一年生一月:ゆかりのお見舞い④
ヨスガが食器を洗って戻ってくると、ゆかりが「なるほど、確かに良いモノですね」と呟いた。
ヨスガはロクな事を考えていなさそうだと思いつつ、「どういう事?」とゆかりに訊ねる。
「文化祭準備期間の時に、ゆえさんから台所にいるヨスガくんが良いって聞かされていたんです」
本当にロクでもない内容でヨスガはため息をつく。
「変な事言ってないで歯磨きしてください」
ヨスガが寝支度を促す。
ゆかりは大人しくそれに従って歯を磨きに行った。
ヨスガはゆかりの本棚を遠目に眺めながら、自分がまだ何も伝えられていない事に焦る。
このままゆかりが眠ってしまってなぁなぁのまま解散するのは嫌だった。
「さて、そろそろ眠りましょうか」
そんなヨスガの焦りが届く訳でも無く、ゆかりは就寝の準備をする。
「まだおかゆ食べたばかりだし、少しゆっくりしたら?」
苦し紛れにヨスガが雑談の機会を探ると、ゆかりは微笑む。
「冗談ですよ。まだヨスガくんとお話していませんしね。でも、ヨスガくんが謝ったらふて寝しますね」
ゆかりがベッドに腰かけて、ヨスガに隣に座るように促す。
ヨスガがそれに従って腰かけると、ゆかりが寄りかかった。
「昨日の事でわたしがヨスガくんから言われたい言葉は、『お見舞いにきてくれてありがとう』だけです。ちゃんと心をこめて言ってくれないとダメですよ?」
ヨスガの耳元に甘い声がかかる。ゆかりの体温と共に脳が痺れるのを感じた。
これまでのゆかりの優しく寄り添う声とも違う、しなだれかかるように甘ったるい声だった。
ヨスガはそれに困惑し、固まっている。
「言える事が無くなっちゃうよ」
「そんな事無いですよ。ヨスガくんの後悔そのものが間違っているんです。もっと強い言葉で病人は寝るのが仕事って事を伝えないと理解しませんか?」
先ほどの甘い声と打って変わって、ゆかりの声は有無を言わせない物だった。
「あの時のヨスガくんに出来る事なんて何も無かったんですよ。自覚してください」
ゆかりの厳しい言葉にヨスガは目が点になる。
「は、はい」
「わかれば良いんです」
そう良いながらゆかりはヨスガを斜め後ろに寄り添うように押し倒す。
突然の事にヨスガは慌てる。染みついたゆかりのにおいにヨスガは心拍数をさらに上げる。
「ゆかりさんからあんなに厳しい言葉が出ると思わなかった」
緊張を抑えながらヨスガが言葉を絞り出す。
「そんな事無いと思いますけど」
「普段は時々チクチク言われるぐらいだったから、完全に否定されてビックリしてる」
「間違ってるって思ったら断言くらいしますよ。というか、チクチクって言い方はひどくないですか?」
仰向けに横たわるヨスガの方を向きながら、ゆかりがヨスガの事を指でつつく。
「それはごめん。あ、これは違くて」
「そんなに慌てなくたってふて寝しませんよ」
頬を膨らますゆかりに思わず謝ってしまったヨスガをゆかりが笑い飛ばす。
「あおいちゃんのお節介、覚えていますか?」
ひとしきり笑ってゆかりが訊ねる。
「もちろん」
ヨスガが頷く。
青井の忠告をヨスガが忘れた事は無かった。
先延ばしにするべきではないとヨスガは理解しているが、答えを得るのがヨスガにはまだ難しかった。
「わたしはわたしの気持ちに名前を付けましたよ」
その言葉にヨスガはゆかりの方を向く。
ずっとヨスガの方を見ていたゆかりと目が合う。
「別に急かしてるわけじゃないですよ。ヨスガくんがびっくりするくらい鈍感なのもそうですけれど、中学生の頃の出来事も考えれば、じっくりゆっくり自分と向き合うべき事でもあります」
