05 squall
そこは靄かかった鏡の上。
歩く足下にだけささやかな波紋を広げる静寂の水盤。
氷が張った泉の表層に少しの水が足首を濡らす。
見える景色の全てが実在する世界のあり方から遠く離れている事で、これが夢なのだと確信しつつ泉は四方を見回していた。
現実的ではない広さと、それが広いと認識できない事で喉を絞める圧迫感。
幾重にもかかる靄の中を灰色の靄は思考を惑わすノイズのように走っている。
薄い絵の具を塗り替えした景色は白い闇の中に置かれたよう。
湖と思われるそれの上に、透明な板に張った所。
細かく入る亀裂から下に溢れている水を押し出しているようにも見えるという幻想さ加減に、泉の目は深く座った形になっていた。
「曇りすぎだよね……回りに何もないってホント寂しいよね。どんなに幻想的で綺麗な景色と言われても実際に遭遇したらいやだなー、すごく寂しいやー」
覚めない夢の中で、足音に呼応する波紋だけを見つめ何時ものように繰り言を話して歩く。
音が水紋にしかないというのは実際に寂しい。
「誰か出てきても……いいじゃない……なんで私の夢って殺伐としてるんだろう。まるで心が喪服……ここは白いから喪じゃなくって透明人間的な何かみたい」
夢追いの中で独り呟きながら嫌気を燻らせる泉。
もう一度目を凝らして真っ白な夢を見回す。
同じく真っ白な膝丈ドレスで世界に同化してしまいそうな自分を鼻で笑って。
少しずつ見える世界は四面を囲む石影に、水を流した滝の底を思わせる作り。
水面の下には凍り付いた魚たちが、活発に泳いでいた時と同じ姿のままでいるのがわかった。
ただ魚は熱帯魚でもないのに派手な色で……見た事のない種類も多く、出目金みたいなのもいるが……総じて可愛くはない。
むしろ質感だけを思えば模造品で、プラスチックとゴムを括り付けたのように鮮やかで滑らかな鱗で気味が悪いオブジェにも見えた。
「変な魚? 食べられないわ、あれは……そうだ今日は野菜をメインスープに……?」
呟きながらさらに先を進む。
足下の水盤は進む程に透明度を失い、直下に紫色の塊を見つけた。
手はとどきそうにないずっと深く遠い位置に、何種なのかわからない物達は増えていた。
魚っぽいもの以外、鳥っぽい……変なもの物、尾の部分にトカゲの尻尾をつけたものや、犬っぽいのに……胴体は蛇みたいなもの。
それらが紫の塊のまわりに一緒に氷っている。
「あれは……鯨っぽいもの?」
浮かび上がる冷気の靄の中で、水を除けてそれをもっと正確に見ようと、彷徨った手は止まる。
「…………貴方様だけを、探していました」
少し前に移った影が、力なく顔を覆い泣いているのを見つけて。
自分とは対照的に黒の柔らかな膝丈ドレスを靡かせる、黒髪の少女は涙声で呟いていた。
張り詰めた水面を走るには優しすぎて、溺れてしまいそうな細い体を懸命に支える様子に、つい声をかけた。
「ねえ、大丈夫? 貴女は……」
まだ手がとどく距離じゃない、二人の間には大きな波紋が起きている。
ざわめき、何もない靄の中を木々がお互いを打つ音が響く。
風と水と氷。
声をかけた相手まで、遠かった靄は風に吹かれ、水盤を歩く二人は顔を合わせる。
泉の背筋が氷る、見合わす姿、自分ではなく水盤の下に見える塊にひざまずく背中。
黒髪の小さな影、振り返る顔、涙の瞳は小さく告げた
「帰って来てよ……お父さん」
雨の音に電車の走る単調なリズムが混ざる。
吹く風と当たる滴が窓ガラスに小さな花を咲かせては消える。
うたた寝から顔を上げた泉は、しばらく見ていた景色に呆れたため息を落とした。
「変な夢……なんで帰ってこない人の事なんか……バカみたい」
背を伸ばし、弛緩した神経を伸ばしていく。
自分の部屋に閉じこもり、勉強に向かった途端に眠くなった。
