殊な枝は、オートマターであり、場合によっては敵対者に遠隔操作で攻撃をする事も出来る高等方術。
今やこの町全体に根を張り、その枝は忙しなく次のブラックハートを探している。
エルルという巨大な敵の発現を考えれば、自身を危機に置かなくても採取が出来る優れた方法でもあるが、アルンにはこの魔法陣が使えなかった。
使われるパワーが妖精のそれでは足りないからだ。
ニギラのように精霊の力を必要とする術。
そのニギラでも継続的に使う事はできず、休息を必要とする程の絶対包囲(absolute encircling)
愛らしい人形の中に封入された力の存在は、怪我をしたアルンにとって限りなく頼もしい相方だった。
「ニギラ、疲れてはいないか?」
自分の前に座るウサギの頭を撫でる。
負け続けた自分に、闇王ニムルが与えた参謀格の精霊。
「少々……疲れたかな。たいした事ではない、人の愚かさを見つけるのは苦ではないし、むしろ楽しいぐらいだ。実に愚かで甘美だ」
丸い目の中を引く、横一文字の瞳孔が少し開く。黒の衣装である毛氈の身を揺らし、ニギラにとっての喜々とした表現にアルンも微笑む。
「本当に次から次へとね、愚かさを腹に抱える人は惨めな生き物だ」
「まったくだね。……さて、少し休んだら仕上げに入ろう。月は迫っている」
「ああ迫っている。我らが王の降臨は近い、心が躍る」
手を伸ばし、ニギラを抱き上げたアルンも片口を上げて笑った。
時は確実に自分達に有利で、今までにないチャンスが近づいているという事実に紅潮さえしていた。
「だがその前に大事な事がある」
滑るように続いた言葉を切り、赤い瞳はアルンの顔を見つめ直すと
「こないだのビデオの続きを見ないと……」
「ああ悲恋万歳だな」
アルンは片手に持っていた続き物のDVDを上げてみせる。
悲しい色合いのパッケージにウサギの鼻はスンスンと動く。
「そう悲恋万歳だ。休憩ついでに見よう」
「そうしよう」
自分の故障と新たな敵の出現に胸を騒がしく、焦りを隠せないアルンをなだめ、ニギラはテレビの間に移動をした。
静かに、活動を続ける水晶の揺らぎを横目で見ながら。
「このまま行けば、必ず間に合う……」と呟いて。
「早く帰ってくれたらいいのに……」
自室の机にフジツボがごとく張り付いて伏せていた泉は、雨の当たる窓を見つめて呟いた。
美香子を追って、雨を走ったが敵は狡猾にして上手だった。
あっという間に愛は引き抜かれ、後には気を失った美香子が手の中に残っただけ。
悲しみの愛と一緒に体重まで抜き取られたかのように軽い体に、心底震え無事を祈った。
美香子を闇に走らせた祖母の存在が、いつも以上に許せなくなっていた。
角谷の手の中、眠ったままの美香子がタクシーに乗って帰るのを見送ると、祖母を駅に置いたまま家に帰り……そのまま部屋に閉じこもっていた。
数時間後に祖母は家に到着したが泉は、部屋から出ようとはしなかった。
ノックをされても、内側からかけたカギを開けるような事はしなかった。
静かで上品な声で呼びかけられても返事しなかった事で、明日は母に怒られるだろうと憂鬱な目を開けたり伏せたりしていた。
『何っちょ? 泉は本当に婆様が嫌いっちょか?』
「そうよ嫌いよ、大嫌い」
いつもなら明確な答えを避ける泉のハッキリとした拒絶に、ジト目のポン様は、理由でも聞いてやろうとペタンと腹をデスク付けるように俯せて、顔だけ泉を見る。
いかにも忌々しいかっこうの相手に泉は、吐き出すように答えた
「おばあちゃんは……すごく薄情な人だから、大嫌い。家族とか……そういうのいらない人なのよ。元々お金持ちのお嬢様だし、モデルやって好き勝手に生きて、仕方なくお祖父ちゃんと結婚したから……だから……」
『だから? 何っちょ?』
ジト目のペンギンは話しを続けろと見つめる。