ゆかりは自覚しながらチクりとヨスガを刺す。自分のカミングアウトが事実上の告白ではないかと思い、それを誤魔化すためだ。
「どうして今それを伝えてくれたの?」
ヨスガは自分の事を棚上げにして、図書館の天使事件から二ヶ月近く経っている今、なぜゆかりが話したのかを訊ねる。
「昨日気づいたからですよ。きっかけは秘密です」
「それは言ってるようなものなんじゃないかな」
「さすがのヨスガくんでも気づきますか。でも、秘密は秘密です」
ゆかりは笑って誤魔化す。ヨスガと目を合わせながら交わす些細なやり取りを、ゆかりは幸福に感じていた。
「いつか答え合わせしましょう。十年くらいは待ちますよ」
ゆえの事を考えながらゆかりは言葉を紡ぐ。
「遅くならないようにするよ」
「はい。約束ですからね」
ゆかりはヨスガの手を取って指切りをする。
我ながら子供っぽいなと笑いながら、ヨスガと約束を交わした。
「まだわがままして良いですか?」
指切りしたヨスガの手をそのまま自分の手で弄びながらゆかりが訊ねる。
「もちろんいいよ」
ヨスガの即答にゆかりは喜びが溢れる。
「ヨスガくんは甘過ぎです」
「誰にでもそうなわけじゃないよ」
「そんな事言ったら勘違いしちゃいますよ」
「どうして散々わがまま言ってるのにこういう時は自己評価が低いの」
ヨスガが苦笑する。
今日出会ってからずっと難しい顔をしていたヨスガの表情が緩んでゆかりも心が緩む。
「細かい事は良いんですよ。このまま、手を繋いでいて良いですか?」
二人寄り添って寝転がったまま、ゆかりがギュッと手を握る。
ゆかりの熱がヨスガにも強く伝わってくるのを感じる。
「それは」
ヨスガが口を噤む。
「もし踏ん切りがつかないなら、ヨスガくんが抱えたままの罪悪感を無くすためっていう理由を作っても良いですよ。わたしは気にしていませんけどね」
ヨスガの心にゆかりが助け船を出す。
「まだお見舞いに来てくれた事の感謝もされていませんからね。大人しく側にいてください」
ゆかりが握った手を組み直して指を絡める。
戸惑うヨスガがゆかりの目を見る。
ゆかりの強引な言葉とは裏腹に、ゆかりの目は緊張で揺れているようにヨスガは感じた。
「わかった。そしたらちゃんと横になろうか」
ヨスガは決心し、ゆかりの手を握ったまま起き上がる。
絡められた指を離して、ゆかりの背と膝の裏に手を添えて持ち上げる。
ゆえよりも背丈があるとはいえ、ヨスガが抱きかかえるのは容易だった。
ヨスガは枕の位置にゆかりの頭を乗せて寝かせた。
ゆかりは顔を真っ赤にしていた。
ヨスガに身体を抱きかかえられた事、その腕力にときめいて胸の高鳴りが止まらなかった。
ヨスガのお姫様抱っこは、ゆえから聞いた話よりもずっと劇薬だった。
「大丈夫?嫌じゃなかった?」
黙りこくるゆかりにヨスガが心配そうに声をかける。
「だ、大丈夫です。あ、歯磨きましたか?」
ゆかりは訳のわからないことを口走る。
文化祭の夜の我慢比べでヨスガが歯を磨く前に寝落ちてしまった事を思い出していたら口に出ていた。
「大丈夫だよ。帰ったらすぐ眠れるように、ここに来る前に済ませてきた」
そう答えながらゆかりに掛け布団をかけて、片手でゆかりの手を握り、指を絡める。
「そ、そうですか。それなら良かったです」
ペースを乱されたゆかりは、空いている手でアイゾメヤドクガエルのぬいぐるみを掴んで胸の上に置く。
眠る前の習慣がゆかりの頭を冷静にさせる。
少し間を開けて、ゆかりがヨスガの方に視線を合わせて口を開く。
「本当はゆえさんにもヨスガくんにも会うのが怖かったです。心ではすごく会いたかったのに会いたくないって思っていました。おかしいですよね」