いかに自分が学ぶ事に不向きなんだろうと苦笑いを浮かべたところで、嘴は後頭部に刺さっていた。
「何をするの!! 脳みそが前から出てきちゃったらどうするのよ!!」
今日日こんな事をするのは……当然なのだが、ポン様しかいない。
頭を押さえて悶絶している泉を横目に、短い黄色の足をトントンと叩き、羽根を腰に当てて黄色の長い睫毛と黒のアイシャドウの下のジト目は飛び上がって主張した。
『新作映画が出たはずっちょ!! 借りてくるっちょ!!』
ノートの上に重ねて置いた雑誌、新作映画レンタル開始欄をタンタンと叩く
騒がしかった春先は終わり、桜が散り道に淡色の絨毯を作った後を綺麗に洗い流すように雨の季節はやってきた。
元々出不精だった泉は、学校が終われば雨の日はどこにも寄らずに家に帰っていたが、最近はポン様の要望で近場のレンタルショップに行き着けていた。
だが、今回要望の品は近場の格安レンタルにはないものだった。
「……えー、それが出てるのって、近くの店じゃないよ。ウォータフロントの方まで行かないと……前作も見てないうちに借りなくても……」
『続けて見たいっちょ!!借りに行ってくるっちょ!!』
自分をみるジト目に、頭部をさすりながら反論。
外は地面を乱れ打つほどの雨。
「えーと、私にこの雨の中、借りに行けと…」
理不尽、怒った目で相手を見るがポン様は一向に気にもしない顔、それどころか悪びれる事なく、まだ見ていない何本かのケースを叩くと。
『泉が借りに行っている間にこっちを始末するっちょ!』
「それ終わってからでいいじゃん……雨、降ってるんだよ……」
『うるさいぞー!! 行けっちょ!!』
このところ不機嫌なポン様は机の上、円を描くように練り歩く一匹デモ行進を慣行、斜めにつり上がった目を見るに、泉はあきらめため息を落とすと。
「わかったよー」
根負けして立ち上がり、湿気で跳ね上がった壮絶な癖毛頭を撫でしつけたが
戻りようのないうねりの髪を整えるのは瞬時に諦め、ドジャースの帽子を被る。
「そんなに面白いの? 映画」
玄関に向かいながら、パッケージジャケットを並べて楽しむポン様に尋ねた。
泉は映画もドラマもあまり見ない方、どちらかと言えば関心が無い。
ネットでの話題探しで、トピックスになっているものを少し追ってみる程度。
追ってみても、学校でそれを共有する友達がいるわけでもないという孤独さ加減。
有紀はテレビの流行より自分の足で話題探る活発なタイプで見つかった話題を自分は提供される側。
鳩子もそれ程テレビや映画を熱心に見るタイプではなく、雑誌と流行をひたすらに追求し、気になったものを教えてくれる。
二人の後追いだけが現状で、自分から何かを探した事はない。
止まない雨を見つめ、つまらなそうな顔を晒している泉にペンギンはあきれ顔を見せた。
『映画は面白いちょ、人間の持つ感情の機微をうまく凝縮したもの、見て学ぶ事は大きいっちょ。泉は積極的に愛を学ばないっちょなー、だから心ない子になってしまったっちょ、そんなふうだとアルンのようになってしまうっちょ』
「地味に傷つくよ……心ないとか……って、アルンちゃんって心がないの?」
棘のある物言いに質問する。
ポン様は余程にアルンが気に入らないようで口開いて名前がでれば必ず悪く言っている。
泉の質問に、鼻息を鳴らし小さなチェック柄のクッションに寄りかかっるとポッキーをかじりながら答えた。
『妖精風情に心なんか無いっちょ、あれは人間を真似て行動しているだけっちょ。本質は虚で空を流れる雲みたいなものっちょ』
「もどき……じゃあ、怒ったりしてたのも真似なの? 本気っぽかったけど」
机の上に作ったリビングで寛ぐ相手に、少しずつ話しを聞く。
泉は夢の中で見た女の子はアルンに似ている気がしていたし、彼女についてまだ知らない事も多い。