昨日はこの時間にエルルペンギンと乱闘になっていたが、今日はエルルの姿が見えない。
あの姿の自分は美しくないといって用事が無い限り表には出てこないという事らしく、家の中を勝手に散策しているらしい、出たくはないが家を探検というのも何かおかしなものだと感じながらも、それならばそれで泉のほうは気が楽だった。
二匹揃って祖母の事で責め立てられるのも、めんどくさいというものと安堵の息を吐くと、目の前のポン様と視線を合わせた
それでもすぐに話すには、踏ん切りの付かない顔。
言葉を待つ相手の事をもう一度見て、泉は貯め込んだ言葉を洗ってみたが、それにこびり付いていた憎悪を流す事は出来なかった。
流せない感情をそのままの吐露するのは、弱音を吐いているようにも感じた泉は、喉に昇っていた理由を押し込めると突き放すように答えた。
「とにかく大嫌いなの。それだけよ」
『それだけじゃ、わからんっちょ』
嫌いという声に棘は残っていたが、それだけでは理由がわからないとポン様は羽根をペタペタとデスクに叩きつけて、嫌いの中身を話せと急かす。
『薄情なのは、厚すぎる想いを隠すための嘘かもしれんっちょ? ただ薄情なら家族など持たんっちょ』
「それは……仕方なく家族を持ったのよ……私はそう思う……」
『どうしてっちょ?』
伏せていた頭、目線を同じ高さに置いていた泉は伸びをした。
ポン様はどこか短気だが、知らない事を茶化したままにもしない相手。
心に溜まっているものを、一度吐き出してみようというと考えを改められる相手でもあった。
身を起こした泉は、雨粒を追う目で祖母との思い出を語っていった。
長く塞いだ自分の考えも編み込んだ愛乃家の姿を。
「私はお祖父ちゃんを良く知らない、……私が四歳の時にいなくなったから、憶えているのは……」
漠然と見えた白髪の影、小さな自分頭を撫でてくれたその人は既にベッドから起きられない身だった。
でも会えばいつも、小さな笑い声を聞かせ、良く遊びに来たねと語りかけてくれていた。
そんな朧気な影は、物心が輪郭を描けるようになる前に消えてしまった。
「歳だったし、病気もあったし……そういうふうに聞いているけど……」
泉は自分の前に座り直したポン様から目をそらした。
視線を追うペンギンは何も言わず次の言葉を待つ、泉が貯め込んでいる思いを聞く事に、合いの手は入れないという態度の目。
顔を戻した泉に声無く小さく頷く仕草を見せる。泉も堰を切ったように祖母の事を話し出した。
「それは仕方のない事だと思うの、でもね……でもおばあちゃんはね、おじいちゃんが亡くなったら、おじいちゃんの写真を全部捨てちゃったのよ。私ははっきり顔を覚えてない、だから見たいって頼んだの、写真でもいいからって頼んだの……そうしたらなんて言ったと思う?」
一気に吐きだした想い、それに対する祖母の答えは今日の美香子への言葉と重なっていた
「いなくなったものは、すぐに忘れたらいいのよ。泉がそんな事を知る意味がないわ」
母の前で、写真を見たいと願った自分の心に大きな楔を刺す一言だったが、それ以上に辛かったのは母だった。
あの日、母が泣いていた……自分のお父さん、泉にとっての祖父の事を、残された妻がそっけなく忘れたらいいと言った事に傷ついたのだと子供心に理解した。
母はその日まで、記憶に薄くなった祖父の事を泉に聞かせていた。
祖父は、本当に祖母を大切にしたステキな人だったと。
「だからね、私もおばあちゃん見たいにステキな家族をつくるって決めたのよ。お父さんと、泉と、私でステキな家族になろうね」
そう言って微笑んでいた母を傷つけた。
自分の心も深く傷ついた。
そこからは家族の思い出は、いつも灰色。
いまはもう父も帰ってこない……
雨の音だけが続いていた。
話し終えた泉は、再び額をデスクに押しつけるように伏していた。