ゆかりがぬいぐるみをギュッと抱きしめて気を落ち着けようとする。
「けれどやっぱり二人に会えて嬉しかったです。一人で床に伏せるのは寂しいですね」
その言葉にヨスガは握っていたゆかりの手をもう片方の手で優しく包んだ。
ゆかりはそれだけで心が満たされていた。
「ゆえさんとは少し喧嘩腰で話してしまいました。心配しないでください。ヨスガくんには秘密ですけど、もっとゆえさんの事が大好きになりました。
今の見た目を整えてくれたのもゆえさんなんですよ。その、わたしがヨスガくんに可愛く見られたいって言ったら全力を尽くしてくれました」
照れくさそうにゆかりが笑う。
「ゆえさんに勇気を貰って、ヨスガくんにも会えました。そしたら、ヨスガくんの方が深刻な顔をしていて困っちゃいましたよ。
わたしはヨスガくんが思っているよりも厚かましくて欲張りな女の子だって今なら理解できますよね?だからもうそんな顔しないでください」
にこりと笑いながらぬいぐるみを抱いていた手をヨスガの頭に伸ばして撫でる。
ヨスガは黙ってそれを受け入れる。
「ヨスガくんが遠慮しないように、これからゆえさんに負けないくらいヨスガくんの事振り回しますね」
ヨスガを撫でている手で髪を掴むようにクシャっと撫でる。
ゆかりの少し乱暴な手つきがヨスガには心地よかった。
「勘弁して欲しいところだけれど、わかったよ」
「それで良いんですよ。だから、今日最後のわがままを聞いてくれませんか?」
「聞いてから考えるよ」
「即答してくださいよ」
ゆかりがムスッとした態度を取る。
「ゆえみたいに扱ってるだけだよ」
「それは嬉しいですけど前言撤回します。わたしはききわけがよくておとなしいおんなのこです」
ゆかりの露骨すぎる棒読みにヨスガが思わず吹き出す。
ヨスガの心の靄はすっかり薄れていた。
ヨスガが空いている手でゆかりの頬に触れる。
ゆかりは触れられた快感でぴくりと身を震わせる。
「わかったよ。わがまま聞かせてくださいお姫様」
お姫様扱いにゆかりは顔から火が出そうになる。
「本当に罪な男です」
ゆかりはぼやきながらヨスガと絡め合っていた指をほどく。
その後、壁際に移動してからポンポンと空いたスペースを手で叩く。
「一緒に眠って欲しいです。眠気で変になってるわけじゃないですからね」
ジッとヨスガの事を見つめながらゆかりが言う。
「ゆえならお願いじゃなくて命令してくるかもね」
ゆかりの空けたスペースにヨスガが入り込み、ゆかりはヨスガと壁に挟まれる。
「ゆえさんのお見舞いをした時、最初は添い寝してくれなかったって聞いていたのでとてもドキドキしています」
「ゆえはどんだけ暴露してるんだ……。ドキドキしたままじゃ眠れないし、やっぱりやめておこうか?」
ゆえに呆れながらヨスガが言うと、ゆかりがヨスガを逃がさないように腕を絡ませた。
「ヨスガくんはいじわるです。そのまま抱き枕になってください」
ゆかりが仰向けのヨスガの腕を身体に寄せながら抱きつく。
ヨスガは当たってはいけないところに手が行ってしまわないか気が気ではなかった。
「ヨスガくんから抱きしめても良いんですよ?それなら自分で手の位置を動かせますしね」
ゆかりがヨスガの腕を解放して待ち構える。
ヨスガは抱きしめた方が気が楽だと思い、ゆかりの首元に腕を通して、背中を覆うようにしてゆかりを抱いた。
ただ添い寝をするという穏当な選択肢はゆかりに提案された時点で抜け落ちていた。
「ふふ、温かいですね。ヨスガくんの心臓も近いです」
ゆかりの言葉に、ヨスガは否が応でも鼓動を意識してしまう。