突然起こった事件の渦中にいるのに、何が起こっているのかを知らな過ぎるのが気になり始めていた。
『ああ真似っちょ、元々地中の妖だ。あの姿だって……良く出来てはいるが人を真似て作っているだけちょ。贋作の人形っちょ。それでも今の泉よりは良く出来てる』
「どーいう意味よ、私は人間だよ、作り物じゃないよー、本当に傷つくでしょ」
反論する泉の顔に、ポン様はケケケとペンギン笑いを送ると。
『泉は人間だけど、人間の持つ楽しみを謳歌してないっちょ。ただ学校に行って帰る。映画も見ないし、ドラマも見ない、おしゃれ雑誌も見ないし、思いを寄せる男子もいない、素っ気ないっちょ、全てのことに』
「いいんです、私は私らしくしてるからそれでいいのです!!」
『らしく……かっケケケっちょ』
薄い胸を抉る発言に、強気な反抗をしてみせる。
立ち上がり雨に濡れてもいい服を選ぶ泉は背中で聞きながら、最近は姿を現さないアルンの事を思い浮かべた。
「ねえ、ポン様……どうして私は、アルンちゃんと喧嘩しなきゃいけないの? ニムルさんとか、正直知らない人なんだけど」
『ニムルが復活したら人間界に大きな影響を及ぼす事になるっちょ、知る知らないなんて些細な事っちょ』
「でもさ、何も知らないまま戦えーって、それだとやる気に関わるでしょ」
『ほう、やる気……それは大事っちょな』
根本的な部分が抜けていて、いつも流されるままに戦ってきた事を不可思議と首を傾げる泉に、ポン様は新しいポッキーを丸呑みしてから羽根を腕組みすると。
『ニムルというのは前にも話した神だ。ただし下の下の下の存在にして従属神ってヤツちょ、簡単に言うと自然神の端くれちょな』
「自然神?」
『神世界では次元を割った異なる世界に、別の世界を作るための作業があってっちょ、ニムルは水や氷を育成するのを仕事としていたっちょ。そんなヤツが何を勘違いしたのか上位神と同じように生物を作った。それが事件の始まりっちょ』
曰く、神様達は役割分担をして色々な物を作っていたのにニムルは自分の分野ではないものを作ろうとした。結果はノウハウもない思いつきで創造を行ったため、世に悪と見なされる醜悪な生物を作り上げる事になった。
そしてそれらの化け物は上位神達が作った生物・植物を駆逐し、我が物顔で最初の世界を壊してしまった
当然上位神達は怒り、ニムルはその罰として氷の園に沈められたという話
「罰で沈めたの?」
『そうっちょ、かりにも神ちょ、滅ぼすことは出来ないから反省しろという意味で氷の園という獄舎に落としたっちょ。次に神々が目覚めるまで閉じ込めるという寛大な沙汰っちょ』
「でも今はそこから脱げようとしている……、アルンちゃんが脱獄させようとしているって事だよね、この人間界に」
少しずつ話を纏めようとする泉
しかし相変わらずスケールが大きいので、その辺りはかいつまみの状態。
『脱獄は元より、人間界に降りようなど浅はかな考えちょ。神は人の世界に降りない』
仕度しながら泉は耳を傾けた。
高次元の存在である神は、人間とは別の生活サイクルを持っているというのは以前にも聞いていた。
神々は現在就寝中。それで自分が神様の代わりにアルンと喧嘩する事になっている。
「えー、じゃあ本当は来られないの? だったら別に私いなくても良いんじゃない。人間界にはこられないんでしょ」
『そうだっちょ、本来ならそうだったのに……アルンに入れ知恵したヤツがいるんだなー、妖精程度の知能では考えられないような事を……』
羽根で黄色のアイラインを撫でながらポン様は話しを続けた。
アルンという妖精はかれこれ何千回、何千回もニムル復活のために、眠りについた神世界を護るエルルと戦っていた。
しかし元が卑しく力の無い地の妖精であるアルンでは、神々の実行力代行にして天空の精霊であるエルルに勝てた事が一度もなかった。