『本当にそうなのっちょ? 悲しいから隠しているだけじゃないっちょか?』
「本心隠したいからって……そんな言い方ないでしょ。それに隠してた物の中にも無かったもん……」
長年連れ添った伴侶を失うという悲しみが泉には解らなかったが、祖母が片時も離さず身につけているペンダント型ロケットに……もしかしたら唯一の祖父の写真があるのではと考え、蓋を開いたことがあった。
「何もなかった……何も……本当に忘れたんだよ。居なくなったら憶えていても仕方ないもんね……」
開かれた蓋、あったのはただのガラス板で、何も収まっていない平らな虚空。
真円の縁を百合で飾ったさび色のペンダントは、まるで空の棺のようだったと、つまらなそうに語った。
「空っぽなんだ、そういうものなんだ……愛なんてあっても無くなっちゃうものなんだよね、夢みたいに、最終的に不要なものになるんだよ。そういうのをおばあちゃんが教えてくれた。でも他人にまでそんな事言わなく立って……無神経な人でしょ」
歳不相応な諦観は、あの時に作られてしまっていた。
だからポン様にアイレシオンになって「愛」を持って戦えと言われてもピンと来なかった。
どんなに戦っても自分にはそういうものは持ち得ないし、あっても不必要だと考えていた。
『愛は不滅っちょ!!』
眼鏡を横に、頭をデスクに押しつけたまま転がる泉の前で、ポン様は仁王立ちをしていた。
『見えないから、居ないから、教えないから、愛が不要なんて誰が確認したっちょか!!!』
硬質の嘴が、部屋の照明の下、鈍くオイルに浸かったような凶悪さで大きく開いて激怒を叫ぶ。
愛に対する否定を許さないという態度で目に炎が宿る。
短い黄色の足でタンタンと足踏みすると、グルグルとデスクの上を歩き出した。
今までにない苛立ちの姿に、泉は嘴アタックをかけられるのを恐れて、静かに距離を取ったが、ポン様は飛ばずに激を飛ばした。
『泉!! お前が今まで人を助けてこられたのは、そこに愛があるからっちょ!! 半分になった愛にも力があるからっちょ!!例え愛する人が天に召されとしても、愛は無くなったりはしないっちょ!!』
鶏冠が風に動く立木のように揺れて、ジト目が菱型に尖っている。
「そうは言ってもさー、おばあちゃんには不必要だったんだよ。だって……」
『だっても、何もないっちょ!! だったら泉が婆様に愛をぶつけてみればいいっちょ!! アイレシオンならそれが出来るっちょ!!』
「……」
愛を持って戦い、愛を持って総べる者。特別な力を持つ神の牧者アイレシオン。
それならば愛の力を持って、祖母が祖父を忘れようとした理由を探る事が出来る。
そう言い切るポン様を見ながらも泉は話しを続けたくなかった。
祖母が切り離し不要とした愛、母を傷つけた愛、そんなものは取り戻す物ではないと感じていた。
「もういいよー、その話しを今はしたくないの。私のほうの問題だけはきちんと話したから……もういいでしょ」
『良くないっちょ!! 泉はそれを取り戻す必要がないと考えているっちょ!! それは誤りちょ!!』
ポン様は泉の心を見透かしていた。
小羽で泉の腕をべしべしと叩くと。
『泉が、ばーさまの無くした愛も思い出させ、美香子の取られた愛も必ず取り返すっちょ!! それこそアイレシオン勤めっちょ!!』
いきり立つポン様、本気の目はいつものジト目の中に光る牙を見せていたが、それでも泉の心は動かなかった。
返事もなく、雨が叩く窓を見つめて小さなため息を落とす。
とりあえず美香子ちゃんの具合を聞いて……それで何か考えようと目を閉じた。
「愛乃……愛乃……」
フロアーの照明が落とされ、非常灯が繋げる通路の先は、冷房が切れる事のない情報管理室。
その部屋の中で、山崎頼子は必死に顧客名簿の閲覧をしていた。
「あった……愛乃瞳様。古小金町2丁目……」