ヨスガはいつものように下半身を逸らせようとすると、ゆかりが脚を絡ませてきた。
「ゆかりさん、それは」
ヨスガは慌てて声に出す。
「ヨスガくんは気にしすぎです。もし、ヨスガくんがその、えぇと、自分では抑えが利かない状況になっても幻滅なんてしませんよ。
むしろ嬉しい、はちょっとはしたない表現ですね。でもまぁ、ヨスガくんなら良いんです。大体、抱きしめ合っている時にわざわざそこだけ気づくとも限らないじゃないですか」
ゆかりは口が滑りそうになりつつ説得し、脚を収まりの良いところに差し込む。
「ゆかりさん、俺、男だってわかってるよね」
ヨスガが意識的に語気を強くして確認する。
「もちろん。でも、それと同時にヨスガくんだから甘えてるんですよ」
「信用してくれているのは素直に嬉しいけれど、万が一だってある」
「自分の事が信じられないんですね。それならわたしが『ヨスガくんなら万が一なんて事は無い』って信じます。それに」
ゆかりが言葉を切って止まる。
「いいえ、なんでもないです。とにかく、ヨスガくんが信じられない分はわたしが信じるので、大人しくわたしのわがままに付き合ってください」
『ヨスガくんになら捧げても惜しくない』とはいくらゆかりが浮かれていても口にする事は無かった。小説だけの知識で耳年増な自分を心の中で呪った。
最悪、ヨスガに幻滅されてしまうかもしれないとすんでのところでブレーキがかかった。
ゆかりの心中と煩悩を知らぬまま、ヨスガはゆかりの言葉に感化されて、ゆかりをより近くに抱き寄せた。
「わかった。じゃあ、このまま眠ろう」
「はい、おやすみなさい」
照明のリモコンを操作して電気を消す。
ヨスガもゆかりも心臓が早鐘を打っていた。
ヨスガに包まれているゆかりは幸福に満たされていた。
「あの、今さらなんですけど、わたしの頭の下敷きになっている腕は大丈夫ですか?」
「一晩くらい大丈夫だよ。ダメなら腕を抜くし。毎日だとさすがにゴールキーパーに支障を来すかもね」
「毎晩わがまましても良いんですよ」
ヨスガの胸をぽか、と殴りながらゆかりが呟いた。
「冗談だよ。男女の出入りに寛容だからって、毎朝同じ部屋から出てきたら問題でしょ」
笑いながら抱き寄せた手をゆかりの頭に伸ばして優しく撫でる。
ゆかりはされるがままにしながらヨスガの胸元に顔を埋める。
「ヨスガくん」
顔を埋めたままゆかりが声をかける。
「はい」
「お見舞いにきてくれてありがとうございました。あと、病み上がりなのに風邪をうつしちゃったらごめんなさい」
今さらなゆかりの謝罪にヨスガは笑う。
「じゃあこれで風邪をこじらせたら、お互いに悪いと思っていた事は全部チャラ、と言う事で」
「それでヨスガくんの負い目が無くなるなら全力で悪化させますけど」
ゆかりがポカポカとヨスガを殴る。
「ごめんごめん。もう大丈夫だから、眠る前にこれだけ聞いて欲しい」
「なんですか?」
ヨスガがゆかりの耳元に出来るだけ顔を近づける。
「昨日はお見舞いにきてくれてありがとう。一人で風邪で寝込む事の心細さと、家族のありがたみを実感したよ。だから、ゆかりさんが頭を撫でてくれた時、とても安心した。ありがとう」
囁くようにヨスガ伝える。
「寝かせる気無いじゃないですか」
暗闇の中で呆けたゆかりが悪態をつく。
「まったくもう、最初からその言葉だけ聞ければ良かったんですよ」
ゆかりはヨスガの心臓に耳を寄せ、早鐘のリズムから穏やかになっていく心音を子守歌にする。
恋を自覚して、親友と喧嘩して仲直りして、想い人の腕の中で眠る。
ゆかりはこの二日間を忘れる事は無いと思った。
ヨスガの優しい鼓動に包まれてゆかりは眠りに落ちた。