「何万何千回、アルンちゃんって何歳なの? ていうか、そんなに失敗してるのなら諦めたらいいのにー」
気の長い話に泉は少し呆れたが、そんなに負けても戦う意味を強く知りたくもなった。
『神世界ではエルルには勝てないっちょ、精霊に敵う妖精などいないからなっ、そのままならいつまで経っても勝てずにいたハズなのにある日、アルンは人間界に戦いの場所を移したっちょ』
高次元の存在であるエルルとまともに刃を合わせたら、消滅させられるおそれが常にあったアルンが突如知恵を働かせ、自分に合う戦場を選び出したのが人間界だった。
創造を司った巨大なる力の塊である神には、微弱な人の世はガラスで出来た割れ物の世界に等しかった。それ程精巧に作られていると言う事なのだが、神が降りるには無理のある場所であった。
同じように神の精霊であり、高次元の存在であるエルルが人間界に降りるのは大変な苦労だった。
逆に妖精は人間界にもそれなりに生息しており、アルンには有利な戦場だった。
精霊と互角に戦う事が出来る場所として人間界は選ばれ、そこでニムル復活に必要なエネルギーの採取を始めた。
ただ人間界からではニムルを埋めた氷の園を直接たたき割るという事ができない。
唯一そのエネルギーを作り出せる元素は「愛」だった。
そのため人間の持つ「愛」を負に転換する絶望をエネルギーとして、次元ごとかち割ろうと企んだ。
人間界に降りて年月をかけ蓄積を重ねていたが、10年前から驚くほど飛躍的にブラックハートを集め現在最終段階に入っているという。
「つまり……ニムルさんのいる氷を次元ごとかち割られたら人間界に復活を果たすと、そういう事? ていうか、なんで最終段階になるまでほっといたの?」
『どうしてそこまでいっちまったのかはこっちが知りたいっちょ、非常事態だから、慌てて飛んで来てみれば、エルルも……バルキュリアもいない!! 腹が立つっちょ!!』
投げた返事と開く嘴、目線は泉を見つめて苛立ちに痙攣し始めていた。
バルキュリアという何度か耳打った存在の名前に興味はあったが、聞き入るには勇気がいるほど、怒りが嘴に表れているポン様。
言葉なく止まった泉に、大口を開いてゲップをしたポン様は、雨に濡れた窓を見つめると。
『解っているのはニムルがこっちの世界に復活したら、存在のパワーにより世界のバランスが壊れるって事。人間にとって良く無い事態が発生するのは確かで、その日は近づいているって事っちょ。だから泉は戦わないといけない……そういう事っちょ』
どこまで本当なのかという疑いの目を見せながら、泉はとことん呆れていた
色々な事が後手に回って、こんな事件の尻ぬぐいに自分のような凡庸な人間が選ばれたと。
「神様寝なきゃいいのに……」
思わず愚痴る。
『だったら人間も寝なきゃいいっちょ』
ジト目のペンギンは見る見る曇る空模様の機嫌でにらみ返した。
何もかもを神様の責任にされるのは心外であるという主張は行動に表れている。
人間も寝ないと辛い。
神様もそうなんだろうと泉は取りあえずでも納得して見せた。
これ以上話してもポン様の機嫌は悪化の一途で、今度は額に大穴を開けられる気配を背筋に感じた泉は、注文どおりレンタルショップに出ようと部屋のドアを開けた。
「ねぇ……なんで愛がエネルギーなの?」
『愛だけは、どの次元においても不変の事象であり無限のエネルギーだからっちょ』
後ろ手で閉めようとするドアの向こう、仁王立ちのポン様を見る。
「やっぱりわかんないよ、私みたいな子供にそんな難しい話……」
『だったら我に従い、指示のままに戦えばいいっちょ。我が世界を救いに来ている事は間違いではないっちょから』
「はあ……」
小さなため息、少し小ぶりになった雨の中を独り、聞かされた壮大な神話を繰り返し頭の中で反芻してみたが、そんな大きな事件の中で自分の存在にどんな価値があるのか?