画面に並ぶ細かな文字に目を凝らす、データバンクの羅列は細かな字で浮き船を流すように次々と映し出されている。
その中から、愛乃という代わった名字の客を捜そうと奮闘していた。
最初はあまりに珍しい名字なのですぐに見つかるだろうと考えていたが、個人登録がなかったために時間がかかったのと……いかに店長とはいえ、私用目的のために顧客名簿を漁るのは後ろめたいという思いも手伝ってこんな遅い時間になっていた。
着こなし美しいパンツスーツに、アンダーリムの眼鏡。
長時間の閲覧で、目と額に溜まった疲れを解くために髪は下ろした状態の顔が、やっとの一段落に大きく背伸びして、弾き出したデータをすぐにプリントアウトする。
雑な音と共にプリンターに吸い込まれる紙を見つめて
「もう時間はないかもしれないのに……暢気な事言っていられない」
先日、加賀野の家で会合を持ったとき、アイレシオンであるとされる女の子の友達鳩子が出したルーノの幻影。
それが現行のアイレシオンに似ているという発言。
そこからは直感だった。
バルキュリア・ルーノは、現在アイレシオンとなった泉の母親なのでは……
「顔が似ている」
学友の言葉だけという確証乏しいものに、自分の閃き。鳩子の肩を捕まえて住所を聞きだそうとしたが、和美に止められていた。
「泉ちゃんって子の事を考えてあげよう」
突然アイレシオンになった泉ちゃんを気遣って……
言い合いになった思い出を払うように頼子は頭を振った。
あの場では大人として引いて帰ったが、みんなが考える程残された時間はないのではという焦りが自分を突き動かしていた。
アイレシオンが復活しているのに、まだ誰もバルキュリアに成れない。
エルルは復活しているようだが、自分達のサポートなしでどこまで戦えるのかわからない。
希望の主であるアイレシオン自身が未熟という現状を見抜いて、アルンは確実に水脈を狙って攻撃を仕掛けてきた。
狙っている大きな力、それが意味するのは闇王ニムル復活のカウントダウンが最終段階に入ったという事実。
長く細く、自分の焦りを停滞させるために胸を押さえて息を吐く。
バルキュリアになれなくなった日から、世界を守る事を諦めたことはない。
頼子は自分の胸にある手帳を開いた、黒革の社員が使う手帳は今年のものだが、中には古い切れ端が多数挟み込まれ、一枚の写真がある。
水門を守った時の記念写真。
水門魔法陣の絆、水脈を守ったのは初めてじゃなかった。最初の敵はアルンではなく、このショッピングモールのオーナーだった。
架けて編み込んだ防御円陣の水門を、新進ショッピングモール建設のために取り壊そうとしたオーナーと戦った。
かつてバルキュリアだった仲間で、そんな割に合わない仕事を続けてくれたのは和美に加賀野、柴原に、数人程度だった。
変身できないのにアルンと戦うなんて……そう言って去っていた者達が多かった中、今日まで共に戦った仲間がいて、その先頭を立った自分。
今は昔の事。不思議な奇縁なのか、頼子はオーナー社長の妻となった。
あのとき、にやけ面で自分を見下していた男、現在の旦那を殴り飛ばしたのを思い出して苦笑いした。
水門闘争の時はただの甘ったれ若年実業家だった旦那は、今では自分達の活動に理解を示す静かな男になった。
おかげで水門は防御魔法陣を維持するための自然石を多く入れ、何事もなかったかのように公園として作り直された。
水脈という精霊力の元を守る事はできた。
だが守れなかったものも多かった。
ブラックハート。
アルンが採取する人の愛が暗転した力の源。
こればかりはただの人間になった自分達には手も足もでない。
出来る事は、失ってしまった人の記憶を消す事。
何によってその愛を失ったのかという過程を消す事を、フラワーハートの力でなんとかやりこなしてきた。
それはとても辛い戦いだった。
人は辛くても悲しくても、暗転に代わってしまう程の罪深い愛であっても無くなってしまうと自身の半身を失う程のダメージ受け、無くしてしまった思いがために、他の人を傷つける生き方しかできなくなる。
そういうふうに愛を失った人達のぎこちない生活を、悲しい気持ちで何度も見送った。
自分がバルキュリアになり、勤めを果たせたのなら……こんな思いをさせずに済んだ人達がたくさんいたハズだという願いを込めて、拳を固めて胸を打った。
ルーノを失って以来、以降のリーダーとして前に立った自分の危機に対する直感を実行するという決意で。
「出来る方法をもっと素早く……」
外していた眼鏡を戻し、視線を尖らせて情報を追う。
あの時から、自分の瞬発力は落ちていない。そう信じていままでやってきたという気持ちでプリントアウトされた住所を睨んだ。
「お会いしましょう。バルキュリア・ルーノ」
一歩も二歩も、敵に遅れを取っている今を打開するために、ルーノを見つけ出す事を頼子は使命としていた。
立ち上がり、管理室の照明を落とす。
慄然とした後ろ姿は、バルキュリアだった頃と変わらない決意を抱いて歩き出した。
開けた朝に雨はなかった。
レンガ道に残った水溜まりも少なく、足下を汚す事のない通りを歩いて学校に着いた泉は惚けていた。
窓縁につく水滴を指で引っ張っては、落とし、指に残る湿り気を嗅ぐ。
眼鏡越しの景色を覚めた感覚で、自分の中にこもってしまった重い感情をはき出せないままでいた。
「やあ、愛乃さん、友荷さん」
広げた包みの上に、購買で買った昼ご飯と、持ち込みしたお菓子を広げた鳩子。
となりで食後のアメを楽しんでいた有紀。
二人共、朝から元気のない泉を引っ張って、学校の屋上でご飯をしていたが、あまりに重々しい泉の態度に、なかなか話しかけられず硬直化していた場を角谷の声が救っていた。
昼休み、久しぶりに晴れた事もあってクラスの仲間達が明るい。
そんな暖色シチュを見逃さず、有紀は手を引いて泉という錘を屋上に運んで来ていた事が功を奏した。
そしてもう一人、有紀の後ろ、泉を押して来た鳩子は突然のお言葉に飛び上がり、両手いっぱい、カラフル過ぎるアメを顔の前に突きだしていた。
直角に上がった薔薇色テンションで。
「あっあー、ありがとう青海さんだよね」
鼻っ柱近くをかすった手と、アメリカンな色合いのアメに挨拶をして角谷は、やはり緩く柔らかい対応で挨拶すると、自然に女子の縁の中に入った。
「昨日は、ありがとう」
妹捜索を手伝って泉と有紀に、小さくお辞儀する形で礼を言った。
そして鳩子は勢い有紀に肘鉄を食らわしていた。
耳を噛む鋭さで顔を近づけて
「どっどっどっどっどういうことでごじゃるの?」
言語崩壊の様相で相方に飛びつき、首を揺さぶる。
「五月蠅いよー!! 鳩子、昨日ちょっとだけ色々あったのよ!!」
「ちょっとだけ? 色々教えてよー!! 私だけ仲間はずれなんて酷いぃぃ!」
立木にアタック的な様子の二人を角谷は微笑ましいと、見つめていたが顔全体に出ている曇りを泉は見つけていた。
自分と同じように、大切な感情が灰色になっている。
それは感覚なのだが、伏せ気味の目と、眉間の中央を凹ませる痛みに現れて見えた。
「……美香子ちゃん、大丈夫だった? うちのおばあちゃんが酷い事言ってごめんなさい」
広げていたお弁当を、膝から下ろし手で除けると、自然に相手の顔を覗く位置に泉は動いていた。
角谷が浮かべる痛みが、解消されていない事が解ってしまう。
それを祖母があたえたという苦みで口が歪む……それでも恐る恐る、痛みに触れようとしていた。
「うん、大丈夫……大丈夫だけど……」
「だけど?」
「だけど……」
滞る口調、美麗な眉が少しずつ下がる。
角谷の顔色に光を届けない現状に、泉は思い切って触れた。
「ダメだったの?」