そういう後ろ向きな結論しか出せなかった。
「おはようアルン」
「おはよう……ニギラ」
アンティークの長椅子で眠っていたアルンは腰までかかる黒髪を整えながら、水晶部屋のドアを開き、テーブルの上に鎮座するニギラと挨拶を交わしていた。
手に持った桶に湯を張り、テーブルに置くと町を見る事のできる窓際に歩を進める。
黒を基調とした服装
チョーカーに、ニギラと交信をとる赤い石を付け直し、梅雨時の湿るシーズンに合わせた軽めのシースルーの上着、さらに上に大味に編み込まれたストールに重ね着して、仄かな色気を出している。
下はタイトミニ、前はオーバーニーのブーツだったが、今日はハイソックスという軽い出で立ち。
『アルン、装いを変えたのだね……良く似合っている』
用意された湯船に身を沈め赤く丸い目を楕円に溶かしたニギラの賛辞に、アルンは雨を見つめて答えた。
「いつでも綺麗にしておくものだ……この身はニムル様から頂いた物、いつ如何なる時であっても美しくあるべき」
雨を写すガラスに、写り込む自分の顔、唇に手を当て何度か顔の角度を確認すると。
「どうだ、今日はルージュも変えてみた」
『とても良く似合っているよ、君は本当に美しい』
緩急のないニギラの声だが、褒められるのは嬉しいらしい、少し顔を赤らめたアルンは髪を掻き揚げた手を水晶に向けた。
「早くニムル様にも見ていただきたい、臣たる私の姿を」
ここ何日かブラックハートの採取は出来ていない。
雨のせいではなく、ニギラが撒いた種を待つ時間をアルンは恨めしく感じていた
人間界に降り、自分に有利な状況の中でも何度もエルルに負けた
人間側のガーディアンであるバルキュリアとエルルの共同作戦で、儀式の場所を何度も潰された。
逃げ回り、儀式にふさわしい地脈を探し、戦いまた逃げる。
繰り返した日々。
だが10年前、招集権を持ったバルキュリアを倒すという大金星を挙げた時、ニムル復活への道は大きく前進した。
人間界からの助けを得られなくなった天空精霊エルルは、別次元での活動時間に大きな制約をかけられ、30時間戦闘(約1日)においてついにアルンに敗北しこの世界から消えた。
自身も大きく傷つき回復に8年を要したが、自分を凌駕する脅威を取り除く事に成功した。
「あと一息……あと一歩……」
そこから次元を越えられる唯一のエネルギーである「愛」の暗転ブラックハートを集めた。
後少し、唇を震わせこぼれ落ちる繰り言がごとく、気持ちに拍車がかかり、拳を握りしめる。
後一歩。
今までどかなかった大願成就の最後の扉の前に、難敵は現れた。
「アイレシオン……」
人側の守護にしてバルキュリアの棟梁、バルキュリアの合議によって選出される最強の牧者は突然の出現した。
順序を超越して、自分の前に立ちはだかる事になった存在。
簡単に言えば、エルルの能力を持った人間。
自らの次元世界を守る守護者の力は強力で、地べたを這う妖精だったアルンにとって最大の脅威出現に歯がみする。
苦く唇を歪めたまま窓の外、町を見つめる背にニギラは心をほぐすように言う。
『アルン、顔を歪めるものではないよ、美しさを損ねる。僕の撒いた種が熟成するのに後少し……この種が愛を狂わせば質量ともに十分に間に合う』
「わかっている……でも、いつまでもニムル様を冷たい氷の中で待たせたくない。早くお会いしたい……」
『ニムル様は君の忠義を誇りに思ってくれる事だろう。会えるその日を待っていてくださる』
何度目か窓打つ雨に、唇を噛んで目線を走らせたアルンは大きく深呼吸をすると振り返った。
「そうだ、新しい映画が見たかったのでは」
用意された桶に体を沈め、お湯を味わって伸びた耳のニギラは閉じた目のまま頷くと。
『新作だね。続きが見たかったよ。あれはいい、是非続きが見たい』
「借りてこよう、愛憎万歳のあれだな」
『そう、愛憎万歳のあれだね。君と見よう』
ニギラは長い耳を揺らし催促をしてみせる。
アルンは音を潜め威力を落とした雨を見てドアに向かった。
『アルン、人の世界にある「愛」を良く見てくるといい、そこにボク達の欲する闇はあるのだから。だが慌てずゆっくりと……』