不可思議な質問に、角谷は一度目を大きくして泉の顔を見る。
騒がしい雑音になった有紀や鳩子の事など遠い、真っ黒な箱に二人して閉じ込められたような感覚の中で、角谷は小さく首を振った。
「いや、ダメじゃないと思う……だけど悲しいよね。もうポーはいない、思い出す必要もない、メルも必要じゃないって……あんな目する美香子を初めて見たんだ」
ポーの後に迎えられた子犬のメル。
家に帰り目を覚ました美香子ちゃんの世界から、ポーは消えて、ポーと過ごした時は消えて、親愛を共有した時も消えた。
犬と心を通わせることは無駄になって、後に残されたメルと、角谷と、家族。
誰もが美香子の心を慰めたいと思った行為の中で、絶対的に不必要なものがあったと泉は確信した。
祖母の言葉は間違っていて、今も昔も変わらず人を傷つけた。
「ごめんなさい、美志くん……」
角谷の言葉で浮かんだ美香子の姿は、祖母の言葉をそのまま泉に投げかけていた。
小さく蹲るように頭を下げ、謝る事しか出来なかった。
繰り返し、繰り返し、祖母の言葉はめぐり、美香子ちゃんの今と重なってしまう。
「居なくなった者を思う事に、意味がない。時間の無駄」
乾く喉に走る痛み、声をかけて角谷を力づける術がない。
震えたまま、顔を背けた泉に、鞄に潜み、事の経過を聞いていたポン様の声が響いた。
『悲しみの愛を取られたからっちょ』
「そんな……そんなのって」
唇を噛み、苦しみで返事する泉の姿に角谷が労るように声をかける。
沈みそうな級友を、君の責任ではないと言う声は震えていた。
「でも、たぶん、きっと……」
予測の未来、いつかはわかるという願いは空しい声として、それでも兄として支えたいという希望を。
「今は解らなくても……わかってくれる時がくると思うんだ」
目の前にある男子の涙に、泉はすわってなど居られなかった。
重すぎた。
悲しみの愛は重すぎる。悲しくてポーを忘れられなくて泣いて泣いて、立ち直れなかった美香子から、その悲しみは抜き取られ過ぎ去った。
それなら良いのではと考えていたのに。
消えてしまった悲しみの愛で、美香子の心を支えていた角谷が耐えられなくなっている。
『不必要な愛などないっちょ!!』
「わからないよ……」
泉は立ち上がると走っていた。
とてもその場に居られる心地ではなかった。あの日心に撃たれた楔を、もう一度深く撃たれた衝撃で体が千切れてしまいそうだった。
廊下を走り、あちこちに体をぶつけながら必死で、人のいるこの場所から逃げ出していた。
肩にかけられた鞄の中でポン様とエルルは転げながら、荒れる泉の心に制止の声をかけていた。
『落ち着け!! これで答えは出たっちょ!!』
「いやよ!! もう嫌!! どうしてこんな事ばかり起こすのよ、おばあちゃんはいつだって人を傷つけて、そのせいで美香子ちゃんまで同じようになって……私どうしたらいいかわからないよ!!」
『泉!! これを認めなくてどうするっちょ! お前は知ったっちょ! この愛が必要だった事を、そしてお前の婆様も同じ愛を取られたからそうなったっちょ!!』
歩は止まった。
どこをどうやって走ったのか思い出せなく、どの位の時間が立っているのかも解らない泉の足は止まり、遠景に見える学校と水門の続く河川に立っていた。
温く湿った空気で、汗は服を不愉快な程に濡らし、頬を打つ風で目は冴えていた。
腰を下ろし座り込んだ泉の前に、二匹のペンギンは鞄からボールのように転がり出て姿を現した。
「おばあちゃんが……愛を取られている?」
『そうちょ泉、お前の婆様は……』
どこまでも落ち着いたポン様の声、その後ろから真っ赤タキシードペンギンのエルルが飛びだすと、羽根に抱えた祖母のペンダントを泉に見せた
『聞け、愛乃泉。お前の祖母は元バルキュリアルルン、その名をルーノと名乗った愛の使徒ルルン』