重ねて慎重にと告げる相方に、アルンは髪に手を当てると色を黒から金に、目の色も赤から青へ、つり上がった目筋を押さえた形へ、変装を整えると声に張り無く応えた。
「わかっている……」
「こちらでお待ち下さい」
泉はおかしな対応をされたと思いながらもレンタル屋店員に導かれ、店に併設されているラウンジに向かっていた。
この町は全体を見回せば、すぐに解るほどの水の町。
一級河川が太く通る事で広がった海岸線、最近ではウォーターフロントに大型ショッピングモールが軒を連ねる。
水の上に作られたガラス張りの橋や、店舗。
近代的なデザインと技術の推を詰めた建物もあれば、旧市街に繋がる街道と河川を埋めたレンガ造りでヴェニスを模した趣有る店も多い。
特にヨーロッパを模した作りは町の至る所に現れており、前回派手に壊した(後で直った)裏路地までレンガで作りとこだわった箇所の見られる町だ。
泉は自宅マンションから離れた海際に並ぶショップの規模に気後れしたまま店員に導かれていた。
こんな大きな店舗の大量に並べられた棚にあっても、新作は全て貸し切り。
雨の中、無駄足を運んだのを後悔しながら、初めて訪れた店舗周辺を散策しようとしたが。
「少し待てば返却がありますよ。どうですお時間が許すのならばラウンジでお待ちになっては」
笑顔の店員の前に、勢いを増した雨も手伝ったのか進められたテーブルに腰を下ろしていた。
用意されたオレンジジュースを片手に、初めて足を運んだ新興のショッピング街を眺めていた。
色とりどりの傘と、人の群れと、家族達。
「雨なのに多いねー、人……」
手を繋ぎ桟橋を歩く親子を追う目の前、同じテーブルに座っていた顔と目線が合ってしまった。
自分と同じように新作の貸し出しを待つ彼女は……第一印象からして「美少女」だった。
「どうも……」
合わせてしまった目、無視する事も出来ない近さの相手に小さく会釈する
正面の彼女も、泉の様子を見ていたようで同じように小さな会釈を返した
「こんにちは」
金色の髪、青い眼、鼻筋の通った整った顔に、シックなカラーの今年新作のルージュ。
黒を基調とした衣装のせいで白い肌の上に添えられる美しい部位は際だって目立つ。
泉は自分の見窄らしい姿を恥ずかしく思うほど、正面に座っていた彼女は美しかった。
自分を見直すと雨に濡れてもいいように着た服は、ダメージジーンズに、大きめで体に合わないTシャツ、湿気に踊った癖毛を隠す野球帽。
あまりな比較絵図に、目が泳ぐ。
頭の中には自分を卑下する言葉がフル回転だ。
逆に相手に対しては絶対の一言、これしかないという言葉が浮かぶ。
……綺麗。
小さく体をたたみたくなる程の美貌を前に、湖水色の瞳に見つめられ顔が赤くなっていた。
気が付けば店員達は、この子をここに留め置きたかったのだと理解ができた。
窓辺を飾る花のような彼女の姿に、多くの人が羨望の眼差しを向けている。
自分が引き立て役を完全にこなしているという惨めさに俯いた。
「貴女も返却待ちなの?」
小さくなってストローにかじりついていた泉に、彼女の意外にも抑揚少なく淡々とした声がかかった。
顔からすればもっと柔らかくウェットなイメージを持っていたが、どちらかと言えば事務的な雰囲気。
「そう、そうなんです。宅の者がどうしても見たいって言うので」
聞かれてもいない事まで焦って答えた泉に、彼女は一度目を大きく開くと。
「私もそう、家の者がね、好きで……一緒に見るのです」
笑えばもっと綺麗だろう。
輝く顔の前に私が溶けてしまう……そういう思いでいっぱいになっている泉に臆することなく顔を近づけると。
「貴女も家族と見るの?」
彼女は丁寧に話しを進めた。
「いいえ、あーっと」
まさか家で待っているペンギンの人形が見るとは言えない。
正直痛いところに飛んだ質問だと苦笑いを浮かべて。
「えーと、独りでかな、たまに友達とか……かな?」
宅のと言っておきながら、返せない答えに大転倒。
滑りまくっている自分の言動に、恥ずかしさが顔どころか体のまで熱くすると苦笑いで逃げるように言い訳をした。