空になったペンダントをエルルが精霊の光で照らす。
空虚のガラス板の中に、パーフェクトカットのフラワーハート……その外殻のラインだけが残った形が見えた。
昨日、姿を見せず部屋の中を物色していたエルルは、テーブルに置かれた愛乃乙女のペンダントに触れ、それが何かを知ったうえで、ここに運んでいた。
「どうして、だったらどうして何も残ってないの」
驚きながらもペンダントを手に取った泉は、何ものこっていないフラワーハートの中身を舐めるように見回して懸命に半分の愛を探していた。
取られるといっても半分は残る愛が一欠片もない、本当に外殻だけを残して脆くも線だけで繋がるハートがロケットの中に納められている。
「どうして残りの愛がないの?」
『バルキュリアになってから、フラワーハートを持ってから、愛を暗転させた結果ちょ』
『これでも外殻が残っているから、人としての感情を持って生きていられるルルン』
「これが……残されたおばあちゃんの愛なの……」
少しでも力を入れたら、壊れてしまいそうな残り香の愛。
泉は涙の目でそれを抱えていた。
有紀の時、鳩子の時も見えた炎も姿もない、針金のようにカットのラインを繋げる部分しかない祖母の愛。
「なんでこんな事になっちゃったの……おばあちゃんは」
追いつかなかった思慮の中、美香子と祖母が同じ愛を無くしていた事だけが泉には理解できた。
しかし、理解とは別に重すぎる悲しみの愛に、どう対処していいのかわからない混乱も抱きしめていた。
「止めなかったの?」
加賀野の店にたむろして、アイスコーヒーをせびっていた和美は、持っていたグラスを落としそうなっていた。
目の前には、自分より身の丈小さいながらも折り目正しいグレイスーツの男。
頼子の旦那は、昼過ぎに妻が愛乃様宅に向かった事を伝えていた。
普通に考えても個人情報を私的持ち出しているという状態に、和美は顔から飛び出す程にデッサンの狂った眉でグラスを持ち直し、一堂に会していた、柴原も、加賀野も顔を見合わせて首をひねる。
「あれほど待とうと言ったのに……やっぱり頼子は飛び出しちゃったのね」
「いや、それもあるけど、それって……色々ダメじゃないですか、オーナー……」
「そうだね、色々ダメな事だと思うけど、僕には止められなくてね。だからこうして君達に知らせに来た」
七三より真ん中から分けた髪、まだ若い実業家として名を馳せた頼子の旦那にして、ショッピングモール社長は小さなため息を落とすと、顔を見合わせ対応に困っている妻の友達に頼んだ。
「頼子は、君達が思っている程この事の結末への時間は長くないと考えているようなんだ。僕にはそれが何か解らないけど、水門の時みたいに必死な顔をしている彼女を止められなかった。だけど心配はしている……だから止めてくれる君達のところに頼みに来たんですよ」
「時間がないって事? そんなの変よ」
柴原は訝しく外を見ながら聞いた。
確かに頼子は焦っていた様子だったが、そんなのは十年前自分達がバルキュリアの地位を失った時から始まっている焦燥。
何も今に始まったことではないうえ、アルンの出方だって未だ不明瞭という事実もあると。
不確定要素が多くなった事で心が粟立つのは解らなくもないが……それでも突然すぎる。
オーナーに言われなくても、この件については慎重に事を動かしていた自分達を出し抜かなくてはいけない程、事態が切迫しているとは思っていなかった。
元バルキュリア達は、勝手に飛び出してしまった頼子の事をどうしていいのか本気で困り果て顔を合わせていたが、旦那のほうは冷静だった。
「正直に言いますよ。昔から今日まで僕には解らないです、貴女達に使命があるという事以外それが何か。でも頼子が感じる危機が遠くないのは解るんです。彼女があんな必死になっているのは久しぶりで、本当に切迫しているという事を……きっとこれは大切な事なんだというふうに思ったんですよ。あの時のように……ここを失ったら後がないという、そういう顔だったんです」
かつては水門闘争で顔を突き合わせ、拳固を頭のてっぺんに落とされた事のある夫は知っていた。
妻が命を賭けても守りたいと、大切にしている世界を。
それはバルキュリアという者になった使命であり、自分の知らない世界故に止める事はできなかったが、同じ使命を持った者達ならば、妻を助け止められるのではという願いだった。
「お願いします。頼子を……」
伏せた瞳で頭を下げるオーナーの姿に、和美は残っていたコーヒーを一気に飲み干していた。
「いくよ!!」
頼子だけに全てを背負わせてはいけない。
柴原は旦那の手から住所とナビをもらい、加賀野もエプロンをカウンターに掛けると走り出した。
頼子の友達の後ろ姿を旦那は細くした眼を祈るように見つめていた。
「お願いです。僕の愛する妻を支え……共に帰って来て下さい」
「悲しみの愛……」
泉は河川敷に座ったまま、傾き始めた太陽を見ていた。
潮風に夏の匂いが混ざり始め、往来のない草は洗われるように揺れ続けていた。
それはそのまま泉のざらついた心の風景にも似ていた。
悲しみの愛がどうして必要なのかがわからなかった。
なんど頭を振っても理解できなかった。
沈黙を守り、自分の隣に座る二匹のペンギンに聞きようもなかった。
心を締め締め付けるほどの悲しみが、普通であっても辛いだろうに……
その悲しみに、愛が足されてしまったならば……
美香子ちゃんは、愛情いっぱいで共に生きたポーのために泣いた。
当然次の子犬メルをすんなり受け入れる事なんてできなかった。
だから忘れるって……
首をふり、頭を悩ます分厚い雲を払おうとする。
忘れるならポーだけを忘れたらいのに……
「なんでよ……どうしてそこだけ抜き取って忘れられないの……」
痛い思い出だけを抜き取って、忘れられたらいいのにという本音がポロリと零れた。
ポン様はフーと息を吐いて、面前に広がる水面を指差すと
『泉、波の一部を切り取って、それだけを自分の物にできるっちょか?』
「そんな事無理でしょ」
『そうちょ、無理な事ちょ、生きている時間は平らでも、愛の時間は深く重い、それは他の時間とも深く濃く結びついているっちょ。だからそれを切り取ると無くした愛の分だけ心は萎れて、繋がっていたハズの世界から切り離されてしまうっちょ』
その結果が、周りにいた人を傷つける言葉や態度になってしまう。
それまで持っていた繋がりを切られる、忘れるというのはそういう事だと項垂れ続ける泉を諭した。
重い愛、それだけ重いのに悲しい……
泉は喉を絞め食いしばった声で叫んだ。
「なんで愛なんてあるの? こんなに辛い思いするのに、あってもなくてもこんな辛いのに!! 酷いよ!! なんでこんなものが必要なのよ!!」
『それは……』
吐き出した苦言に対して、飛んだポン様は勢いそのまま半回転ひねりで身を返すと河川敷の上流を睨んだ。
同じようにエルルも禍々しく黒くわき上がる枝の影を見つけていた。
川の上、町の中を走る枝、確実にブラックハート狙う森は蛇の集団のように動き出している。
『泉! 話しは後っちょ!! これ以上ブラックハート取られたたらいけないっちょ!!』
取られてはいけない。
その言葉だけに泉は反応していた。取られたら悲しみは戻らない。
そういう疑問を胸に抱いたまま、花びらの風に抱かれ光の化身に姿を変えた。
「好き勝手になんか……させないんだから、是対に許さない!!!」
光の使者として錫杖を握った泉は真っ直ぐに走った。
今までの中で無かったほどに、心に怒りを焼き付けて。
その後をポン様とエルルは離れぬように飛ぶ。
ビルの影に蜘蛛の巣のように張った枝は、この世にひび割れた空を描き上げ、黒き脅威として吠えていた。