「うちは……両親ともほとんど家に帰ってこないから、まーどうだっていいんですけどね。帰って来ないから、適当なんです。適当に友達が来て映画見て、それで」
「どうして家族で見ないの?」
思わぬ反論に、背筋が固まった。
なんでそんな事を言われないといけない? 熱くなった体の芯に怒りが混ざりそうになったが、そこは人前、店の中。
気持ちを抑えたのは、彼女の心配そうな目にもあったが、変な質問だと思いつつも素直に答えた。
「家族なんて……たまたま一緒に住んでるだけですよ。お父さんなんて今や住んでもいないし帰ってもこない。家にはいつも私独りでいるんです。帰って来ない人とは一緒に見ないでしょ。だから友達が来て、映画見て……本当に適当な流れで暮らしてるんです」
見ず知らずの人に愚痴、かっこ悪いと思いつつ。
嘘を器用に使えば良かったのだが、目の前の輝く瞳には見抜かれそうと諦めた泉は本当の所を淡々と話した。
結局のところ、それが真実でやましくない現実だと。
「貴女みたいに綺麗だったら……お父さんは、帰ってくる楽しみになちゃうよね」
両親の帰らない部屋、会話の無い家、独りで暮らすには広すぎる場所に小さく丸まっている。
そういう部分も込みで彼女に色々負けた、白旗を景気良く空元気で振って見せた泉の顔の前に、美少女は息のとどく位置にいた。
「あの……」
思わぬ至近距離、青い眼はランと輝き肩を捕まえると。
「だったら!! 貴女も綺麗にすればいい!! うんう、むしろするべきだわ、どうしてそんな手抜きするの!! そこまでわかっていてそんな姿をさらしているのならば……これは罪だわ!!」
「罪ぃぃ」
丸まった背中を叩くような一言は、強く一歩を踏み込んだがその後はさらに三歩踏み込んでいた。
反論ままならない泉をつかまえて両手に力を込めると。
「貴女が綺麗を実践すれば!! 両親にとって誉れでしょう!! それを望まない親などいないでしょう!! いいえ望んでいるハズよ!! そうする事によって両親は貴女に会いに戻って来る。これは絶対なのよ!!」
「絶対……なんですか……ほら、でも、ベースの違いって覆らないじゃないですか。なんていうか私は地味でしょ、顔のっぺらで、鼻ぺちゃで、髪も癖毛で」
「言い訳しない!! ベースがなんだっていうの!! 私だって元は……元は酷かったけど、努力してここまでになったし、癖毛なら癖毛で綺麗にする方法や見せる方法だってあるというもの!!」
顔に向かって指差し、声で揺さぶる怒濤の攻勢。
彼女のテンションは最初の会話と明らかに違い、高かった…まるで突然立ち上がった山のように、そして泉の心は塩をかけられたようにタジタジだった。
「望んでる……かな?」
このテンションは、いや突然起こった波は有紀とは別の情熱の塊。
引きつった顔で聞き返す泉に、彼女は顔を付き合わせている。
なんとなくだが、これ程の美少女に言われるのならば御利益がありそうと思ってしまうほどに。
「私みたいに地味子に、そんな事、望むかな……、それで帰りたくなるのかな…」
「望んでいる!! 絶対に!! そして貴女に会いに戻って来る!!」
迷いのない返事は最早清々しい、清浄な空を見るような青い瞳に頷いた。
「がんばります……」
「頑張るのよ!!」
精一杯の泉の返事に、彼女は肩をつかまえていた手を離すと、自分の胸の前に手を組んで、今度は静かに口を開いた。
「私は……まだこの身になって一度もお父さんに会ったことがないの、でも、いつか戻って来たときに……その時に優しく微笑んで欲しいの。だからいつでも綺麗している、いつでも綺麗な私を見ていただきたいから、努力をするの」
「会った事ないのに……」
「そう、でも会った時、その時、私はあの方の誇れる姿でいたいの」
努力……。
赤の他人にここまで言われる自分を泉は恥ずかしく思った。
確かに綺麗を努力してない。
それは流行を追うとか、ファッションに目を光らすとか、そういう事ではなく
一人間として、両親に大切と想われる程、自分の心と体を磨いていない事だと反省した。
まだ見ぬ父のために努力をしている彼女の姿がまぶしいのは当然。
会おうと思えば手がとどくかもしれない自分が、努力もなしに適当に過ごしている事を恥じた。
家族が戻らない、両親にとって自分の存在の意味がわからない、わかろうとする気力もないで。
非常事態と言われ戦う日々に入ったけど、それも今や惰性だ。流されてポン様の指示で戦う。
何もかもが自分で選んだ事じゃないと、何もしてないのに落ち込んでいた自分に気が付いて、締まらない笑みを見せながら。
それらに対して自分が一度として真面目に向き合っていなかった事を知った。
「ありがとう、私、頑張ります。がんばれる気がするから……」
急にお礼を言われたことに我に帰ったのか、彼女は自分が中腰になって相手を説教していた事に動揺してイスに座り直すと。
「私は、努力は必ず報われると信じているの……だから貴女も頑張って」
気恥ずかしそうな顔に、今更と思いながらも泉は答えた。
「うん、少しずつでも頑張る。私には会えるお父さんがいるのだもの、頑張らないとダメだよね」
自分の行動力の範囲を踏まえた返事を、はにかみながら答えた。
「そうよ、努力は重ねるだけの意味はある。どんな事にでも重ねた分だけ得られるものがある」
青い涼しげな目は少し寂しそうに、でも「良し」と納得したように頷いた。
すっかり晴れ上がり、水面に太陽が光の影を落とす道を泉は軽やかに歩いていた。
レンガの溝に残る雨の残り。
照らされて香る道に、自分の中で勝手に渦巻いていた不安を振り払えた気分で泉はスキップをしていた。
自分を置いて回りが動き続けている事を恨み続けるより、自分もアクティブに…少しは前向きに努力すべきだと思い直せた彼女の事を思い出して。
「そういえば……あの子の名前、聞くのを忘れちゃった」
小脇に抱えたDVD。
ラウンジで会った美少女は、先に戻った物を譲ってくれた。
なんとも気持ちの良い体験をしたと、心をホクホクさせて。
「今度会ったら名前を聞こう。友達になれたら……ステキかな……」
見ず知らず、今日初めて会ったのに自分の心に踏み込み色々と教えて暮れた美少女。
彼女の横に並んで恥ずかしいと自分を貶めない程度には頑張りたいと、拳を握った。
「努力は……必ず報われる……」
泉と別れ洋館への道を歩くアルンは、自分のかけた言葉を何度も繰り返しくちずさんでいた。
「そうよ、報われないなんて……あり得ない」
報われる、それは何度も倒され、倒れた自分の心を蹴った言葉だった。
最初はニギラが自分に教えた。
負け続け、体が言う事を聞かなくなるほどに傷ついたときに、ニギラが自分を支え、神世界ではなく、人間界に戦場を移すことを教え、後一歩のところまでやってきた。
「嫌だ、これ以上ニムル様を待たせたくない……」
首を振り。
「ううん、早く……早くお会いしたい、私にこの身をくれたあの方に……」
逸る気持ち。
いつも終局に近づく程に慎重であれと、行動のペースを落とすニギラ。
解っている、解っていると、最後に近づけば当然冷徹であるべきだとわかっている。
「わかっていても……我慢は出来ない!!」
俯いていた顔を上げる
小高い坂の途中を振り向けば、太陽が残した横一直線の光水平線が見える
「明日、水門方陣をやぶり水脈を取る……その力でアイレシオンを討つ」
勝算はある。突然現れたアレが本物のアイレシオンなのかは未だ疑問の残る所。
ニギラが育てている種が芽吹くのには、後三日はかかる。
その間に敵は力をつけるかもしれない。
しかし今なら、自分単体でも勝負を付けられる可能性もある。
戦い方をいちいち精霊に聞かなければならないような相手ならば……
「私にも勝機はある」
アルンのハートは焦りと怒りで燃えていた。
人に語って聞かせるほど。
あのラウンジで出会った少女に、前に進めと叱咤したのは、終末に近づき弱気な心を粟立たせている自分の為でもあった事を改めて確信すると、一陣の風を身にまとい変装を解いた。
赤色の中に黒い弾を浮かべる瞳、腰まで伸ばしたストレートの黒髪。
頭から足先まで綺麗に整えられた姿は、長い影を坂道に残した。
「私は美しい、この身を与えしニムル様のために戦う!!」
孤独な決意を握りしめて、空に舞い上がった。




